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ユニバーサル・ミュージアムをめざして41

 

研究者が研究対象の当事者になるということ
『「話せない」と言えるまで』書評

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)

 

Seki Keiko_san.jpgのサムネール画像

関 啓子さんの最近のお写真です。

 

 これまでわたしは、どんなに偉い人に対しても、あえて「○○先生」とは呼ばずに、「○○さん」と呼んできました。この文章でも知り合ったばかりの関さんに対して「関 啓子さん」とお呼びしています。この文章スタイルを、ずいぶん失礼なことだと受け取る方がいらっしゃるでしょう。しかし、このようにお呼びすることで、わたしは人と人の対等な関係を確認しているつもりなのです。もちろん、わたしに対しても、「三谷先生」ではなくて「三谷さん」と呼んでいただきたいと思ってます。そうでなければ、わたしの書いた内容に異論がある時、素直に意見が言いにくいでしょう。普段は医療界の習慣に従って、同僚の方どおしを「○○先生」と呼び合っている関さんも、「関 啓子さん」と呼ぶことをお許し下さいました。このコラムを読んで下さっている方が誤解されるといけませんので申し上げますが、わたしは関さんを尊敬し、信頼しています。関さんは、ご自身の工夫と回りの方の助力によって、脳こうそくの後遺症から驚異的な回復を果たされた方です。また、わたしにとっては研究者仲間でもあります。関さんは高次脳機能障がいのリハビリテーション法を研究していらっしゃいます。

 さて、

 研究者が自分自信に起こった(起こっている)事を書いた本は、たくさんあります。有名なものでは、例えば自閉症で動物行動学者のテンプル・グランディンさんがマーガレット・M・スカリアノさんといっしょに書いた『我、自閉症に生まれて』(1) や、脳こうそくになった免疫学者・多田富雄さん『寡黙なる巨人』(2) があります。これらの本を通してグランディンさんや多田さんのファンになった方も多いでしょう。全盲の宗教民族学者、広瀬浩二郎さんには、『触る門には福来たる』(3) という本がありますし、脊髄腫瘍(せきずい・しゅよう)で首から下がマヒしてしまった文化人類学者のロバート・F・マーフィーさん、『ボディ・サイレント』(4) という本を通して「障がい者が生きるもうひとつの世界」を生き生きと、しかし、静かに描き出してくれました。しかし、いずれも研究対象の当事者そのものになった方はいません。例外は、ご自身が盲ろう者でバリアフリーのことを研究している福島 智さん『盲ろう者として生きて』(5) と、脳出血で脳が壊死していく最中(さなか)の「恍惚感」を内面から描き出した神経解剖学者ジル・ボルト・テイラーさん『奇跡の脳』(6) でしょうか。もっとあるのでしょうが、わたしが読んだのは、この2冊ぐらいです。その中で、関 啓子さんの書いた『「話せない」と言えるまで』(7) は、例外中の例外でした。研究者が自らに起こった事実を素材にして、第三者としてではなく内面から見つめることで文章にされたのです。しかも、その事実は、長年研究をされてきたことそのものでした。

 関さんは、右脳のダメージで身体の左側にあるものが分からなくなるという現象を研究していました。その右脳に関さんご自身がダメージを負ってしまいました。わたしも脳こうそくの後遺症が残る当事者だから平気で言えるのですが、普通なら、あわてふためくところです。障がい者になったことと健常者であった頃とのギャップに――それまで普通にできていたことが、急にできなくなるのです――尋常でない戸惑いがあったと思います。しかし関さんは、発症から復職の過程や現在の思いを冷静にまとめ、「1例報告」として出版されました。それはとても大切な証言でした。

☆   ☆

 はじめて関 啓子さんにお目にかかったのは、2013年11月のことです。神戸市の適寿リハビリテーション病院で講演会があり、それに参加してお会いしたのです。関さんはその講演会の演者でした。関さんは神戸大学の保健学科で長く教授を勤められた言語聴覚士です。研究室を運営され、何人も大学院生を指導して、ご自分も学術論文や書籍を発表されています。お会いした時、関さんからは「ゆったりとした、ずいぶん穏やかな方」という印象を受けました。

