ユニバーサル・ミュージアムをめざして19

 

霊長類学者がユニバーサルな事を考える理由−2

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)

 

 

 

Humphrey_1998.JPG 

左は3万年前の洞窟壁画、右は3歳の自閉症の女の子が描いたウマの絵。左がウマを写実的にとらえていることは有名だが、右の絵もたいへん写実的で、生き生きとウマの姿をとらえています。  Nicholas Humphrey (1998). Cave Art, Autism, and the Evolution of the Human Mind. Cambridge Archaeological Journal, 8, pp 165-191.  doi:10.1017/S0959774300001827

 

 

 霊長類学(れいちょう・るい・がく)が描くヒトの姿と、現実の社会的な人間の姿は、ずいぶん違うことがあります。発達障害者の精神活動もそのひとつです。

 

 霊長類学では、ヒトは狩猟採集(しゅりょう・さいしゅう)生活につごうが良いように進化したと考えます。たとえばヒトのからだは霊長類としてはきょくたんに毛が少なかったり、大量の汗をかいたりしますが、これはサバンナで獲物(えもの)を追う時、暑い中で体温調節をするためにそうしているのだと考えています。またお尻に脂肪を蓄(たくわ)えたり、ほ乳類の中でも太りやすかったりしますが、これも獲物が捕れない時の飢餓(きが)にそなえての事だと思います。狩猟生活では、いつも獲物(えもの)が捕れるとはかぎりません。そんな時は木の実や貝の採集で食物を得るのですが、それでも狩猟生活はヒトの進化に大きな影響を与えたのです。

 

 そのような大昔の狩猟採集生活を想像させる痕跡が洞窟壁画(どうくつ・へきが)です。洞窟壁画はスペインのアルタミラやフランスのラスコーのものが有名です。氷河時代に描かれたものだそうです。そのような壁画は、「霊魂(れいこん)の意志」を伝える(と信じられていた)シャーマンが描いたものだと考えられています。進化心理学の立ち場からヒトのよって立つ位置を考えた人として有名なニコラス・ハンフリー(Nicholas Humphrey)は、そのような大昔の洞窟壁画が現代の幼い少女の絵にそっくりな事を知って、本当におどろいたそうです。少女は自閉症だったのです (1)

 

 大昔のシャーマンは自閉症、つまり発達障害だったのかもしれない。自閉症者だから、おおぜいの人がざわざわしていると緊張して思った事が言えなくなるのだが、普通の人には思いもつかない「霊魂(れいこん)の意志」を翻訳できる(と自分でも信じている)。それを落ち着いた場所で誰か仲介者に話して、人びとに伝えてもらったのかもしれない。

 

 ハンフリーが見た幼い少女は、ことばの出ない3歳の子どもでした。でも、その子の描いた絵は「3歳の子どもの絵」には見えませんでした。わたしたちの周りの「3歳の子どもの絵」と較べてみて下さい。その絵には、走り、跳ねるウマが描かれています。3歳の子どもの絵によくある、横から見たウマの絵だけが描いてあるわけではありません。自閉症児とか発達障害児と呼ばれる子どもには、普通の子どもにはない、すばらしい才能があることがよくわかります。ハンフリーは、それを大昔のシャーマンの能力と較べてみたのでした。ただ、この3歳の女の子は、そのすばらしい絵を描いたあと少しずつことばを身に付け、普通の子どもに近づいていったそうです。

 

☆   ☆

 

 現代に生きる狩猟採集民も、発達障害のひとつ、ADHD(注意欠陥/多動性障害)の遺伝子を持つ人が有利なのではないかと疑った人がいます (2)。毒ヘビや大型の肉食獣の危険は、いつ降りかかってくるかわからない。襲われた時にはすばやく身をかわさなければならない。その一方で獲物が見つかったら、根気よく追跡し続ける事も必要です。追跡し続ける事はけっして辛い事ではなくて、楽しくてしかたがないことなのです。このような狩猟のイロハは、ADHDに有利だと言うのです。

 

 現代のわたしたちはどうなのでしょうか? 現代人は狩猟採集民のようなキャンプ生活ではなく、定住生活が大勢(たいせい)を占めています。そもそも、現在ではピグミーやブッシュマンも小学校に行き、字や算数を習っているのです。今は、昔のような狩猟採集生活は少なくなりました。

 

 現代生活の基本は農耕だと思います。農耕には定住が必要です。芋は種芋を植えるだけではなく、芋が育つ雨と時間が必要です。その農耕をいつも変わりなく行うためには、どこまで木を伐(き)って畑にするかといった計画性も大切です。農耕には、狩猟採集とは異質の才能が必要なのです。そして、狩猟採集時代には重宝した(だろう)自閉症やADHDの人に秘められた力は、「発達障害」という枠(わく)でくくる医療行為の対象になってしまいました。でも、狩猟採集生活をほとんど止めてしまった現在でも、ヒトに体毛が少ないとか、太りやすいとかいった性質が残っているように、「発達障害」の才能を持った人は今でもたくさんいるのです。

 

