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「学んで魅せる標本展」企画展講座
  自然史標本を魅せる多様なアプローチ
   
20151005kouza.jpgこの講座では、自然史標本との接し方には、色々なスタイルが存在し、研究者だけでなく色々な人が関われることを知って頂ければと考えています。標本と言えば、昆虫をピンで刺して並べたもの、植物を台紙に貼ったものなどを想像しがちですが、それだけではありません。樹脂に封入する方法や動物の骨格標本、クラゲのゼリー標本など色んな方法があります。種類だけでなく、関わり方や活用の目的も多様。身近な自然素材を活かした素敵な雑貨、小さな微生物をモチーフにしたアート作品、高校の生物部や市民団体が取り組む標本づくりなど、発想しだいで自由な世界をつくりあがることができます。
このセミナーでは、そんな自由な世界を楽しんで頂ければと考えていますので、みなさま気兼ねなくご参加くださればと思います。  

 日時: 2015年10月25日(日) 13時30分~16時30分 終了しました。
 場所: 兵庫県立人と自然の博物館 大セミナー室
    (観覧料のみ必要です: 受講料・申込みは不要です、どなたでも何歳の方でも参加できます!)

【 内 容 】
  自然史標本の多様性 ~作り方と関わり方~  三橋弘宗(兵庫県立人と自然の博物館)
  高校生がつくるキノコ標本と展示  河合祐介(兵庫県立御影高等学校)
  えぞホネ団Sapporoがつくる愉快な標本たち  工藤智美(えぞホネ団Sapporo・団長)
  自然の造形美を伝える、根付かせる    吉村紘一(ウサギノネドコ)
  小さな生き物を巨大化するアート  宇野君平(成安造形大学)
 
  会場を交えてのよもやま討論会 
  コーディネーター  西澤真樹子(なにわホネホネ団・大阪自然史センター)

 開催中の企画展情報はこちら(http://www.hitohaku.jp/exhibition/planning/hilyouhon.html
 当日のようすはこちら(http://www.hitohaku.jp/blog/2015/10/post_2078/

(みつはし ひろむね)

10月2日(土)、3日(日)『ひとはくHALLOWEENが行われました♪

ミドリメガネトリバネアゲハオニヤンマジンメンカメムシの3種類のお面が用意されましたよ!
omen.gif

ちょっと不気味なお面たち...きみはどれがすきかな!?

それぞれ好きなお面を選んで作ったら、仮装パーティーのはじまりです

halloween.gif                                                     ※クリックで拡大されます。

マントやほうきなどのグッズをつかって、みなさんノリノリで記念撮影!

ぜひ昆虫お面でハロウィンパーティーに参加してくださいね♪
みんなの注目の的になること間違いなしですよ~(^○^)


ご参加いただいたみなさま、ありがとうございました。

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 お月見三昧

2015年9月29日

 二日続けてお月見をすることができました。


 9月27日(日)は【中秋の名月】
 これは旧暦の8月15日の月をして「中秋の名月」と呼ぶそうです。
 そして大事なのは、「必ずしも満月ではない」と言うことのようです。見た目はほぼ満月ですが、月齢は15に満ちていないようです。
800x800 IMG_1005.JPG 夜半には雲に覆われてしまいました(>_<)
800x533 IMG_1015.JPG

 9月28日(月)は【スーパームーン】
 この日が満月。
 そして地球との距離が最接近している満月ということで、見かけの大きさが通常の1.14倍になっているそうです(ひとまわり大きく、そして明るく輝く!!)。なのでスーパームーンというようです。月が日が東の空に昇った直後の様子です。大変赤味を帯びた月になっています。
 2枚の写真はほぼ同じ比率で切り出していますが、そんなに大きさの違いが分からない^^;
800x800 IMG_1055.JPG                          写真のピントが甘くなったのはご愛敬^^;