 講演会は失語症の家族会と病院関係者で持たれました。ただし、わたしのように勝手にまぎれ込んだ人間も、むやみに断るという事はありません(参加しますという通知は出していましたよ。念のため)。多くの若い言語聴覚士が会場の準備をし、受付をし、演者の関さんをお迎えして、失語症の当事者と家族会の皆さんが席に着いてお話は始まりました。この時のお話から、関さんは右脳にダメージを負い左半身にマヒがあること、普通は左脳にダメージを負った人がなることの多い失語症だが、右脳にダメージを負った関さんにも失語症があること、などがわかりました。

 わたしは左脳にダメージを負ったので、失語が出ても不思議ではありません。なぜかというと、多くの人は左脳に言語中枢があるからです。反対に言うと、右脳にダメージを負っていても、右利きの人なら失語が出ない(ことが多い?)のです。しかし、関さんは左利きです。関さんは右脳にも言語中枢がありました。そのために失語が出たのです。多数ではありませんが、このような人もいらっしゃるということです。

 講演が終わった後、わたしは関さんに自己紹介をして、メールで連絡を取り合えるようにお願いをしました。急なお願いでしたが、快く引き受けて下さいました。たぶん関さんもだと思いますが、たいていの失語症者は電話が苦手です。電話は発声することが苦手な音声しか伝達できないからです。わたしの障がいを無視して、平気で電話をかけてくる方がいますが、わたしの場合は不意に失語が出ることがあるために、基本的に電話には出られません。それでメールでと、お願いをしたのです。「電話に出られない」と言うのは難聴者やろう者と同じですね。

 先に『「話せない」と言えるまで』は、貴重な「1例報告」だと言いました。関さんは経験豊富な言語聴覚士です。ご自分がダメージを受けるまでは、言語聴覚士として、どうリハビリテーションをすれば当事者の機能回復や生活の向上につながるのかを客観的に考えてこられました。今度は内面から見つめるのです。ひとつひとつのリハビリテーションの意味はよくわかった上で、関さん自身が当事者として参加するのです。関さんを担当した方は、言語聴覚士は当然ですが、体や関節の大きな動きを診る理学療法士や日常生活の動作を訓練する作業療法士も、ずいぶん緊張したことでしょう。何しろ相手は、この前まで自分たちを指導していた立場の人なのですから。

 関さんはリハビリテーションを受ける際のポイントとして、当事者と療法士の信頼関係をあげておられます。療法士がどのように考え、なぜ、そのリハビリテーションが必要だと思ったのかについて、信頼していなければ効果は期待できない。信頼してはじめて回復が期待できるとおっしゃるのです。それはそうでしょう。不信に満ちていたら、たとえよい技法であっても、効果は表れません。なぜかというと、療法士の仕事は全て脳の機能に関係しているからです。不信の念は、脳の機能まで歪めてしまうことでしょう。

 それとともに、医療行為者としては、回復の見通しを当事者に伝えてほしいとも注文されます。これは、わたしが入院生活をした経験からも、どのような事を言っているのかがよくわかります。大多数の当事者には「脳こうそく」や「失語症」、「マヒ」といった現象の基本的な知識がありません。入院当初は、わたしも自分の置かれた立場が認識できませんでした。わたしの場合は右半身が動かず、言葉も出ず、おまけに気力も湧きませんでした。これから自分はどうなっていくのかという見通しは、知識として、もともと持っていなかったのです。そんな当事者にこそ、客観的な回復の見込み(や回復しない見込み)を伝えておかなければ、当事者として、また人間として、責任ある人生の選択はできません。関さんはその事をおっしゃっているのです。

☆   ☆

 わたしは、この本が誰を読者に想定して書かれたものか、一読してわかりませんでした。「右共同偏視を呈する」(視線が右側に偏っていること)とか「ブロンストロームステージ Br. Stage」(手や足のマヒの程度を測る規準)、「プロソディー障害」(イントネーションやアクセントに違和感があり、跳ねる音や長く伸ばす音などの発音が難しいようす)といった専門用語が次から次に出てくるからです。

