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2/18(土)のイベントは、はかせと学ぼう!「ちょっと観察、この植物 冬編」
植物はかせの小舘研究員と一緒に、植物観察にでかけました。
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はかせから出されたミッションは3つ
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さぁ、どんな植物がみつかるかな?

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植物は寒さや虫から自分を守るためにが生えているそう
近くで見てみると...本当だ!ふさふさしてる!

木の幹にあるキズのようなもの人間でいうとは「口」部分
ここから息をしています。
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指でふさいでしまうと、苦しくなっちゃうかも!?

みなさん、見事!ミッション達成!
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お部屋に帰ったら、持って帰ってきた植物を大きなテレビに映して見ました。
普段は見ることができない植物の姿に大興奮!
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「すごい!つぼみを切ると玉ねぎみたいになってる!」

子どもたちの観察する力に、スタッフもたくさん勉強させていただいた一日でした!

ご参加いただき、ありがとうございました!

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ユニバーサル・ミュージアムをめざして88

水木しげるさんの「幸福の七カ条」

三谷 雅純(みたに まさずみ)



 ずっと不思議に感じていることがあります。それはあまりに多くの若者がゲームに夢中になっていることです。別にゲームそれ自体は健全な遊びだと、わたしも知っています。ここで言っているのは常軌を逸している(とわたしの目には見える)ゲームへの没頭です。

 通勤のために朝と夕方、電車に乗ると、例外なくゲーム機に夢中になっている若者がいます。小型のタブレットやスマート・フォンを覗いている人には、メールをチェックしたり電子書籍を読んでいる人もいるのですが、ゲームをしている人は両手の指がせわしなく動いているので、すぐそれとわかります。中には混み合った駅で歩きながらやっている人がいたりします。電車の中でじっとしてやる分には気にしないようにしていますが、駅を歩きながらとか、夢中になって階段の途中で立ち止まってまでやられると、大いに迷惑です。しかし、わたしが迷惑だと思っても、やっている当人は意に介していないようです。

 テレビを見ていても、やたらと多いゲーム・ソフトの宣伝には違和感を覚えるようになりました。商品を宣伝するのはごく当たり前のことですが、わたしはゲームは知らないので、宣伝を見せられても意味がわかりません。だいたい現代の若者はテレビを見なくなったと聞きますから、ゲームの宣伝をするのにテレビは場違いな気がします。ひょっとするとそれは若者に向けたメッセージではなく、わたしのような、社会的には十分に落ち着いている(はずの)中年や老人をターゲットにしているのかもしれません。ということは、60歳を過ぎたわたしの世代にも、ゲームの愛好者が多くいることを意味します。中年や老人の現実逃避は......、ん?

 なぜこれほど多くの人がゲームに夢中になるのでしょう。ゲームは架空の世界です。いくら事件が起こっても、現実に反映されることはありません――少なくとも、わたしの知っている現実世界には、反映されたことがありません。それなら、何を思って架空の世界に夢中になるのでしょうか? というより、架空の物語世界に夢中になることが不思議だと感じるわたしが変なのでしょうか? それなら、仕事やアルバイトをしてお金を稼ぎ、家に帰ってゆっくり過ごし、眠りに着く。季節になれば、ちゃんと納税をするという、当たり前の生活と当たり前の社会を、そのような人びとはどう感じているのでしょう? 「眠る場所や食べるものは、なければ生きていけないから、身の回りにあることは我慢するが、できれば(架空世界のように)目の前から消えて欲しい」。そんな認識なのでしょうか?(あえてですが、かなり、ひどいことを言っています。わたしの本当の考えは、最後に書きます)

    *

 ここまで考えてきて、水木しげる さんのことを思い出しました。まんが「ゲゲゲの鬼太郎」 (1) で有名な水木さんは、元祖「架空の世界」の住人かもしれません。奥様の武良布枝さんが『ゲゲゲの女房』 (2) というご夫婦の自伝をお書きになりました。そのことは知っていましたが、わたしは残念ながら読んでいません。幸い『ゲゲゲの女房』を原作にした連続テレビ小説(題は同じ「ゲゲゲの女房」 (3) )がNHKで放送されましたが、わたしはこちらの方なら見たことがあります。

 連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」の中で、水木しげるさんのやることは、とても変なのです。変なのですが、でも、おやりになることは、少なくともわたしには納得できます。例えば「おばけ」です。普通「おばけ」は恐ろしいものです。しかし、水木さんの周りで暮らす「おばけ」は、のんきで楽天的です。かえって人間の方が怖い。ずっと怖い。人間には明と暗の二面があるからです。怖い「おばけ」もいるのでしょうが、水木さんの側には近寄らないらしい。テレビまんが『ゲゲゲの鬼太郎』 (4) に出てきたおばけたちも、「(おばけの世界には)学校も~ 試験も何にもない♪」と歌っていたぐらいです。

