ユニバーサル・ミュージアムをめざして59
何日もかかって アフリカの森を歩いた事がある。
三谷 雅純(みたに まさずみ)
半年がかりで、アフリカ中央部の森を、歩いて旅した事があります。
土地の言葉で、わたしが〈ンドキの森〉と呼んだ森が出発点でした。広い広い無人の森でしたから、最初、その森に名前はありませんでした。しかし、その中をンドキ(=悪霊)川が流れていたので、そこから「ンドキ」という名前をもらったのです。その〈ンドキの森〉に初めて足を踏み入れてから、わたしはコンゴ人民共和国、カメルーンと横断し、ギニア湾にある赤道ギニアの洋上アルプス、ビオコ島を駆け上りました。消耗の激しい半年でした。わたしは、何とか自立して、誰も知らない森を自分の力だけで見付け、新しい調査地を開拓したかったのです。わたしは結局、つい最近、世界自然遺産に登録された〈ンドキの森〉、現在のヌアバレ=ンドキ国立公園 (1) を調査地にしたのですが、今、改めて思い出すのは、1988年から1989年にかけてのカメルーン南部の森での出来事の方です。
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それにしても、どうして人は不安に襲われてまで、未開の地に足を踏み込むのでしょうか? わたしも、〈ンドキの森〉という、誰も知らない未開の地に踏み込んだのですから、自分のことを振り返ってみればよいようなものです。カメルーンの森で出会った人たちも、ご本人が、あるいは高だか数世代前のひとりの男性が――不思議ですが、ことごとく男性でした――、カヌーで川辺を行き来して、家を建てる固い地面を捜したのでした。固い地面が見つかったら、近くに飲める水が流れているかどうかを確かめます。水が確認できたら辺(あた)りに生えている木の種類を見て、農地になるかどうかを見きわめます。農地になりそうだと判断し、そこに住む決心がついたら、焼き畑にするための最初のひと斧(おの)を振り下ろしておくのです。
この旅の最中に、なぜその村を開いたのかと問う機会が、何度かありました。
理由はいろいろでした。村が滅びてしまったからという話をよく聞かされました。
例えば感染症です。ある村は、かつて、もっと北にあったのですが、皆既日食の年、みんなで太陽を見ていると目が痛みだした。血の涙が出て、人びとは死んでしまった。その場所には、もう住めないからと、残ったもの何人かで今の場所に移ってきた。それがこの村の始まりだと教えてくれました。
別の村では、昔は千人を超えるほどの大きな村だったそうです。ある時、病気が流行り、人びとはバタバタと死んでいった。そのために村は滅びた。そして河川の何十キロも上流に、同じ名前の村を開いた。今は少数のバンツー農耕民と狩猟採集民のピグミーが、いっしょに暮らしている。新しく村を開いたのが、あの村長だと、椅子でくつろいでいる老人を指さして聞かせてくれたこともありました。
まるで、むかし話そのままです。わたしたちの周りにも、よくあった事に違いありません。しかし、何世代にも渡って、安定して暮らす事が当たり前のようになると、「人が死に絶える」とか「村が滅びる」というのは、日常感覚では捉えきれなくなってしまいました。わたしたちの普通の言葉で言い直すと、それは「コミュニティが滅びる」とか、「ひとつの地域が滅びてしまう」ことに当たるのでしょう。アフリカで村が滅びるというのは、それほど大変な事なのです。しかし、よくある、当たり前の事でもあります。
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バンツー農耕民は、もともとは、今で言うカメルーンとナイジェリアの国境近くに住んでいたサバンナの農耕民だったそうです。その人たちが、ある時、サバンナから森の中へと逃げ込んだという話があります。バンツーは北から南下してきた異民族に追われたディアスボラなのだそうです。その異民族もディアスボラなのでしょう。今から、三千年とか、四千年とかいう大昔の話です。我われにとっては縄文時代に当たります。
サバンナのような乾燥して見晴らしのよい土地から、森という、湿り気の多い、見通しの悪い土地に入るのですから、おそるおそる、恐ごわと、歩を進めたような気がします。そんな想像をしてしまいます。一気に、雪崩を打って侵入したというのではないのです。
カメルーンには、〈マキザール〉という「森の精」の言い伝えがありました。小さな、人のように見えるのですが、明らかにピグミーとは違う。夜になると人を襲い、殺してしまう。〈マキザール〉から逃れるには、――記憶は不確かですが、確か――〈白魔術〉があったと思います。〈白魔術〉が使えるのは、村の長老だけだと聞いたように思います。
多くの動物とは違って、人はなぜ広大な地域に住むようになったのかと考えていて、カメルーンの森の奥に点在する村の消長に思いが至りました。〈マキザール〉の言い伝えは、〈むら〉という空間、つまり自分たちバンツーの住むその場所だけが「人の住む世界」であることを意味します。その外には〈異族〉、つまり人間以外の生き物がいるという意味です。そのためでしょう。〈マキザール〉は恐ろしい「森の精」ですし、ピグミーもバンツー(=バンツーの言葉では「人」という意味)ではないのです。
アフリカのサバンナで長く文化人類学を研究しておられる川田順造さんは、『サバンナの博物誌』(ちくま文庫) (2) という本の中で、西アフリカのサバンナに住むモシ族の人たちは、住んでいる家や住む場所、さらに「気心の知れた人びと」、つまり「いっしょに暮らす人たち」を指すのに〈イリ〉という言葉を使うのだと書いておられます。この〈イリ〉に対する言葉が〈ウェオゴ〉です。〈ウェオゴ〉は野獣や荒れ野の精〈キンキルシ〉のいる場所なのだそうです。川田さんは、〈イリ〉と〈ウェオゴ〉に当たる概念をわたしたちの周りに探すとすれば、ひょっとして〈さと〉と〈やま〉に当たるのかもしれないと書いておられます。人が居住し、畑仕事をする〈さと〉に対して、〈やま〉はクマや鬼の住む異界です。〈キンキルシ〉はちょうど、カメルーンの森林地帯では〈マキザール〉に当たるのでしょう。そうだとすれば、〈マキザール〉のいる森は、サバンナでは、人ではない、得体の知れない何かがいる「荒れ野」に当たります。
「新しい村を築く場所を探す」ということは、まさに、「〈マキザール〉や〈キンキルシ〉のいる場所」の中で、恐ごわ歩を進めることなのです。「〈マキザール〉や〈キンキルシ〉のいる場所」に踏み込まなければ、「新しい村を築く場所」は探せない。しかし、そうだとしても恐がっていては何も始まらない。「人が死に絶える」とか「村が滅びる」というのは、アフリカに限らず、人にとっては、それほど頻繁に起こる事なのですから。
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ヒトは地球上のあらゆるところに分布しています。その移住の様をあれこれ考えていたので、今回は原稿が、「ユニバーサル・ミュージアムをめざして」で立てていた主題からは、ずれてしまいました。これがどう結び付くのかは、そのうち、説明します。
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(1) 世界自然遺産はコンゴ共和国のヌアバレ=ンドキ国立公園とともに,カメルーンのロベケ国立公園と中央アフリカ共和国のザンガ=ンドキ国立公園が含まれる「サンガ川流域の3か国保護地域」として登録されました.
(2) 『サバンナの博物誌』(ちくま文庫)
三谷 雅純(みたに まさずみ)
兵庫県立大学 自然・環境科学研究所
/人と自然の博物館