ユニバーサル・ミュージアムをめざして34
「生き方を変える病(やまい)」へのいくつかのご感想
三谷 雅純(みたに まさずみ)
前回まで、ひとはくブログ「ユニバーサル・ミュージアムをめざして」に書いていた『生き方を変える病(やまい)―1』や『生き方を変える病(やまい)―2』に、何通もの感想をいただきました。『生き方を変える病(やまい)』は、わたしが読んだ全国失語症友の会連合会の『「失語症の人の生活のしづらさに関する調査」結果報告書』に、わたし自身が感想を書いたものです。その感想に、さらに感想をいただいたわけです。
固有名詞などを削除して、文意を損ねないように注意しながら、文章を書き換えてみました。ご本人が了解をして下さいましたので、その文章の一部をご披露させていただきます。
その前に、同じく全国失語症友の会連合会の報告書を読んでお書きになった新聞コラムが出ました。毎日新聞 2013年07月18日 大阪朝刊からです。まずこれを紹介しましょう。
発信箱:1票のバリアフリー=二木一夫
毎日新聞 2013年07月18日 大阪朝刊
難聴の夫と失語症の妻が期日前投票に出かけた。前回の参院選のことだ。
夫は職員に「妻は急に尋ねられると名前も言えないので私が世話したい」と頼んだが、別々の場所に誘導された。投票した夫が妻を捜しに戻ると受付近くに座っていた。生年月日を答えられず、そのままにされたという。夫は、失語症患者家族会にその悔しさと怒りを訴えた。
外見から症状をうかがえない失語症は「見えない障害」と言われる。脳の病気や外傷によって、読む、聞く、話す、書くの機能が十分働かず、他人との会話が困難になる。そのため、役所や金融機関などに1人で外出できる人は少ない。
NPO法人全国失語症友の会連合会が本人と家族に実施した調査では、20~50代での発症が6割を占めた。働き盛りで仕事を持つ人は2割に過ぎない。職場復帰や就労支援は、切実な問題だ。
深刻なのは、家族間でさえ意思疎通が難しいことだ。介護する側は、本人の気持ちを推し量るしかなく気遣いが絶えない。思いの届かない本人は怒りをぶつけ、ストレスで互いが疲れ果てる。
失語症は全国に50万人とされるが、援助制度はない。調査の報告書は、支援者の育成、相談機関の設立、リハビリの充実を求める。公的施設での理解できる案内表示やコミュニケーションを手助けできる人材の窓口配置も欠かせない。
成年後見人の付いた知的障害者らの選挙権を認めた裁判長は「胸を張って生きて」と原告に語った。見えない壁を破るバリアフリーが障害者の社会参加を保障するという認識を共有したい。安心して1票を投じられる環境の整備は、民主主義の質も高めよう。
期日前投票所の職員は公務員か臨時に雇われた人だったのでしょう。決まったマニュアルがあったのだと思います。その係の人は、マニュアルで決められた手順に従って、投票に来た人一人ひとりに、相手が本人であることを“口頭で”確かめたのです。失語症者には、“口頭で”聞かれても、何を聞かれたのか理解できない人がいるのですが、そして何度も書いてきたように、筆談やコミュニケーション支援用絵記号があれば問題なく生年月日は答えられたはずですが、係の人は“口頭”で確かめる事に固執してしまったのです。
その場の状況は想像するしかありません。しかし、何となくわたしは、その対応した係の人は“口頭で”聞いても答えないその人の事を、実はしっかりとした認識能力をお持ちだと察していたのではないかと感じます。人には共感する力(ちから)があります。「共感する力(ちから)」とは、喋(しゃべ)らなくても相手の感じていること、考えていることがわかる事です――自閉症スペクトラム(=広汎性発達障がい)の人は相手の感じていることが、よくわからないと言いますが、まさか自閉症スペクトラムの人に受け付けの仕事を与えたりはしないでしょう。人にはその人に合った仕事があるはずです。ですから、係の人は失語症のご婦人の気持ちを、察したはずなのです。
失語症のご婦人と対応をした人の双方が、共にいたたまれないものだったはずです。消え入りたかったと思います。
別の方法でもよかったはずです。当然、係の人はすぐに気付いていたはずです。それならなぜ、代わりになる方法をとらなかったのでしょう? その原因は「規定」やマニュアルの書き方にあったのだと思います。係の人が参照すべきマニュアルに、そうした臨機応変な対応は書かれていなかったのです。マニュアルにある規定には、代わりになる方法でもいいとは書いていない。そのために、その人は個人の判断で確かめることができなかったのだと思います。
三重の不幸です。
どういう不幸かというと、まず失語症当事者の投票する権利が奪われたこと。そして投票所の係の人は、自分がそうすることで人の権利を奪うことがわかりきっているのに、適切な対応がとれなかったこと。さらにその規定=マニュアルを作った人びとの、人間に対するイマジネーションの決定的な不足があることです。
