六甲山は最初からはげ山だったの だろうか |
平安の昔の六甲山 |
江戸時代の六甲山を見てみたい |
企画展 「六甲山みどり色の浪漫、未来」あらまし |
海と山 |
生田の森のCG再現! |
名所図会に見る六甲山 |
グルームたちの六甲山 |
細雪と六甲山 |
六甲に学ぶ |
そして、未来へ |
六甲山はわたしたちにとってなじみの深い山です。有名なだけではなく、みなさんも一度はハイキングなどで訪れたことがあるのではないでしょうか。この六甲山が、かつて「はげ山」だったことは良く知られています。 たとえば右図に示すような神戸港などを撮影した写真絵葉書が明治以来数多く作られてきましたが、そこに写っている六甲山は白い地肌ばかり目立つはげ山です。 わたしたちが良く耳にする六甲山の歴史は、神戸港開港から語られる機会が多いようです。つまりA.H.グルームらの外国人らが着手した、いわゆる「六甲山開発史」と、明治以降営々と行われてきた植林事業により、今日のような緑豊かな六甲山になった、というエピソードです。 明治以前の六甲山はどんな山だったのでしょう。
平安時代のむかし、清少納言の「枕草子」に「森は」という段があり、その中に「生田の森」が登場します。つまり当時、「森といえば」と思いつく、とても有名な森のひとつに生田の森があったのです。「生田の森」は今の生田神社(神戸市中央区)の鎮守の森のことです。 当時の森は、今よりもずっと大きかったようで、後の源平合戦のころには平家の軍隊がこの中で陣を張れるほどの、たいへん広い森だったようです。当時はこの森は摂津の国(大阪府と兵庫県南東部)を代表する場所として、摂津の枕詞としてもつかわれています。鎌倉以降、続古今和歌集などにも「生田の森」は何度も登場します。平安時代には、どうも山麓の森も含めて、六甲山は「はげ山」ではなく、みどり豊かな自然だったようです。
企画展では、生田の森が江戸時代にはどのような情景であったかを、コンピューターグラフィックス(CG)での再現を試みました。また江戸時代の旅行ガイドともいえる名所図会などに描かれた六甲山をとおして、江戸時代の六甲山はどんな山だったのかを検証も行っています。ぜひご覧ください。
Copyright(C) 1999, Museum of Nature and Human Activities, Hyogo
Revised 2003/6/26