 わたしは自分が入院した当事、ある看護師やある療法士は、わたし(=後遺症の当事者)に向かって「プラトーに達する」と言っていたのを思い出します。それは障がい当事者や家族にとって、決して親切な言い方ではありませんでした。「プラトー」とはわたしたちが日常使う言葉ではないからです。「プラトーに達する」という言葉の意味は、「回復の程度をグラフにすると、時間を追って立ち上がりが鈍くなる」ということです。そのグラフの形が、まるで「高原」のようなので、医療関係者は仲間内の符丁(ふちょう)として「プラトーに達する」(=「高原」の形に至る)と言っていたのです(間違っていたら、教えて下さい)。フランス語でしょうか。「回復のスピードが遅くなってきた」と言えば多くの人がわかるでしょう。しかし、「プラトーに達する」でわかる人は、ほとんどいないのです。正直に書くと、当初は『「話せない」と言えるまで』からも似た印象を持ちました。そのために、この書評を書くのをためらっていました。

 ところが、あることに気が付いて、関さんの意図が読み取れたように感じたのです。この本で想定した読者は、まだ経験の浅い若い言語聴覚士や、言語聴覚士になるために、現在、学んでいる学生ではないのでしょうか? そう考えて読み直すと、合点がいくところが多くありました。それに、若い言語聴覚士や学生なら、いちいち気にしなくても専門用語はわかるはずです。わからなくても、参考書が手近にあるはずです。この本を読むのに支障はないのでしょう。

 もう一度ページをめくり直すと、これは関 啓子さんの「内面から診た一例報告」なのではないかとも思いました。「一例報告」とは、「まれにしか見られない症例の記録」という意味の報告論文のことです。「一例報告」のために、この本には発症のようすから、その時のご自分の意識のこと、リハビリテーションの経過までをくわしく載せたのでしょう。

 「脳こうそくの後遺症」と一口で言っても、表れる症状はさまざまです。それはそうでしょう。脳の一部にダメージを負ったのです。その脳は体のいろいろな場所をコントロールするだけではなく、立体を立体として感じたり、イメージや美しさを実感したりします。家族や仲間や社会の概念を認識したりもできるのです。あらゆる情報を受け止め、あらゆる情報を発信するのが脳なのです。ダメージを受けた場所によって、さまざまな事が起こるのは当然です。関さんの場合は、「プロソディー障害」のために新人留学生のように話したり、左側にあるものが、あたかもないように振る舞ったりしました。この事はまれですが、しかし、関さんと同じようなダメージを負った人には、同じように起こる事なのです。それを記録しておくことで、どこかの誰かが救われるかもしない。同じ症状の出る人が多い・少ないの問題ではありません。この記録を残しておく事が、とても大切なのです。

☆   ☆

 関さんは、今、職場のあった神戸から、もともと住んでいた東京に戻っておられます。大学の職を辞して、新しく研究所を立ち上げられたからです。

 我われは、皆、関さんと同じだと思います。関さんと同じような人間の一人ひとりで、社会は成り立っているのです。そのさまざまな人びとが、(その人なりに)元気に活躍することは、社会の活力であり、我われの生きがいでもあります。「働き盛りの人」だけが社会を回しているという認識は、錯覚に過ぎません。元気な人は、つい自分があたかも主人公であり続けるように誤解していますが、いつ事故にあったり病気になるかわかりません。そして事故にあったり病気になっても、社会の主人公であることは、何も変わらないのです。たとえベッドの上で、のたうち回っていたとしてもです。

 わたしたちは、いつでも、その人なりに足掻(あが)いて生きています。倒れるまで足掻(あが)くことは無用の努力でしょうが、でも、努力は続ける必要があります。額に汗して働く努力の事ではありません。充実した生を存分に生きていく努力のことです。