筆談やコミュニケーション支援用絵記号は、公(おおやけ)に認められた音声言語に変わる手段です。ろう者では手話が加わります。さまざまな人の中には、音声言語ではない手段を使わないとスムーズにコミュニケーションできない(=音声言語ではない手段を使えば、スムーズにコミュニケーションができる)人がいるのだとイメージすることが、それほど難しいとは思いません。自分とは違うさまざまな人の存在を認めなければ、社会はいつまでも、「健常者」という一部の人だけの独占物に留まり続けます。そしてこのコラムが言うように、障がい者の社会参加を保障する認識は共有できません。
☆ ☆
では最初のご感想から。
(『「失語症の人の生活のしづらさに関する調査」結果報告書』は)130頁もあり、読むのに時間がかかってしまいました。
失語症については、ある程度の予備知識がありました。しかし、結果報告書を通読すると、失語症の程度も様々であるようです。重症の場合、本当に生活に支障を来しておられます。しかし、見かけ上は障碍(しょうがい)者らしくないので、障碍(しょうがい)の認定の程度が低くなるとありました。制度を改めるべきです。
失語症を引き起こす脳の血管の障碍(しょうがい)や破裂、テレビの話によれば、老化が原因とばかりは言えません。ストレスなどの原因で、若い人もなるようです。
失語症について、厚生労働省や医師会が広報する必要もあります。生活習慣病予防に、メタボ検診について、よく広報されています。特に、私の住む○○市は、熱心にメタボ検診を受診するように言ってきます。私もこのところ年一回の検診を続けて受けています。
検診結果についての集団説明会を受けてきましたが、失語症についての話はなかったです。脳梗塞(こうそく)、脳卒中の話はあったのですが、その後遺症について、殆(ほとん)ど話されませんでした。失語症についての認識が、説明会の講師にもなかったのでしょう。
ある失語症の女性からは、わたしのブログ『生き方を変える病(やまい)』への感想と共に、全国失語症友の会連合会の『「失語症の人の生活のしづらさに関する調査」結果報告書』に対する反論をいただきました。失語症者と女性というふたつの属性を理解していないと、この感想はわからないかもしれません。なお失語症になると表音文字の平仮名(ひらがな)が使い難(にく)くなる場合があり、この方は単語と単語の間に空間を取ること(=いわゆる「字間を空ける」わけです)で、読んだり、書いたりをしやすく して いらっしゃいます。原文では「/」の位置に改行があり、行と行の間にも空間がありました。つまり、空行を入れる事で、見やすくして おられるのです。
私には (漢字)が 得意です。/漢字を視覚表象 と して 結果 漢字の意味を 理解してます。/それから平仮名と漢字を 音声して 云ってから /文章の内容を 理解してます。
失語症友の会の件で /若い失語症者が 参加したがらない事で 私にも わかります。/グルーブ訓練で /たとえば 普通のジャンケンを <勝! 負ける!>を ただ する事は 私には /嫌いです。
<脳の活性に なる>って 説明が 在るのは 知ってるけど /何故か~~ やっぱり 嫌いです。
<失語症に 関する調査>は 表と文章を 理解して 読みました。/<失語症に 関する調査>の感想へ 私には 異見が チョッと あります。/私は ほとんど 生活に 支障を してません。
(生活のしづらさ)は 失語症者だけでは ない です。/例えば 銀行や 役所へ 一人で行き出来ない人は /病気前から 銀行や 役所へ (例えば) 奥さんに してもらってた ので/病気後は もちろん 出来ない と 思います。
失語症者が 何でも 一人で してる人も たくさん います。
練習して 時間が 掛かるけど 何でも 生活が 出来ます。/(出来ない事)が (思いこみ)と 思います。/何を 変化して 人が チャレンジして/助力するのが (先生)だ! と 思います。
働き盛りの若い方からは、次のようなご感想をいただいています。
特に考えらせられたのは、「生き方を変える病(やまい)-2」 です。
コミュニケーション能力への期待と要求は非常に強くなっています。この仕事をしていると、特にその点を求められていると感じますし、お手本にすべき人に出会います。しかし、ご指摘のように、そのコミュニケーション能力も一面的なもので判断されがちと感じました。
幾つかの技術系資格試験を受けて感じるのは、健常者が圧倒的に有利な点です。試験時間内に小論文をいくつも書かなければならないので、手が不自由なだけで、取得は困難を極めることになります。(技術士試験は、この点の配慮なのか、かつてよりは執筆文字数が大幅に減りましたが……)
世の公平性とはいかなる形であるのか。少なくとも健常者側の理解が広がらなければなりませんし、その優位性の保持に捉(とら)われない思考が求められると感じました。
残念ですが、現実、寛容な人は多くはありませんし、優位に立とうする人が目に付きます。
人が如何(いか)なる生き物と成り得るのか。
