夏期教職員セミナーで「障がいのある子どもたちとの野外活動入門」というセミナーを担当するようになって、もう何年かになります。
わたしは、もともと霊長類学者(れいちょうるいがくしゃ)です。サルや類人猿の仲間のやることを調べて、ヒトとは何だろうと考えるのが仕事です。ですから、学校やその他の教育施設で子どもたちといっしょに奮闘(ふんとう)している先生に対して、何かをお教えするなんて、とてもできません。おこがましい。わたしは教育の専門家ではありません。
その上、わたしは医者でもありません。子どもの発達や心理にくわしいお医者さんなら、子どもはこういう時、何を求めているとか、言葉に出さないけれども、本当は何をしたいのかといったことがわかるのかもしれません。しかし、これも、わたしにはムリです。一般的な医療現場の経験は、わたしにはまったくありません。
それならなぜ、そんなわたしが「いろいろな子どもと野外活動をする準備」を「学校の先生といっしょに考えて」みたいと思ったのでしょうか?
ひとつには、わたし自身が障がい者――脳梗塞(のう・こうそく)をわずらいました――で、健常な人とは違ったものの感じ方や考え方ができるからです。自分に、健常な頃とは違った何かがあると感じるようになったのは、病気の後遺症で、それまで普通にできていたことが(努力しても)できなくなった頃からでした。この感覚は、子どもを前にした学校の先生にもきっと役に立つに違いない。そして、わたしが伝えなければ、健常な先生にはわからないこともあるだろう。そう思いました。
もうひとつは霊長類学という学問との関連です。霊長類学はサルや類人猿のやることを調べますが、本当はヒトのことを知りたいのです。ただヒトの生き方は、どうしても文明や技術といったものの影響を受けて、変わってしまいます。ですから、日本列島に暮らす我われよりも、狩猟採集民や遊牧民の生き方の方がより多く自然に頼っていて、ヒトの本質がわかりやすいのです――日本列島に暮らしてきた人でも、狩猟や漁労を生業にして来た人はいたはずですが、明治時代に、狩猟や漁労は生業ではなくなりました。多くの人は農を営みとしています。近代ではそれが、産業としての農業や林業になりました。
それでは日本列島で暮らすわたしたちの生活には、もうヒトの本質がなくなったのかと言うと、そんなことはありません。日本列島での暮らしにもヒトの本質は隠れています。しかし、それは目をこらさなければ見えてきません。それほど社会のいろいろな制度が発達し、変わってしまったのです。
それに学校の先生と親しくしておけば、「現代の子どもの一面」といった目新しい事が聞けます。それを聞かしてもらえれば、次のセミナーのアイデアが出てきます。参加している学校の先生にも、きっと役に立つはずです。
ネイチャーテーリングをする子どもたち
おわかりのように、ここで言っている「いろいろな子ども」というのは、普通の言い方では「障害のある子ども」となります。わたしのセミナーのタイトルも「障がいのある子どもたちとの野外活動入門」です。ただ、一見「障害のある子ども」でも、その「障害」と呼ばれているものをよく見ると、ヒトのあるべきバリエーションであることが多いのです。さらに、自然なバリエーションとは考えられない病気や事故の後遺症であったとしても、当人が進んで受け入れたものではありませんから、当事者にとって状況はそれほど変わらないのです。
セミナーでは、わたしのマヒに関連づけて、まず障がい児の中ではいちばん人数の多い脳性マヒを取り上げました。脳性マヒの症状なら、わたし自身が片マヒですから、いろいろ共通点が多そうです。
もうひとつは霊長類学との関連で取り上げた発達障がいと色覚の問題です。このふたつは、社会的には障がいと言われますが、わたしは、障がいと言うよりヒトのバリエーションと捉えた方がいいと思います。
発達障がいと色覚の問題は、真剣に取り上げている当事者がいました。社会的にはりっぱに仕事をしている人たちです。
