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ユニバーサル・ミュージアムをめざして58

 

誰が美しいと決めるのか?-2

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)

 

 

 Inclusion through Design_FP.jpg

  ジュリア・カセムさんの『「インクルーシブデザイン」という発想:排除しないプロセスのデザイン』という本を読んで、インクルーシブ・デザイン(この本では、分かち書きのない「インクルーシブデザイン」)やユニバーサル・デザインについて考えたことを書いています。

 

☆   ☆

 

 もうひとつ。この本を読んでいて、これは何か変だと感じたことがありました。それはデザイナーとデザイン・パートナー(ここでは障がい者や高齢者)が、共同してものを創っていく(219ページから221ページ)という発想です。

 

 誤解しないでほしいのですが、デザイナーが美的感覚や創造力を生かし、障がい者や高齢者が自分の経験を生かすというのは、まさにインクルーシブな協働です。デザイナーが美的独善に陥(おちい)る愚を防げますし、デザイン・パートナーは積極的に創作に貢献できるのです。ただこのことを、さらに突っ込んで考えてみると、例えばデザイナーが障がい者だったら、どうなるのだろうと思ってしまうのです。

 

 もしデザイナーが障がい当事者だとしたらどうでしょう? その場合は、デザイン・パートナーはデザインだけに没頭するデザイナーの頭を冷やすことが求められるのでしょう。そうでないと、その障がいのあるデザイナーは自分にだけ便利なデザインをしてしまうかもしれません。自分の思いだけで良しとしてしまうのでは、インクルーシブなものはできません。感覚の違う人たちがグループになり、コミュニケーションしあい、協力しあうことで、より使い勝手のよいものができあがる。そのことの方が重要なのだ。つらつら、そんなことを考えました。

 

 カセムさんの言うデザイナーとデザイン・パートナーは、健常者と障がい者や高齢者のことです。イギリスではデザイナーの60パーセントが40歳以下の青年で占められている(198ページ)そうです。デザイナーにこっそり潜む障がいがあっても(人には自分でも気が付かない障がいがあるものです)、その障がいは、まだ目には見えないでしょう。そしてユニバーサル・デザインやインクルーシブ・デザインの利用者は、デザイナーの生きる世界の「外側」にいる障がい者であり、高齢者です。カセムさんも、この思考の罠(わな)に捕まっているのかもしれない。そんな気がしました。

 

☆   ☆

 

 デザイナーは単なる技術者ではない。美的な感覚と感性がためされる芸術家です。わたしは霊長類学という、70パーセント理系、30パーセント文系の人類学(もちろん、研究者によって見方は異なります)を専門にしているので、わかる気がするのですが、デザイナーにとって審美性とか美的感覚は、とても大切なものなのです。

 

 わたしには、仕事をする上では美よりも真理が重大事です。しかし、カセムさんにとっては真理よりも美が重大事なのかもしれません。ただし、真理と美は介在するものが違います。つまり、「真理」は文化や時代性といったものに影響を受けない(はずの)ものですが、「美」は文化によっても、また時代によっても変わるのです。先ほど「判断する基準」について書きましたが、ここでも同じことを言います。何を美しいと感じ、何を醜いと感じるのかの基準を示さないと、わたしのようなデザインのイロハも知らないシロウトは戸惑うばかりなのです。

 

 わたしは、「人(あるいはヒト)に理想の姿などはなく、時代と場所に応じて多様に変わる『人(あるいはヒト)像』だけがある」のだと思っています。そのように仮定して、ものごとを考えています。この考え方から、多様な人(あるいはヒト)を生かすためにはどうすればよいかと考え、ユニバーサルな物事の発想を探ってきたのです。その上で問いますが、では障がい者スポーツに使うスポーツ義足やスポーツ車イスやチェアスキーは、はたして美的でしょうか。かっこう良く、機能的です。わたしなど、スポーツ車イスやチェアスキーが乗りこなせたら、世界は変わるだろうなと思います。しかし、「美的」というのとは違うと感じるのです。

 