 本当のところ、水木さんは「おばけ」や人生をどう感じていたのかは わかりません。しかし、戦争中、ニューギニアでいっしょに過ごした村人との交流 (5) は生涯忘れがたいものだったようです。そこでは「おばけ」が身近に感じられたのでしょう。幼い頃、鳥取の境港で馴染んだ「おばけ」たち (6) とニューギニアで出会った「おばけ」 (7) とは親戚筋だったのかもしれません。水木さんにとって「おばけの世界」は理想郷に近いものだった気がします。

 以前、どこかで紹介したことがあるかもしれないのですが、水木さんにとって軍隊とは非人間的な組織でした。規律に違反したと言ってはむやみに殴り、反抗は許さず、理不尽さが支配していました。誰が書いていたのかは忘れてしまいましたが、自分の死や敵軍よりも、本当の恐怖は、本来、味方であるはずの自軍の上官だったという感想を読んだことがあります。上官は一時の憂さ晴らしや自分自身の惨めさの裏返しとして部下を殴ったのです。

 水木さんは見張りの時、双眼鏡で鳥を見ていて遅刻し、おかげで敵軍の爆撃を逃れて、味方は全滅したが自分は生き残ったと語っています。ただ、再度の爆撃で吹き飛ばされて、軍医に十徳ナイフで左手を切り取ってもらったそうです。

 この残酷な人間関係や息の詰まりそうな硬直した組織と対照的なのが、日本軍の近くに住むニューギニアの村人の生活です。芋とバナナを植え、粗末な小屋に住み、日本の暮らしからは想像できないほど呑気な生活でした。水木さんは、よほど、この村人の生活が気にいったらしく、何度も村人のもとに通ったそうです。鳥取で馴染んだ「おばけ」たちと親戚筋に当たるニューギニアの「おばけ」のことを書きました。それは村人が儀礼で踊る伝統的な精霊のことです。この戦争体験や現地の村人の生活は、水木さんのいろいろなマンガや文章に、繰り返し繰り返し書かれています。

    *

 水木さんがお書きになったものに「幸福の七カ条」があります。『水木サンの幸福論』 (8) という本に出てきます。それは:

第一条 成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはいけない。
第二条 しないではいられないことをし続けなさい。
第三条 他人との比較ではない、あくまで自分の楽しさを追及すべし。
第四条 好きの力を信じる。
第五条 才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。
第六条 怠け者になりなさい。
第七条 目に見えない世界を信じる。

というものです。

 ここで水木さんがおっしゃっていることの基本を、わたしの解釈を元にお伝えします。

 つまり、世間でいう「成功」を求めても幸せにはなれない。それよりも、自分なりにやりたいことや、やらずにはおれないことを見つけられた人が本当の意味で幸福だ。戦争は人の一生に残酷な傷をもたらす。傷とは人に付けられ、あるいは人に付けたものだ。そして本当の幸せは物質的な物やお金にあるのではなく、こころの豊かさにある。そうおっしゃっているような気がします。

 最初に挙げたゲームという「架空の世界」に夢中になる人びとは、決して「しないではいられないこと」をし続けているわけではないでしょう。無為な時間をうっちゃるためにゲームに夢中になる。「無為な時間をうっちゃるため」なのだから、人生に成功するか、しないかに関わらず、ゲームに重大な意味はない。ただゲーム会社の利益に貢献しているだけだ。そう思えてしまいます。

 わたしはこの人たちを特別な人たちだとは決して考えていません。この人たちは、もう一人のわたしです。わたし自身の明日の可能性です。それは昔、水木さんが軍隊という非人間的な組織で出会ったような「殴られた部下の一人」であり、「殴った上官の一人」でもあります。ただ水木さんとの違いは、「なければ生きていけない眠る場所や食べるもの」を捜し、世間的な「成功や栄誉や勝ち負け」に縛られ、夢を見続けていることではないでしょうか。夢はかなうこともあります。しかし、努力をしてもかなわないことが、案外、多いものです。

 それよりもわたしは、芋とバナナを植える生活にあこがれます。

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(1) まんが『ゲゲゲの鬼太郎』(ちくま文庫 ほか)

(2) 『ゲゲゲの女房』(実業之日本社文庫)

(3) 連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」(NHK)
http://www6.nhk.or.jp/drama/pastprog/detail.html?i=asadora82