 関さんにお願いがあります。折りを見て、若い医療関係者ばかりではなく、ぜひ一般の人にもわかるように、ご自分の経験をお伝え下さい。充実した生を存分に生きていく努力のさまを、お伝えいただきたいのです。その時は、もう一度、そのご本を読ませていただきます。

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(1) 『我、自閉症に生まれて』
https://shop.gakken.co.jp/shop/order/k_ok/bookdisp.asp?code=1340018200

(2) 『寡黙なる巨人』
http://books.shueisha.co.jp/CGI/search/syousai_put.cgi?isbn_cd=978-4-08-746592-1

(3) 『触る門には福来たる』
https://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/02/7/0230100.html

(4) 『ボディ・サイレント』
http://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784582765663

(5) 『盲ろう者として生きて』
http://www.akashi.co.jp/book/b92693.html

(6) 『奇跡の脳』
http://www.shinchosha.co.jp/book/218021/

(7) 『「話せない」と言えるまで』
http://www.igaku-shoin.co.jp/bookDetail.do?book=81958

 

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三谷 雅純(みたに まさずみ)
兵庫県立大学 自然・環境科学研究所
/人と自然の博物館

冬の虫です

2013年12月 3日
ひとはくのまわり、深田公園の紅葉は盛りをすぎ、寒い冬がやってきました。

今日は冬晴れのよいお天気。
お昼休みにぶらぶらして、虫をみつけました。

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すっかり葉を落としたケヤキの幹に、クロスジフユエダシャクがいました。

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上がメス、下がオス。交尾中です。
フユシャクと言われる、冬にだけ現れるシャクガの仲間です。シャクガは、幼虫が尺取り虫です。
フユシャクでは、オスは普通の蛾の姿をしていますが、メスは翅(はね)が退化して短くなっていたり、なかったりです。
クロスジフユエダシャクは、昼間によく飛ぶ蛾で、各地の雑木林で12月に見られます。

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ひとはく4階通用口前の柱にも、ぽつんと、何かくっついています。

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これは、キバラモクメキリガという蛾です。ヨトウムシの仲間です。
この蛾は晩秋に現れ、来年の春まで見られます。
翅をすぼめてとまるので、折れた小枝のようです。
もっとも、こんなところに止まってたらよく目立ちます。
12月1日(日)にも、ここにいました。二晩同じ場所でじっとしてたということですね。いつまでいるんだろ?

(八木 剛)

 

ラフ・カ・ディオはんや。久しぶりやな。

 

 

 わいらタヨウ星人も夏が過ぎ、秋も過ぎ…いよいよ冬越しや。

 松江のヘルンさんとタヨウ星人展も9月30日に終わり、最後のワークショップと拡大展示をした一畑百貨店も盛況で、小泉八雲記念館には4月6日からの期間中なんと6万人もきてくれはったようや。みなさんおおきに。

   

 

わいも松江で終わりかいなあと思とったら11月15日に明石天文科学館でのイベント「星と本」にもちょこっと出演して、今年は一足早く仕事納めや。

 

         

 ゾウの絵たちも琵琶湖博物館の企画展いきものがたり展示にちょこっと登場。これで故郷のよこはまズーラシアへ帰るみたいや。

 

 

 で、仲間のタヨウ星人たちはというと丹波篠山あどべんちゃー2で「ささやまカラフルパラダイス」というお題で鈴木研究員、大谷名誉研究員、地域研究員のちんげんさいの3人と共演。今回はカラフルなはっぱたちと鳴く虫の探検とオハナシや。

 

      

 

 すっかり葉っぱも落ちたし、ほな、また春に。おやすみ…

 

 

 

 

 

11月9(土)・10(日)に 1階展示室「世界の森」コーナーで

葉っぱや木の実で 壁飾りをつくりました~

 

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         四角い段ボールの額が 斬新アートに変身!

 

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 素敵な作品ができましたよ~(*^_^*)

 

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  木の椅子の座り心地は いかがでしたか?

  木のぬくもりを 感じてもらえたかな?