 もちろん「美的」だと感じる人もいるのでしょう。人によって感覚は違うのが当然です。そんな感覚の違いは、使用者(=障がい当事者)によってもあるはずです。例えば男女には感性に差があるでしょう。育ってきた環境も影響します。年齢も違います。障がいの種類も違います。視覚障がい者と失語症者では、美しいと感じる内容が大きく違って当然です。そんな多様な人びとがいるのだから、その人たちには、使い勝手だけではなく何を美しいと感じるか(あるいは、感じないか)を、当事者にこそ選ばせてほしい。そう思いました。デザイナーは創意を発揮した提案ができます。しかし、デザイナーは必ずしも障がいの当事者ではありません。だからこそ、インクルーシブ・デザインにはデザイン・パートナーが必要だと発想したのではなかったのですか。

 

 違うでしょうか?

 

 

 

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)
兵庫県立大学 自然・環境科学研究所
/人と自然の博物館

ユニバーサル・ミュージアムをめざして57

 

誰が美しいと決めるのか?-1

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)

 athletes.JPG

平成25年度 誰にでもやさしい観光地づくり形成事業 観光バリアフー推進モデル事業 報告書から引用しました。
発行 : NPO法人バリアフーネットワーク会議(沖縄市照屋)
http://barifuri-okinawa.org/bfn/

 

 障がい者のスポーツ大会で、もっとも有名なものがパラリンピックです。国際的な大会です。パラリンピックでは、スピードの出るスポーツ・タイプの車イスとか、板バネのような強くしなう義足など、日常では使わない、しかしスポーツの世界では当たり前の装具をご覧になった方も多いでしょう。アスリートたちの、まさに手足となる道具です――リハビリテーションの世界では、このような道具の内、身に付けるものを装具(そうぐ)と呼ぶので、ここでもそう呼びました。もちろんスポーツ大会ですから、必要以上に力の出る装具は認められません。補助ロボットのたぐいもタブーです。補助ロボットを付けて競技に出たら、ドーピングをするようなものですものね。しかし、一定のルールの中でなら、従来の装具概念を打ち破った新たな装具が認められます。制約の中で、いかに速く、いかに強いものを創り出すか。それはデザイナーや技術者の腕の見せどころです。デザイナーや技術者にとってパラリンピックの競技場とは、感性と知恵を競うアリーナであり、スタジアムなのです。

 

 わたしが、パラリンピックは「デザイナーや技術者の腕の見せどころ」だと知ったのは、ジュリア・カセムさんの『「インクルーシブデザイン」という発想:排除しないプロセスのデザイン』 (1) という本を通じてでした。現代では障がい者のための道具を創るデザイナーや技術者には、パラリンピックなど国際的な競技大会が格好の舞台となったのです。それなら、現代のようにパラリンピックが脚光を浴びるまでは何を通じてだったかというと、......それは戦争でした。

 

 大昔から、戦争はさまざまな技術を発展させてきました。火薬や大砲はもちろんですが、最近では衛星写真やコンピュータ技術など、「戦争のおかげで発展した技術」がいろいろあります。障がい者は戦争のどこから恩恵を受けているのかというと、それは義肢(ぎし)です。金属の棒を足にくっ付けただけのような素朴な義足――報道写真で見たことがあります――から、最新のテクノロジーを駆使して、脳波で人工関節や人工筋肉の動きが当節できる義足まで、失った手足を蘇(よみがえ)らせる技術なのです。

 

 戦争はどんどん過酷さを増しています。無人戦闘機ではパイロット役の技術者が、「日常の業務」として家から通勤できるオフィスで、遠隔操作のミサイルを放ちます。そして死者の数――ミサイルを発射する側にではなく、発射される側の――は、うなぎ登りに増えていきます。兵士が身体を張って陣地を争ったころの戦争とは、較べものになりません。兵士ばかりでなく、ごく普通の家族や親子までが殺されます。いくら「大義」があったところで、国家が人を死に追いやるのが戦争の実態です。できるだけの補償はし(て見せ)なければ、国家の体(てい)をなしません。その補償のひとつが、高度な技術を駆使した装具の開発にあったのです。時代の潮流が追い風となって、現在はそれがパラリンピックに受け継がれたのでした。戦争は現実に起こる人間の行いですが、戦争を「戦争」と言葉に出すことが、はばかられたのかもしれません。