 が....この日も同じく夜半には雲に覆われてしまいました(>_<) 
800x533 IMG_1067.JPG
 しかし、明け方西に傾く頃には、すっかり晴れてピカピカ輝いていました(写真はありませんが、寝床から視認しました(^^))



 条件が整わなければなかなか見ることができないのですが、是非夜空を見上げてみてください。


 次のお薦めは.....10月22日頃の【オリオン座流星群】でしょうか?
 晴れるといいな(^^)/



ユニバーサル・ミュージアムをめざして69

世界のとらえ方が違う人-2

三谷 雅純(みたに まさずみ)



 『目の見えない人は世界をどう見ているのか』をお書きになった伊藤亜紗さんは,美学という哲学の一分野を研究していらっしゃいます.また,ご自身でアート作品を制作してもいらっしゃいます.

 美学というのはふしぎな学問です.もやもやとして輪郭が明らかでない,しかし,確かにそこにあるものを言語化する,言葉に直す試みだそうです.「輪郭が明らかでないもの」は,普通,言葉では表せません.なぜなら,「言葉にする」とは,何らかの意味で「形をはっきりさせる」とか「定義を下す」といった行為だからです.言葉では表せないものの代表が「美とか優美といった質をとらえる感性のはたらき」(p 25)であり,さらに「芸術」(p 25)だそうです.もやもやとして輪郭が明らかでないものを言葉に直そうとするのですから,美学では「質をとらえる感性のはたらき」や「芸術」が攻略の目標になるのです.

 伊藤さんはある時,世界はこうだと感じている,その感じ方は人によって違うのだと気が付いたと言います.世界とは実のところ,個人個人で皆,違うと言っていいのです.その感じ方,つまり伊藤さん個人とは異なる世界観を持つ代表者が「目の見えない人たち」でした.「世界のとらえ方が違う人-1」にも書きましたが,伊藤さんのアプローチは決して「世界の中心にいる健常者が施(ほどこ)す福祉」ではありません.「見方を変えれば,世界はがらっと変わる」.そのドキドキ感こそ,伊藤さんが本当に伝えたかったことだという気がします.

 同じような試みは別の本にもありました.志村真介さんのお書きになった『暗闇から世界が変わる――ダイアログ・イン・ザ・ダーク・ジャパンの挑戦』 (1) です.

 「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」(Dialog in the Dark: DID 〈暗闇での対話〉)はすっかり有名になりました.DIDのイベントを取り入れている博物館もあります.このコラムの読者には,ご存じの方も多いと思います.しかしDIDは,有名なわりに誤解を受けることが多いようです.「視覚障害者の暮らす世界を疑似体験できるイベント」だと誤解している方が多いのです.

 志村さんは「視覚障害者世界を疑似体験」することを否定はしません.否定はしませんが,しかし,このイベントの本質は違うと言います.まず,このイベントのようすを説明しておきましょう.

 DIDの会場は真っ暗闇です.その真っ暗ななかに,何かの品物や出来事があります(世界を目で見ている人にとっては,「隠されています」).その品物や出来事を使って暗闇だからこそできるしかたで楽しみます.楽しむ人は8人までのグループです.みんな「世界を目で見ている人」です.つまり普段は視力に頼って生活しています.ですがそこは暗闇です.視力は役に立ちません.きっと,すくんでしまって一歩も動けない人もいるでしょう.それを助けるのが「目の見えない人」なのです.DIDでは「目の見えない人」のことをアテンドと呼びます.

 アテンドとは「案内人」という意味です.「目の見えない人」にとって暗闇は日常生活を過ごしている場所です.暗闇を自由に動けなくては,そもそも生活自体が始まりません.暗闇を自由に動ける能力があるのですから,急に視力を失って立ちすくんでいる「目で見ている人」をガイドすることは簡単でしょう.雑作もないことのはずです.しかし,「目で見ている人」にとってはというと,そこでは「目の見えない人」がスーパーマンのように感じるはずです.暗闇という空間では「世界を目で見ている人」ができないことをするのですから.