たとえば、自閉症であることを公表している動物行動学者のテンプル・グライデンさん(日本語)や、ディスレクシア(読字障がい)であることを公表している学校の先生、神山 忠(こうやま ただし)さんです。それに、母方の男性と息子さんがディスレクシアで、ディスレクシアのことを研究している発達心理学者のメアリアン・ウルフさん(日本語)もそうです。わたしは、これら当事者がお書きになった本を読み、ホームページを見て、発達障がいとされているものの状況と対応策を学びました(後でくわしく書きますが、わたし自身も、生まれつき、学習障がいだと思っています)。
また、色覚の原理と実際の対応策は、色覚バリアフリーの理解を求める活動をしていて、ご自身が2色型色覚(ご本人が言うには色盲)の岡部正隆(おかべ・まさたか)さんや伊藤 啓(いとう・けい)さんの著作と色覚バリアフリーのホームページを参考にさせていただきました。
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学校では発達障がいの事を、「生まれつきの障がいなので治らないが、がんばれば多数者に合わせた生き方ができる」と考えます。多数の健常児のほかに、少数の自閉症やアスペルガー症候群、学習障がい(LD)、注意欠陥・多動性障がい(ADHD)といった類型を持った子どもがいると考えるのです。医学的な研究の現場でも、同じように考えている研究者が多いようです。
ところが、最近になってヒトのゲノム分析が実用化され、ヒトの遺伝子がいろいろわかってくると、ヒトという存在に自閉症やLD、ADHDといった類型に区別するよりも、一見健常に見える多数者から少数の自閉症者まで、言ってみればヒト全体が自閉症スペクトラムの傾向を持つと考える方がよいのではないかと言う人が出てきました。実際に子どもを診ている臨床医には、多い意見だと思います。
わたし自身は、ヒト全体が自閉症スペクトラムだという見方の方がよいように思います。わたしは、マヒになる前から漢字のLDでしたが、それに加えて、ADHDやアスペルガー症候群といった症状の特性も、自分の事のようにわかるからです。
つまり、自閉症やアスペルガー、LDやADHDはヒトの多様性――ちょうどA型やB型のような血液型と同じようなもの――なのだというのがわたしの意見です。こだわりの強い自閉症やアスペルガーの人は研究者に多いですし、こだわりがなければ研究は続けられません。またLDの人は絵や写真といったビジュアル刺激には大変強いので、デザイナーや建築士、医学生では特定のパターンを読み取らないといけないレントゲン医を目指す人が多いと聞きます。一方ADHDの人は、政治家や新聞記者といった、世の中の問題をまんべんなく拾って問題を提起する職業に向いていると聞きました。研究者には自閉症やアスペルガーの人だけでなく、LDやADHDの人もよくいます。いろいろな問題を認識し、解きほぐして、一般の人にわかりやすく解説するのが重要な仕事だからでしょう。
3色型色覚と2色型色覚の比較(ColorDoctorを使いました)
色覚の問題は、近頃は世の中の認識が整ってきました。未だに緑の棒グラフに赤い丸を打つといった、まるで時代に逆行したようなデザインを見かける事もありますが、緑と赤が一部の人には見分けにくい組み合わせだと、多くの人はわかってきたようです。
「ユニバーサル・ミュージアムをめざして6」のさまざまな色覚−1でも言いましたが、ほ乳類はもともと2色型色覚です。緑と赤は見分けることが難しいのです。そのほ乳類の中から、突然変異で3色型の動物が表れました。それが霊長類(れいちょうるい)です。ヒトも霊長類の仲間ですから、当然、3色型が多数を占めます。しかし、この突然変異は多様性のあるものでしたので、ヒトは2色型と3色型がいっしょにいるのです。その上、色覚は性別によって出たり出なかったりします。2色型は男性に多く見られます。ですから、社会全体では、3色型の多数者の中に少数の2色型の、それも、たいていは男性がいるというわけです。2色型色覚は病気や障がいというよりも、ヒトが元来持っている性質だと思います。
「学校の先生といっしょに考えてみた−2」につづきます。