 

☆   ☆

 

 インクルージブ・デザインとユニバーサル・デザインは、もともと同じような考え方です。ただしカセムさんは、ユニバーサル・デザインという言葉が嫌いなようです。『「インクルーシブデザイン」という発想』によると、ユニバーサル・デザインは官僚的で、当事者(=障がい者や高齢者)の使い勝手ではなく、形式をそろえることだけに腐心していて、当事者の意見を聞くことがない(この本の66ページから70ページ、78ページから79ページなど。以下、同じようにページ数を表記します)とおっしゃいます。日本では「ユニバーサルデザイン」という言葉が浸透してきましたし、多くの役所で、今や「ユニバーサルデザイン」は大流行です (2)。わたしが書いている、このコラムも、「ユニバーサル・ミュージアムをめざして」です。確かに、「当事者の意見を聞かず、形式だけをそろえる愚を犯して、それでよしとする」というのは、昔も今も、日本の悪しき習慣です。その習慣を改めるために、「みんなの美術館プロジェクト」 (3) では、美術館を訪れるさまざまな困難を抱えた人たちの声を集め可能な解決策を提案しています (4)。また、このコラムには、以前、博物館員になりたい車イスを使う中学生の博物館探検記(=ひとはくの良い所と悪い所):「聞いてみて、初めてわかることがある-1」 (4) を書いたことがあります。自分たちの周りにはたくさんの当事者がいる。それにも関わらず、それでも当事者には聞こうとしない態度を皮肉ったのです。マニュアルに頼って、あるいは「専門家」や「デザイナー」と称する人が勝手に決めることで、不便の何がわかるというのでしょう?

 

 このカセムさんの本を読んでいて、わたしが不思議に思ったこともあります。それは、ユニバーサル・デザインは(利用者でなく)デザイナーにとって安全で退屈、そしてしばしば醜い(185ページ)と書いてあったのです。「醜い」とは強いことばです。「ある品物が醜い」という以上、そこにはそれなりの判断基準があるのだと思います。どのような規準で判断されたのでしょうか。これを「デザイナーとしての審美性」(191ページ)だとおっしゃっても、その審美性には、さらに、何が美しいのか、何が醜いのかという客観的な規準があるはずです。ところが、この本の中に、明確な規準は書かれていませんでした。これは、いちばん不思議な点でした。

 

 ユニバーサル・デザインは形式的で、みんなに使いやすいものは、本当には実現しない(68ページ)のだと、カセムさんは主張されています。まさにそうだと思いました。だから多様な人それぞれの要求をデザインに生かすことが大切だと主張されているのです。これも、そのとおりだと思いました。

 

 しかし、「醜い」という判断は強烈です。おそらく、それは、多民族から成り立つコミュニティでは――カセムさんはイギリス人だということですが、ヨーロッパは自分たちとは生活習慣の違う異民族が隣り合って生活しています。第一、グレートブリテン・北アイルランド連合王国(=イギリス)自体が、もともと独立した制度や習慣、そして伝承を持った、いくつもの民族で成り立ったものなのです――曖昧(あいまい)なことは嫌われます。ヨーロッパでは、定義の明確な法という文章で定めることが重要なのです。その法定主義的な文化や習慣が、芸術家という、もっとも自由な精神をもっているはずのカセムさんには、耐えられなかったのかもしれません。

 

 次に続きます。

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(1) 『「インクルーシブデザイン」という発想:排除しないプロセスのデザイン』 ジュリア・カセム著、平井康之 監修/ホートン・秋穂 訳、フィルムアート社 (Inclusion through Design by Julia Cassim)