☆   ☆

 日本では,本当に真っ暗闇にできる体育館のように大きな施設は,あまりないようです.しかし,DIDが始まったヨーロッパでは,例えば「暗闇のディナー(当然ワイン付き)」や「暗闇のボート乗船」といった催しがあると聞きます.8人もの人が一度に食べる「暗闇のディナー」には,ずいぶん大きな食卓が必要です.給仕は暗闇で日常生活を送るアテンドが勤めてくれるのでしょうが,それにしても料理を作ったり,運んだり設備は必要でしょう.第一,暗闇で注がれたワインをこぼさずに飲む時には,きっと緊張するはずです.「暗闇のボート乗船」に至っては,広い空間も必要ですが,それ以上にプールが必要になります.ぐらぐら揺れる不安定なボートに乗り込む時はアテンドを信頼して,普段は「目で見ている人」が「目の見えない人」に介助してもらう以外に方法はありません.

 日本のDIDは,例えば「世界を目で見ている」小学生が集まってロープを握り,キャーキャー言いながらそのロープを頼りに進むとか,その進んだ先に何かおもちゃが置いてあって,それを子どもたちはこわごわ触ってみるといったものだと聞いたことがあります(違っていたら,教えて下さい).その時のアテンドは「目の見えない」スーパーマンが務めてくれます.暗闇の中で自分がどこにいるのかわからなくなってしまった子は,このスーパーマンが見付けて,ちゃんと連れ戻してくれるそうです.

 状況が変化したら「世界を目で見ている人」は何もできなくなり,「目の見えない人」がスーパーマンに変身する.これが肝心です.

 ひとはくは,最近,少しずつ変わってきています.ですが「世界の中心にいる健常者が施(ほどこ)す福祉」が大事だと誤解している人は,まだ多いように思います.ひとはくにとって障がい者は,あくまで来館者の側にいます.接遇は大事なことですが,「障がい者が提供するサービス」というDIDのような発想は浮かばないようです.しかし,それでは伊藤さんが伝えたかった「見方を変えれば,世界はがらっと変わる」というドキドキ感は経験できません.「健常者が世界の中心にいる」のは,世の中の仕組みを組み立てたのが,たまたま「健常者」だったからです.この先「健常者」の定義が変わったら,もっとドキドキすることが起こるでしょう.ドキドキすることが起こらないのは,きっと,ひとはくの発想が「健常者が世界の中心にいる」時代の感覚を引きずっているからです.

 DIDはユニバーサル・デザインを取り入れているそうです.「目の見えない人」がアテンドとして,車イスの人やろう者にDIDを体験してもらうのです.ここまで読んできて,わたしの書いた状況が把握できるでしょうか? これを説明するために,少し長くなりますが『暗闇から世界が変わる』から引用します.

「あるとき電動車椅子の人が七人同時に入場したことがありましたが,この状態では暗闇の中をふつうに進むだけでもたいへんでした.ややもするとスピードの出る電動車椅子が互いにぶつかったり,アテンドが轢(ひ)かれてしまう危険性もあるのです.

 これではスタッフの負担が大きくなるだけでなく,なによりもゲストが心から楽しむことができないので,以降はすべての人を受け入れることを前提に,あえて制限をつける形に変えました.

 たとえば車椅子が必要な人は,電動ではなく手押しのものにしてもらいました.また耳が聞こえない聴覚障がいのある人には,事前にアテンドたちと打ち合わせをしてもらって,どのような形でコミュニケーションを行うかを決めるようにしました.その人のための特別ルールのようなものをつくるのです.この話し合いには,一緒に入場するユニット(=グループのこと:三谷)の他のゲストに入ってもらうこともあります.」(pp 100-101)

 つまり「暗闇のスペシャリスト」である「目の見えない人」は,アテンドとして車イスの人や耳の聞こえない人を遇するために,どうしたら安全に楽しめるのかを思案したと言うのです.考えてみれば「暗闇のスペシャリスト」なのですから,「目の見えない人」がアテンドとしてDIDの接遇に心を砕くのは当たり前です.しかし,「健常者が中心にいる世界」ではありえないことです.ありえないことですが,そこに本当の人間性があるのだと思います.