           フロアスタッフ谷口・田中・小野                                         

ユニバーサル・ミュージアムをめざして40

「正義の倫理」と「ケアの倫理」

三谷 雅純(みたに まさずみ


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キャロル・ギリガン

 

 キャロル・ギリガン(Carol Gilligan)の名前は、丸山里美さんのお書きになった『女性ホームレスとして生きる 貧困と排除の社会学』 (1) を読んでいて知りました。ホームレスとは、今ある社会制度からはずれてしまった人たちのことで、路上や河原、公園といった誰も私有していない土地や、山のように私有していても、あまり人の来ない土地で暮らす人たちです。かんたんな家を建てて定住している場合もあるのでしょうが、普通はブルーシートで作ったテントなどで暮らしています。

 そのホームレスです。圧倒的に男性が多くて、女性は全体の一割とか二割に過ぎないのです。それはなぜなんだろうという疑問が湧(わ)いて、丸山さんは女性ホームレスの事を社会学的に調べるようになりました。

 調べていくと、いろいろな事がわかりました。もともとホームレスは丈夫そうに見えませんが、それは病弱であったり、高齢であったり、障がいがあったりするためです。都市に住むホームレスは圧倒的に男性ですが、女性はホームレスを続けるには危険や困難が多く、また男性と違って女性は、その人が面倒を見ないと、やはりホームレスの男性――パートナーと呼べばいいのでしょうか?――は死んでしまうかもしれない、といった人間関係に縛られて、ホームレスにとどまり続ける人が多い事などです。

 その「人と人の関係」は、女性によく見られる――「女性独特の」というわけではありません――倫理観と呼んでよいのかもしれません。ここで「キャロル・ギリガン」が出てきます。

 ギリガンはアメリカ合衆国の心理学者で、大学の教員をしています。発達心理学者の立ち場から子どもたちの成長を観察していて、男の子と女の子ではものの考え方に違いが見られることに気が付きました。男の子は割り切った考え方をするのですが、女の子は人と人の関係を大切にするというのです。ギリガンはこのことを考えていって、『もうひとつの声』という本を書きました。それまで正しいと思われてきた規準とは別の規準で、人の成長や発達といったことを考えないと、女の子の発達はわからないと主張したのです。丸山さんは女性ホームレスによく見られるこの感性がギリガンの主張とよく合うと言います。このギリガンの本は、出版されると大きな論争を巻き起こしていったそうです。その影響は倫理学やフェミニズム、社会学といった分野に広がりました。

 ギリガンの主張をよくあらわす例として、「ハインツのジレンマ」が取り上げられます。少し長いですが、『女性ホームレスとして生きる』から引用します。『女性ホームレスとして生きる』の246ページにあります。

 発達心理学者であるギリガンは、道徳的葛藤状況のなかで選択を迫られた人びとが取る対応について研究するなかで、女性は道徳や人との関係について、男性とは異なる語り方をする傾向にあることに気づく。このことを象徴的に示すのが、「ハインツのジレンマ」と呼ばれる、有名な道徳性の発達指標に対するギリガンの疑問である。これは癌にかかった妻を救うために、夫のハインツは高価で買えない薬を盗むべきか否かを問うもので、その回答が男女では異なる傾向にあるとギリガンは言う。男の子のジェイクは薬を盗むべきだとはっきり答え、財産と生命を比べて生命の方が尊いと判断し、これを権利の問題へと修練させていく。女の子であるエイミーは、薬は盗むべきではないが妻を死なせるべきでもないと自信なさそうに答え、薬屋が二人の事情に配慮しないのがよくないのだと言って、これを責任の問題として解釈したのである。従来の発達理論においては、人間の発達は他者を気遣うことから、規則や普遍的な正義の原理にしたがう つぎの段階に漸進的に発達すると想定されて来たために、エイミーはジェイクよりも未成熟であると解釈されてきた。だがギリガンは、発達段階をはかるものさしが男性を規準につくられており、伝統的に女性の徳だと考えられてきた他人の要求を感じ取るという特徴こそが、女性の発達段階を低いものにしてきたことを指摘したのだった。(2)