コミュニケーションを強く問われる時代であるからこそ、試される時代ですね。どこまで広い視野を持ち、各々(おのおの)の良さを感じ取れるのか、自分への挑戦でもあります。
別の方は、次のように書いて下さいました。文章は三谷が勝手に手を入れました。
ブログ、読ませていただきました。
「異なる人への恐怖」は、実は特に日本でものすごく進行している、ある種の心の病のような気がしています。違うということがこれほどまでに拒絶される文化は、病んでいるとしか言いようがないように感じます。
今は基本的に文系的な発想で仕事をしていますが、一つ一つの言葉に神経質になり、論理的な説明をしようとする姿勢は、ひじょうに細かなことを気にする奴(やつ)で、仕事の足を引っ張るやつだと受け取られることしばしばです。
いかに自然科学者が聖人君子面して、福祉や倫理に関して良い加減なことを言っているかは大きな問題です。科学者が知りうること、考えることは絶対ではなく、あくまで科学という思考法に則(のっと)ったものでしかないのですから、自らの守備範囲を知るべきです。その上で、そこには、とうぜん限界があるもので、その外に広がっている世界はまだまだあり、その多様性をどう受け入れながら(研究という仕事を)進めていくべきかを考える姿勢がなければならないはずです。しかし、それができていません。
(私は)決してアメリカ万歳の人間ではありませんが、多様な文化を受け入れているアメリカは、そういう意味においては多様性を受け止める素地も持っていると思います。もちろん完璧ではありませんが。少なくとも日本人のように、KY(=“空気が読めない”の頭文字をローマ字で表したもの。「雰囲気がわからない人」のことをバカにしていう言葉)だとか言うような、同一性・同質性を持たない者への無言の攻撃は、はるかに少ないと思います。英語にも “read between the lines"(=行間を読む)という表現はありますが、それ以上に self-assertion(=自己主張)が求められると思います。
“異質”なものの排除は、決して少なくないのだということを感じます。こうしたことがイジメを生むのだろうし、イジメは決して子どもの世界(だけ)のものではないですよね。
研究者はこうしたことを真正面から受け止めて、新たな価値観を描いて、より良い社会へ人々を導くのが求められることのはずですが、現実は重箱の隅を突(つつ)くような小さな発見で留まっているのが多いと思います。科学者が(科学以外のことに目を向けようとしないで)単に新しい知見を生むことだけを目標とする職業になってしまっていることに原因あるのだと、少なくとも日本の現状からは、思います。
わたしはこの日本の社会に対して、ものすごく危機感を持っています。
最後に企業の社会的責任と日本の企業風土についてのご感想です。これにもわたしの責任で、一部、手を入れました。
『生き方を変える病―2』、一読致しました。
私は、平成○○年に定年退職しております。当事も、企業の社会的責任という事、言われてはおりました。しかし、私の勤めていた会社の親会社は一部上場企業でしたが、企業の社会的責任について興味がありませんでした。法律に違反さえしなければ、何をしてもよいという考え方であったようです。今は、変わっていることを期待しますが。
法律を守るという事は、最低基準です。社会的責任を果たすという事は、法に決められていなくても何か社会に貢献できることをするという事になります。
業界団体の会合が年に何度かありました。その会合で、(業界団体の)理事長さんから企業の社会的責任について色々と教えていただきました。それを出張報告書にして提出していたのですが、親会社から来ている上司は、法律を守ってさえいれば、それ以上のことをする必要はないと言われました。
ひとはくブログの主題から少々ずれていますが、社会的責任について一筆。
正直に書くと、わたしは失語症の当事者や言語聴覚士の方から感想が、もっと、いただけるのではないかと期待しました。しかし、残念ながら、ほとんどいただけませんでした。その意味で、今回、失語症の当事者が届けて下さった感想は、ご紹介できなかったものも含めて、とても貴重でした。
「失語症に対する社会的な理解が乏しい」というのが、全国失語症友の会連合会の結論のひとつでした。感想を書いて送るという行為では、最低限、文章をつづる力(ちから)が必要です。その力(ちから)が、大なり小なり失われたからこそ失語症なのです。その事を十分にわかった上で書くのですが、「他人に読ませる滑(なめ)らかな文章が書けないのだから、書かない」のでは、失語症者やその他のコミュニケーション障がい者が感じているさまざまな事が、まるで最初からなかったかのように霧散(むさん)してしまいます。それでは、せっかくの報告書も無駄になってしまいそうです。そうではないでしょうか?
三谷 雅純(みたに まさずみ)
兵庫県立大学 自然・環境科学研究所
/人と自然の博物館