 志村さんは,「どんな立場や役割の人でもフラットになれる場所」がDIDだと言います.

「DIDという場を使って,多くの人たちに『新しい対話のあり方』を伝えたい.それによって世の中が変わっていく.そんなことを考えながらこれまで走り続けてきました.」(p 6)

ともお書きになっています.「新しい対話のあり方」とは,きっと「目の見えない人」(=アテンド)が,(車イスの人や耳の聞こえない人が含まれている)「世界を目で見ている人」といっしょになって議論する姿だと思います.

 なお志村真介さんご自身は,(たまたま)「世界を目で見ている人」のおひとりです.

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(1) 『暗闇から世界が変わる――ダイアログ・イン・ザ・ダーク・ジャパンの挑戦』(志村真介 著,講談社現代新書2306)
DID_ShimuraSinsuke.jpg


三谷 雅純(みたに まさずみ)
兵庫県立大学 自然・環境科学研究所
/人と自然の博物館

ユニバーサル・ミュージアムをめざして68

世界のとらえ方が違う人-1

三谷 雅純(みたに まさずみ)




 このブログ「ユニバーサル・ミュージアムをめざして」を最後に書いたのは5月29日のことでした.更新してから4か月が経ってしまいました.わたしにとっては,あっと言う間でした.

 何をしていたのだと叱られそうですが,少しだけ言い訳をさせて下さい.

 兵庫県立大学の学生に出題する試験やレポートの問題を考えて採点するとか,学会に出席するとか,データを整理して論文を書くとか,博物館セミナーの準備をするといった大学や博物館で働いている研究者なら誰でもやることは,もちろん(きわめてたくさん)ありましたが,その中でも一番大変だったのが,人と自然の博物館で出している研究紀要「人と自然 Humans and Nature」の締め切りが7月31日だったことでした.

 研究紀要「人と自然 Humans and Nature」は市民科学者が投稿できる雑誌です.別に博物館や大学に属していなくても投稿できます.新たな発見があり,それを裏付けるデータがそろっていれば,どなたでも投稿できるのです.もちろん論文には論文の書き方の約束事があります.それをチェックしていただくために,経験のある方が読んで「ここは意見を弱めて,こんなふうに修正するべきだと思います」といったコメントを付ける制度(査読といいます)があります.出版するにはその査読を通っていただく必要があります.しかし,原稿の不備――体裁が十分に整っていないなど――といったことを除いて,投稿をお断りすることはありません.

 ただし,わたしの能力が問題です.

 わたしはというと,この研究紀要の編集委員長を拝命していますので,いろいろな方が「論文を書くのは初めてなのだが」と言って問い合わせてをしてこられます.その問いにお答えするのはわたしの大事な役目です.決して嫌になったりはしません.また執筆をしてみたいという方は,市民の立場で豊かな経験をお持ちです.皆さん,それ相当のプライドをお持ちです.そのプライドを尊重しながら,論文の原稿を書く初歩をお教えするのです.これはこれで,想像するよりもずっと大変なのです.どうしても時間がかかります.その問い合わせが混み合う「原稿の締め切り日」は特にそうでした.前後合わせて数か月間は,質問にお答えすることに忙殺されていました.

 そして,まだまだ編集委員会の作業は終わりではありませんが,それでも今,やっと(少しだけ)時間が取れたというわけです.今のは,このコラムが書けなかったことへの言い訳でした.

(今年の締め切りは過ぎてしまいましたが,自分こそはと思った方は,ぜひ来年の7月31日をめざして執筆して下さい.博物館での役割は変わるのが普通ですが,わたしが編集委員長を拝命している限り,どんな初歩的な質問にでもお答えいたします.ただし,わたしには失語症がありますので電話は止めて下さい.声しか伝わらない電話は苦手です.お手紙かメールか,あるいは直接お会いして話を聞かせて下さい.)