 わたしは丸山さんの女性ホームレスの社会学を扱ったこの本とは別に、全く独立して柏木惠子さんの『おとなが育つ条件――発達心理学から考える』 (3) という本を読んでみて、「結びに代えて」の中で、再びギリガンの名前が出てきたので、びっくりしてしまいました。まあ、柏木さんは発達心理学者ですから、同じ発達心理学者(で、同じく女性研究者)のギリガンのお名前が出てきても不思議ではないのでしょうが、偶然読んだ二冊の本が、共にギリガンを引用していたのです。びっくりです。ギリガンという研究者は、本当にさまざまな学問に影響を与えたのです。

☆   ☆

 ギリガンは確かに、女性は周りの人の思いを考慮し、男性は周りの人の思いを気にかけるよりも原則に忠実だと言いました。わたしの身近にいる人を思い出してみると、当たっているように思います。男女は性によって役割が違うと主張しているかのようです。「性によって社会的役割が違う」という意見に敏感なフェミニストは、そこを批判しました (4)。

 しかし、ギリガンが『もうひとつの声』を書いた動機は、この本が出るまでは男の子にありがちな物事のとらえ方、つまり、周りの人の思いに左右されずに下す判断――冷静な判断であるとも、場合によっては冷酷な判断であるとも言えます――の価値が高く、女の子にありがちな周りの人の思いを考慮して下す判断は価値が低いという規準は、「男性優位の神話」にしか過ぎないという点にあるのです。その意味では、ギリガンもフェミニストだと言えます。

 現実には、「男性は周りを考慮せずに行動し、女性は気を使ってばかりいる」ということはありえません。わたしたちには誰にでも、育った環境や時代や文化によらず、どちらの傾向もあるのです。このふたつの考え方は、「正義の倫理とケアの倫理」と呼ばれたりします。ただ、ギリガンが『もうひとつの声』を書いた時には、その内の「正義の倫理」で現(あらわ)される男性原理だけが価値あるものとして認められ、「ケアの倫理」は本物の倫理的な規範とは認められていなかったのです(何と愚かな!)。

☆   ☆

 「ケアの倫理」は、今では、例えば看護師の持つべき倫理観として語られることが多いようです。看護師が「看護婦」と呼ばれた時代には、看護師は女性である事が当たり前でした。そのかわり医師は大部分が男性です。この暗黙の役割分担――そこには「看護婦と医者の身分差」もセットになっています――は、批判されて当然です。それが看護師と呼ばれるようになって、男性も看護に心を砕くことが当然になりました。また、今では医師とだけ聞いても、会ってみるまで男性か女性かはわかりません。つまり、男女ともに「ケアの倫理」を身につける事が求められるようになったのです。

 「正義の倫理」で想定されている人は「自立した責任ある個人」です。「自立した責任ある個人」が病人や障がい者や高齢者であってもかまわないのですが、病人や障がい者や高齢者は、いつも健康な精神を保ち続けているわけではありません。実際の病人や障がい者や高齢者では、気持ちが落ち込んでいる事がよくあります。その時には「ケアの倫理」が必要になります。他者の心を見つめる目が必要になるのです。

 ただし、「ケアの倫理」では「ケアをする人」と「ケアを受ける人」が出てしまいます。これが親と子どものような関係であれば、おとなが子どもの世話をする事は当然だと受け取る人が多いでしょうから、<ケアをする親/される子ども>で何の不思議もありません。おとなが子どもの世話をするという意味でなら、幼稚園や小学校・中学校も同じでしょうし、里親と血のつながりのない子どもでも同じです。ところが、おとなとおとなの間に「ケアをする人」と「ケアを受ける人」が生まれると、関係は急に非対称性がクローズ・アップされてしまいます。「ケアをする人」は一方的にケアを施し続けねばならず、「ケアを受ける人」はケアを受けなければ生活できないという事態になってしまうのです。これでは「ケアをする人」の負担ばかりが増え、「ケアを受ける人」は気が重くなってしまいます。「する側・される側」の両方がストレスを溜めてしまいます。