http://filmart.co.jp/books/design/「インクルーシブデザイン」という発想/

Inclusion through Design_FP.jpg 

(2) 「インクルーシブデザイン」や「ユニバーサルデザイン」という書き方には、表記の〈わかりやすさ/わかりにくさ〉という点で大きな問題があります。最近の日本語では、外国語を表記する時に、「ユニバーサル デザイン」のような分かち書きも、「ユニバーサル・デザイン」のような中黒も使わなくなりました。なぜでしょうか? それなりの理由はあるのでしょうが、わたしは、よく知りません。おかげで、失語症などの高次脳機能障害者やコミュニケーション障がい者が、〈読めない・理解できない〉ということが、よく起こります。しっかりとした認識能力を持っていたとしてもです。おそらく、ひらがなやカタカナのような表音文字でも、「分かち書きをしない」とか「中黒を入れない」というのが、「いま風の日本語」なのでしょう。しかし、当事者の戸惑いを知った上で、当事者の存在を無視してまで流行を優先するという態度に、わたしは書き手の傲慢(ごうまん)さを感じます。意識しないで書いているのなら、そこにはまた別の傲慢さが潜んでいるのでしょう。ドイツ語は単語をやたらと続けて書くことがありますが、英語やフランス語では単語ごとに区切るのが当たり前です。先日、本当にひどいと思った例がありました。ある本の表紙に「ユニバーサルデザインハンドブック」と大まじめに書いてあったのです。悪ふざけで書いたのではありません。これなど高次脳機能障害者やコミュニケーション障がい者でなくても、一回読んで(眺めて?)わかる人は、圧倒的に少ないのではないでしょうか。

 

(3) みんなの美術館プロジェクト

http://www.museumforall.org/

 

(4) 『みんなの美術館デザインノート』(みんなの美術館プロジェクト Museum for All Project Museum x Inclusive x Design Committee)

http://www.museumforall.org/102work.html

http://www.museumforall.org/pdf/DESIGN_NOTE.pdf

 

(5) 「聞いてみて、初めてわかることがある-1」

http://www.hitohaku.jp/blog/2014/06/post_1883/

「聞いてみて、初めてわかることがある-2」

http://www.hitohaku.jp/blog/2014/06/post_1884/

 

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)
兵庫県立大学 自然・環境科学研究所
/人と自然の博物館
台風の接近も心配されていたのですが、10月4日5日の二日間、神戸ハーバーランド近くの会場にて「ひょうごミュージアム2014」が開催されました。ひとはくも二日間ワークショップ出店で参加してきました。

 オープニングステージでは、こべっこ少年少女合唱団による合唱曲のご披露がありフェアの開会を盛り上げてくださいました。また県内のゆるキャラたちも何人か集合して、会場のあちらこちらで写真撮影に応じてくれました。
         

 今回ひとはくから提供させていただいたワークショップは......石膏でつくったアンモナイトのレプリカ(真っ白)に、絵の具で自由に色を塗ってもらう、というものでした。ホンモノのアンモナイトの標本も展示していましたが、子どもたちの発想力にはほんとに驚かされます。石頭の大人の私には真似できない自由な発想で、カラフルに色を塗ってくれました。

     

        



 会場は両日とも大変な盛況でした。

 参加いただいたみなさま、ありがとうございました!!


生涯学習課

恐竜に変身だ!!

2014年10月 5日
4階ひとはくサロンに、とつぜん・・・
トリケラトプスティラノサウルスがあらわれました。

s-teliranoha.jpg

じりじり近づいてきて...

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  「ガオォォーーーッ!!」

s-s-teliranoha3.jpg

きゃー!大迫力ですね。
こちらは、トリケラトプスとティラノサウルスに変身できる
なりきりハットです。

博物館に遊びにきてくれたおともだちに、なりきってもらいました(*^_^*)

恐竜に変身したいおともだちは、
博物館の4階ひとはくサロンのカウンターに、なりきり恐竜ハットがあります。
トリケラトプスとティラノサウルスに なりきっちゃいましょう♪

イベントもたくさんご用意しておりますので、ぜひ遊びに来てくださいね。
                             (フロアスタッフ まつだ)

秋は遠足のシーズン、ひとはくにもたくさんの小学校が来てくださり、
館内もとても賑やかです。

さて、先日ブログにも掲載した10/4、5のイベント
フロアスタッフとあそぼう「六角パズル」ですが
カウンターに置いていたところ、みんな興味津津!
とても楽しそうに遊んでいました^^

s-P1020596.jpgs-P1020597.jpg
ちなみに参加費は無料!

みなさんもぜひ今週末、ご参加ください!
お待ちしております。

フロアスタッフ きただにさやの

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