☆   ☆

 このコラムに書きたいと思ったことは,いくつもありました.その中からテーマにしたかったことを思い出して,書けることを書いてみます.まず最初は本の感想からです.

 このところ,いくつかの本が,従来,「視覚障害者」や「聴覚障害者」と呼ばれている人たちの感覚を見直し,「目が見えない人」とか「耳の聞こえない人」ではなく,こんな世界観もあるんだとおもしろがる,そのおもしろがり方を提案しています.素直に「世界のとらえ方が違う人」の存在を知りたいということだと思っています.例えば,伊藤亜紗さんのお書きになった『目の見えない人は世界をどう見ているのか』 (1) です.

 『目の見えない人は世界をどう見ているのか』は,なんとも謎めいたタイトルです.晴眼者(=目を使う人)にとって「世界を見る」という行為,つまり自分の周りの自然とか品物は目で見るのがあたりまえです.それを,わざわざ『目の見えない人は世界をどう見ているのか』とは,いったいどういう意味なのでしょう?

 いま,わたしは「自然とか品物」を例に出しましたが,それなら他人の態度はどうでしょう.「他人の態度」は,もちろん(表面的には)目で見ることができます.自分に親しみを感じてくれている人なら,親しみを感じていることの表現として,笑顔で接してくれるでしょう.親しみはおのずと立ち居振る舞いに表れるはずです.しかし,いつもそうでしょうか?

 笑顔で接してくれる人が皆,自分に親しみを感じているのなら,嘘をつく人はいないはずです.嘘つきでなくても,人は誰でも顔を合わせて人と接するときには,柔らかな態度を取るものです.でも,その人と別れた後でも好感を抱き続けるかどうかはわかりません.好感を抱き続けるには,一定の精神力が必要でしょう.つまり,「目で見てわかることには限度がある」ということです.そんな時は,目ではないところ(こころ? 脳?)で感じたことが重要になるのです.

 『目の見えない人は世界をどう見ているのか』で,伊藤さんがおもしろがっていることに,ものの「内」と「外」,「裏」と「表』は,目を使わなければ等価になるということがありました.どういうことか説明します.ある盲学校の美術の先生が紹介していた例だそうです.

 「その先生は授業で,粘土で立体物を作る課題を出しました.すると,ある全盲の子どもが壷のようなものを作り,その壷の内側に細かい細工を施(ほどこ)し始めたそうです.見える人からすると,細工を付け加えるならば,外側の表面に施(ほどこ)すのが『自然』です.しかしその子は壷の内側に手を入れ始めた.つまりその子にとっては,壷の『内』と『外』は等価だったということです.決して『隠した』わけではなく,ただ壷の『表面』に細工を施(ほどこ)しただけなのです.」(p 77)

 どういうことかわかりますよね.指先で触れているのが表面だとすると,その子にとっては指先で触れていける全てが表面です.手首を傾ければ,指先は「目の見える人」にとっての「外側」が触れます.また指を「くの字」に折り曲げれば「内側」にも触れることができます.どちらも触れることができるのですから,どちらも「表面」です.「目の見えない人」にとって「内」と「外」は関係ないのです.この話は強くわたしの印象に残りました.「内側に細工をするなんて,見えのしないのに」.そう,まさに目で見る人には「見えもしない」のです.しかし,目を使わない人にとっては,「見えて」当然です.

☆   ☆

 伊藤さんが「ソーシャル・ビュー」と呼ぶ,絵(や写真)の鑑賞技法があります.4,5人くらいの集団で絵を見て,おのおののが,見えたことを言葉(ことば)にします.それはどんな絵で,色使いはどうで,全体としてどんな印象を受けるかをしゃべり合うのです.しゃべる内容は,特に決まっていません.それぞれが自分の感じたままに言い合うのです.とても自由な鑑賞技術です.約束はひとつだけ.それは鑑賞する集団に目の見えない人が含まれるということです.