 看護師だとか教師であれば、まだ労働の代価がお金で支払われるのですから、(お金で納得できるのであれば)それもいいかもしれません。しかし、人と人の関係はお金で解決が付くとは限りません。老いた親を子どもが面倒を見る時でも、例えば、ほかの家から嫁いできたお嫁さんが義父や義母の面倒を見る時は、報酬を支払う/もらう関係とは異なるでしょう。それが「障がいのある、すでに成人した人の世話をし続ける他人」となったらどうでしょう。果たして自分は「ケアの倫理」を保ち続けることができるかどうか、とても自信がない、とおっしゃる方は多いのではないでしょうか。

 ヒトの行動生態学には「互恵的利他行動」と呼ばれる概念があります。普通、動物は自分と遺伝的に近いコドモや兄弟を助けて自分の遺伝子が残るようにするものです。ところがヒトは、必ずしも遺伝的に近い家族だけを助けるのではなく、遺伝的には関わりのないヒトまで助けてしまいます。困っている他人を助ける。それが、次に自分が困っている時には助けてもらうことにつながる。……この繰り返しによって、親切のネットワークは広がっていきます。こんな行動を、特に「互恵的利他行動」というのです。

 「ケアの倫理」は「互恵的利他行動」と関係が深いと思います。同じ事かもしれません。ただ、違うように見えることのあります。「互恵的利他行動」では、親切のネットワークは巡り巡って、いつか自分にもいいことが返って来るのです。「互恵的利他行動」を取る人が、その事を自覚しているかどうかは別にして――報酬を当てにして「親切に振る舞う人」というのは、あまりいないでしょう――、少なくとも、他人に親切にすれば人間関係がよくなり、気分よく日びが送れることは確実です。

 「互恵的利他行動」とは、普通、動物の世界ではあると考えられない利他行動が、ヒトに進化している。それはなぜなのだろうと考えた理論的な結論です。実際の具体的な人がその事を認識している必要はありません。知らなくてもやってしまうから、行動が進化で語れるのです。それに対して「ケアの倫理」とは具体的な人間の行動規範です。必ずしも、「知らなくてもやってしまう」というものではありません。しかし、ギリガンが指摘したように、この規範はヒトの遺伝子に書き込まれた行動であるかのようです。つまり、知らない間に、ついやってしまう行動という意味です。

 「ケアの倫理」でも直接の利益は期待できないのかもしれません。しかし、巡り巡って「親切のネットワーク」は自分にも及ぶのです。ユニバーサル・ミュージアム(=開かれた生涯学習施設)では、「ケアの倫理」は、あって当然です。そこに「直接の利益」、例えば「集客数が上がるから」とかいうのは、かなりピントはずれの態度です。
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(1) 丸山里美さんの『女性ホームレスとして生きる 貧困と排除の社会学』(世界思想社)は:
http://sekaishisosha.co.jp/cgi-bin/search.cgi?mode=display&code=1593

(2) 英語ですが、この「ハインツのジレンマ」のくだりは、インターネットに公開されていました。
https://lms.manhattan.edu/pluginfile.php/26517/mod_resource/content/1/Gilligan%20In%20a%20Different%20Voice.pdf

(3) 柏木惠子さんの『おとなが育つ条件――発達心理学から考える』は:
http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn1307/sin_k719.html

(4) 例えば東京大学におられた塩川伸明さんは、ギリガンの『もうひとつの声』を書評して「上野千鶴子はギリガンの議論を、かつてのような生物学的性差還元主義とは異なるものと認めた上で、それでも文化と社会の中でつくられるジェンダーを逃れるのは難しいという理由で『女性性』を固定化・本質化する――但し、かつてのようにそれをおとしめる代わりに、むしろ肯定的意義を付与して賞賛する――ものだという風にまとめる」と書いておられます。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~shiokawa/books/Giliganpdf.pdf

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)
兵庫県立大学 自然・環境科学研究所
/人と自然の博物館

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