 臨床精神科医の杉山登志郎さんは、『発達障害のいま』という本 (3) の中で、「発達障害」と呼ぶのは、もう止めようと言っています。現在では発達障がいの事を「自閉症スペクトラム障害」と呼びます。その意味は、誰のこころにも大なり小なり自閉症の傾向はあるもので、スペクトルのように普通の人と自閉症者はつながった存在だからです。「発達障害」という言い方は、なにか特別な人がいるように聞こえます。その上「障害」と言ってしまうと、その人はまるで「社会の害」になっているみたいではありませんか。そこで「発達障害」に代わって「発達凸凹(でこぼこ)」と呼ぼうと提案したのです。才能のでこぼこは誰にでもあるものだからです。

 

 同じく臨床精神科医の青木省三さんは、『ぼくらの中の発達障害』という本 (4) の中で、やはり自閉症スペクトラム障害という考え方を支持し、世の中には、(健常者ならぬ)定型発達者と発達障害者がいるという考えを勧めています。青木さんも杉山さんと同じく、何とか「発達障害者」で表される「特別の人」という誤解を解きたいと思ったのです。

 

 しかし、そうは言っても「発達障害者」は現実に存在します。一般の人と「発達凸凹(でこぼこ)」のある人、あるいは、定型発達者と発達障害者という類型化にも、何かの意味があるに違いありません。「類型化」とは連続したものの一部に名前を与える事です。いったいどういうことでしょうか?

 

 青木さんは、色のスペクトルと「赤」とか「青」とかの色のとらえ方を例にあげて説明しています。つまり、ある波長の色を「赤」ととらえるか「オレンジ」ととらえるか、「青」ととらえるか「緑」ととらえるかは、文化によって変わるのです。必ずしも波長の長さ・短さによるのではありません。経験によって変わる主観的な現象です。

 

 わたしは、なるほどと思い、うなずきました。人(あるいはヒト)の発達のようすは連続的なものでありつつ、同時に個別のものでもあるのです。青木さんは、「発達障害を持つ人は、定型発達の人とは、異なった物の見方や考え方や振る舞い方をする人、即(すなわ)ち異なった文化を生きる人」だととらえ、「異なった文化に敬意を払い、対等な一つの文化として理解しようとする姿勢」が、共に同じ社会で生きていく時には大事なのだと語っています。

 

☆   ☆

 

 このように臨床精神科医は自閉症スペクトラム障害という考え方で、連続しつつ個別でもあるという、例えるなら〈人種〉と同じように発達障がいをとらえているのです。しかし、教育者の考え方は硬いように感じます。医者は「個別の人」として患者をとらえているが、学校の先生は子どもをクラスの中の大勢、すなわちマスとしてとらえがちだといった意見を聞いた事があります。すべての医者が患者を「個別の人」と見なし、すべての教育者が子どもをマスと見なしているとは思いません。でも学校現場には、どうも子どもを医療に預けてしまえば、それからは、たとえ子どもが自分の前にいたとしても親身に関わろうとはしないという悪しき傾向があるように感じるのです。このことは青木さんも指摘していましたし、わたしは、それが「発達障害児の(病状の)類型化」 (5) に現れているように思ったのです。

 

 農耕という豊かで計画性に満ちた生活は、人類史のレベルでは、たかだか1万年前に始まったばかりだと言います (6)。人類史を一年間の暦(こよみ)にたとえるならば、農耕が始まったのは昨日の事か、ひょっとしたら数時間前のできごとかもしれません。農耕が始まるまでの数百万年間は、延えんと狩猟採集生活が続いたのです。「異なった物の見方や考え方や振る舞い方をする人」がいる事は当然です。だれもかれもが「定型発達の人」ばかりになったとしたら、かえって気持ちが悪いはずです。それはまるで人間像のコピーだからです。

 

 この「気持ちが悪い」という感覚が理解できるかどうかは、ひょっとして、ユニバーサルなものを創り出す動機まで左右しているのかもしれません。

 

 次に続きます。

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(1)  N. Humphrey  (1998)  Cave Art, Autism, and the Evolution of the Human Mind.  Cambridge Archaeological Journal 8:2, pp. 165-191

http://journals.cambridge.org/action/displayAbstract?fromPage=online&aid=3070628

 

(2) たとえば、T Hartmann, P Michael (1997)  Attention deficit disorder: A different perception.  http://www.citeulike.org/group/266/article/430116

 

(3) 杉山登志郎 (2011) 『発達障害のいま』(講談社現代新書 2116http://www.bookclub.kodansha.co.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=2881160

 

(4) 青木省三(2012)『ぼくらの中の発達障害』(ちくまプリマー新書 189http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480688927/

 

(5) 文部科学省初等中等教育局特別支援教育課 (平成24125) 通常の学級に在籍する発達障害の可能性のある特別な教育的支援を必要とする児童生徒に関する調査結果について.

http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/tokubetu/material/__icsFiles/afieldfile/2012/12/05/1328849_01.pdf

 

(6) 浅井健博(2012) 「耕す人・農耕革命〜未来を願う心〜」pp. 221-318, NHKスペシャル取材班『ヒューマン なぜヒトは人間になれたのか』, 角川書店.

http://www.kadokawa.co.jp/book/bk_detail.php?pcd=201012000174

 

 

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)

兵庫県立大学 自然・環境科学研究所

/人と自然の博物館

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