 ここまで読んだ方は,「晴眼者が目の不自由な人を助ける絵や写真の鑑賞会」をイメージしたかもしれません.しかし違うのです.ソーシャル・ビューとは,言ってみれば「鑑賞者のライブ感を大切にした,絵や写真を言葉にするプロセスを味わう技法」を言うのだそうです.

 ソーシャル・ビューのおもしろさを,伊藤さんは「見えないもの,つまり『意味』の部分を共有することにある」と表現しています.つまり,(目に頼った生活をしている人にとって美術鑑賞とは)「しばらく眺め,場合によってはまわりをまわったりして,自分なりに気になった部分を『入り口』として近づいてみる.もやもやしていた印象を少しずつはっきりさせ,部分と部分をつなぎあわせて,自分なりの『意味』を,解釈を,手探りで見付けていく」(p 165)ことです.この「遠回り」を,鑑賞する人たちみんなで共有しようというのがソーシャル・ビューです.「目の不自由な人を助ける」ボランティアのサービスとは根本的に違います.

 感想を言い合う途中で,目を使わない人は疑問に思ったことを問いかけます.例えば,ただ「水に飛び込む人がいる」と聞いただけでは幾通りもの情景が想像できます.そこを問いかけるのです.問いかけられた目を使う人は,もっと詳しく観察して「子どもです」「笑っています」「インドの景色のようです」と伝えます.こうして初めて目を使わない人にも具体的なイメージが湧くのです.これは目を使わない人が世界を見るとき,普段から,普通に行っていることだそうです.そして,これは目を使わない人に具体的なイメージを伝えただけではありません.疑問を問いかけることによって,目の見える人のイメージも確かなものになる.つまり,ここでは目に見えない人が誘いかけることで,目の見える人のイメージをより具体的なものに変えることができるのです.

 現代アートでは印象も大事ですが,解釈はもっと大切なのだそうです.一枚の抽象画があるとしましょう.人は一枚の抽象画からさまざまな印象が導き出せます.パブロ・ピカソの「ゲルニカ」 (2) という作品では「悲しみ」を感じた人もいるでしょうし,「怒り」を感じた人もいるでしょう.ところが「ゲルニカ」に描かれた顔を「奇妙」だと思ったり,「おかしな顔だ」と思った人もいて当然です.そう感じたからといって,別に変ではありません.美術の教科書には「ゲルニカ」は「戦争への怒りを表現した作品」だと書いてありますが――確か,そう書いてあったと思いますが――,教科書の解釈だけが正しいという保証はありません.

Guernica.jpg                 パブロ・ピカソ作「ゲルニカ」1937

 そのことよりも,解釈はさまざまであり,「怒り」を表現していると言われればそんな気がする.でもピカソの描く絵は漫画みたいで,確かに顔が「おかしい」と言われれば「おかしい」.どちらか一方が正しいというわけではありません.ここで本当に大切なのは,人の心に映った感情が「魔術的な変貌を遂げる」ということなのだそうです.このようにして,わたしたちは誰でも「頭の中の作品を作り直している」.目を使わない人は,そのようなやわらかなイメージで「世界を見ている」.そのことを,普段,目を使って生活している人にも経験してもらうのがソーシャル・ビューの本質です.伊藤さんは「他人の目で見る面白さ,他人の見方を自分で実感する豊かさを,ここでは見える人も経験するのです」(p 182)とおっしゃいます.

 次に続きます.

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(1) 『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(伊藤亜紗 著,光文社新書751)
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(2) 「ゲルニカ」(パブロ・ピカソ作,1937).『目の見えない人は世界をどう見ているのか』では,アメリカの画家マーク・ロコスの絵が紹介されていましたが,ここで紹介していいかどうか迷ってしまいましたので,ピカソの「ゲルニカ」の白黒版にしました.



三谷 雅純(みたに まさずみ)
兵庫県立大学 自然・環境科学研究所
/人と自然の博物館

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