ユニバーサル・ミュージアムをめざして8
失語症者に助けてもらう−1
失語症(しつご・しょう)というのは、脳の言語中枢(げんご・ちゅうすう)にダメージを負って、<ことば>が思うように出なくなることです。<ことば>は、人間にとってとても大切なものです。現代では、脳に栄養を送る血管が傷ついて起こる脳梗塞(のう・こうそく)が原因でなる人が多いのですが、事故で脳が傷ついたり、脳梗塞以外の病気でも起こります。どのような原因であったとしても、脳の言語中枢がダメージを負えば起こるのです。
失語症は、人によって症状が大きく変わります。複雑な言語中枢のどこが傷ついたかで変わるのです。人によって、<話せない>とか<書けない>という人もいますし、<聞いて理解できない>という人や<読んで理解できない>人もいます。
一般の人に分かりにくいのは、<読んで理解できない>人のうち、「ひらがな」が理解しにくくなった人のことです。「『ひらがな』なんて小学校で最初に習うのに、それを理解しにくくなる理由がわからない」と思われた方が多いでしょう。しかし、現実に「ひらがな」を読んでも、うまく理解できない人は多いのです。そのような人は「〜は」とか「〜が」とかの格助詞もうまく使えないような気がします。少なくとも、わたしが接した経験では、多くの人がそうでした。
わたし(三谷雅純)も、脳塞栓症(のう・そくせん・しょう)という脳梗塞(のう・こうそく)の一種で失語症になったのですが、わたしの場合は、うまく<話せない>ことはあっても、<書けない>とか<聞いて理解できない>、あるいは<読んで理解できない>ということはありませんでした。それでこのようなブログも書いています――話し声しか伝わらないので、失語症者は電話が苦手です。わたし(三谷雅純)も苦手です。その代わり、現代では電子メールがあります。電子メールなら<書く>とか<読む>とかですので、わたしの場合は問題がありません。
コミュニケーションの機会が奪われていることは、別の機会も奪います。若い失語症者には学校教育もそうですが、多くの失語症者では、生涯学習の機会が奪われているのです。
失語症者の多くは、豊かな人間性や知性、物を知りたいとか、学びたいという意欲を持っています。脳梗塞(のう・こうそく)のために意欲がなくなった失語症者もいますが、そのような人は、<ことば>が通じないことで二次的に「うつ」になったり、認知症になった人が多いのではないでしょうか? 他のコミュニケーション障がい者も同じだと思います。そのような失語症者をはじめとするコミュニケーション障がい者は、知らず知らずの内に生涯学習施設から排除されがちです。なぜなら、生涯学習施設――人と自然の博物館がそうですが、美術館や図書館といった多くの生涯学習施設――で、学習のためにもっとも基本となる<ことば>への工夫がないからです。何だか理不尽ですね。
生涯学習施設は、建前(たてまえ)の上では、老若男女(ろうにゃく・なんにょ)、あらゆる人に開かれた学習を提供する場のはずです。ただ建前ではそうなのですが、現実に多くの生涯学習施設は、障がい者には近づきにくい施設でもあるのです。たとえば視覚障がい者です。全盲の人にとってガラスの囲まれた展示などは何の意味もありません。誰も「ガラスが触りたくて」博物館に来る人はいません。同じように発達障がい者、中でもデスレクシア――難読症とか読字障がいとかとも呼ばれます――の人は、展示解説を読んでも正確にはわかりません。それに失語症者や認知症者もです。何とかしたいですね。
今、わたし(三谷雅純)は、失語症やデスレクシアなどのコミュニケーション障がい者にも読んでもらえるようにと思って、(さしあたっては)展示解説の工夫を考えています。ただし、普通の人に違和感が残るような文章ではいけません。どのような工夫かというと、展示解説をデイジー形式でできないかと思ったのです。
デイジー、つまり DAISY(Digital Accessible Information System =デジタル情報を得るために、年齢や障がいの有無に関係なく、誰でも使えるシステム)というのは、デジタル録音図書製作のための国際規格です。本や文章を声で記録して、自由に再生するための規格です。日本ではおもに視覚障がい者に利用されています。視覚障がい者にも読書の楽しみを知ってもらおうと、点字図書館や視覚障害者情報センターが中心になって、全国のあちこちで印刷した書籍を、点字とともにデイジーに直そうと取り組んでいるのです。わたし(三谷)の知っている方も朗読ボランティアに参加していらっしゃいます。人の声なら自然な印象を与えるからです。しかし、機械に朗読してもらうこともできます。DAISYで作成した本や文章には専用の再生機があり、普通のパソコンでも再生できます。
さらに最新のマルチメディア・デイジーでは、コンピュータが読み上げると同時に、読み上げたところの色が変わります。文章と共に絵や写真まで参照できるのです。視覚障がい者だけなら、あってもなくてもいい機能のようですが、ディスレクシアの人は「読み上げたところの色が変わる」ことが大切です。どこまで読んだのかが、わかるからです。失語症者にとっては、声に出して読んでくれることや読んでいるところの文字の色が変わることで、失語症者にも理解しやすい「漢字とかなのルビや併記」とか「分かち書き」と同じ効果が期待できます。
機械に読ませるのなら、デイジーで本を作ると言っても、そう難しいことではありません。テキスト・ファイルにしたデジタル情報があればいいからです。しかし、その前に、まずは失語症者をはじめとするコミュニケーション障がい者が興味を持ってくれるような本を選ばなければいけません。また、失語症者には<聞いて理解できない>人や<読んで理解できない>人がいますが、どの人にも「読んでもらう」ためには、あまりに長いものはいけません。集中できないからです。まずは適した長さのものを選ぶことが大切です。
わたしは、『くんくんくん おいしそう』という絵本を、デイジー形式に直してみました。昔、わたし自身が調査をしていたコンゴ共和国の「ンドキの森」の、ゴリラやチンパンジー、アフリカゾウのことを描いたお話です。『くんくんくん おいしそう』は、画家の阿部 知暁(あべ ちさと)さんが、1994年に福音館書店からだされた絵本です。阿部さんや福音館書店の担当者には、デイジー形式にすることを了解していただきました。
デイジーに直した絵本の1ページ
続きは次に書きます。
三谷雅純(みたに まさずみ)