(4) テレビまんが『ゲゲゲの鬼太郎』(フジテレビ など)

(5) ユニバーサル・ミュージアムをめざして81:「私だけ」のものと「あなたたち」
http://www.hitohaku.jp/blog/2016/10/post_2233/

(6) 『のんのんばあとオレ』(ちくま文庫)

(7) 『水木しげるの娘に語るお父さんの戦記』(河出文庫)

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(8) 『水木サンの幸福論』(角川文庫)




三谷 雅純(みたに まさずみ)
コミュニケーション・デザイン研究グループ
兵庫県立大学 自然・環境科学研究所
/人と自然の博物館

人と自然の博物館では、ひとはく地域研究員や連携活動グループをはじめ、地域の自然・環境・文化を自ら学び伝える活動を行っている方々が、お互いの活動を知り、活動の質をあげ、新たな展開のヒントを得る場として、「共生のひろば」を開催しています。2006年からはじめて、12 回目となりました。開催した発表会では、口頭発表・ポスター発表等を合わせて80件を超えるの発表があり、活発な情報交換ならびに交流がおこなわれました!子どもからシニアの方、自然観察を始めて間もない方、超プロフェッショナルの方、どなたでも参加できるのが「ひとはく」のいいところですね!

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今回もひとはくのライブ映像配信機器を活用して、大セミナー室で開催された加藤研究員のギャラリートーク「人類誕生の時代を探る試み」や各種団体、学校などの口頭発表などをビデオカメラで撮影した映像をライブ映像配信機器や配信サーバー・無線LANを活用して中セミナー室やひとはくサロンでモニター等に生中継を来館者に提供し、研究内容の効果的な発表や来館者の理解度の向上に役立てております!

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ギャラリートーク
「人類誕生の時代を探る試み」(加藤研究員) 
ギャラリートーク終了後もみなさんから研究に関する質問がたくさんありました!
また、研究に関する個別の質問が学生さんなどからもあり・・・このままだと・・
夕方までいきそうな雰囲気でしたね~
みなさんの知的好奇心はアフリカ大陸より熱い!!
  
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口頭発表
口頭発表の部では、地域の活動団体や高等学校、大学を含め8団体の発表があり
質疑応答などもあり会場は熱気があふれておりました!
10代の方々の発表が多く・・・
みなさんに元気なエネルギーが・・・青春っていいですね~

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ポスター発表など
ポスター発表があり、参加の皆様たちも互いの活動を知る場として観覧するとともに
観覧者からの質問に回答されている光景が見られました。
また、当館の研究員が参加者の研究への助言も行いました。
その場で研究員の特注セミナー状態です!

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また、ひとはくでは
12日からはミニ企画展「淡路島の和泉層群北阿万層の化石調査」
本日からはミニ企画展「六甲山のキノコ展2017~野生のキノコの不思議な魅力~」
ミニ企画展 ひとはく研究員展2017「ひとはくの今」が開催しています!
本日、「共生のひろば」は終了しますが、まだまだ、ひとはくは企画展が盛りだくさん!
みなさまのお越しをお待ちしております。

                               情報管理課 中前純一 

 
兵庫県立人と自然の博物館は、1月29日(日)に開催された
第9回サイエンスフェアin兵庫にブースを設け出展しました。

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会場は兵庫県立大学神戸情報科学キャンパス 神戸大学統合研究拠点コンベンションホール・ラウンジ
甲南大学FIRST(ひとはくは7F レクチャールームです!)
 
今回も1500名を超える高校生などが参加し、科学技術分野における研究や実践発表の場として口頭発表やポスター発表が行われアカデミックな熱気がいっぱいです!
そして・・・今回の・・・
ひとはくの出展タイトルは・・・いろいろな「虫」でございます!
世の中にはいろいろな「虫」がいます。きれいな虫、かっこいい虫、変な虫......。
さまざまな昆虫やダンゴ虫などの標本や生体を展示します。その形や生活の不思議などを紹介しました!

ひとはくとしても、「研究や実践の拡大・充実・活性化」というフェアの目的にかなうべく、
出展し、高校生などと交流をさらに図ることができました!
ひとはくブースはいつも「大入り満員」でございました。
標本の説明等を兼ねたミニセミナーや高校生や参加者からの質問など
研究員が熱心に説明と研究のアドバイスを行いました!
高校生のみなさん!ぜひ!未来の研究者をめざして頑張ってください!
ひとはくはみなさんの夢の実現を応援します!

それぞれの"ひとはく研究員"の"研究"ぶりを感じ取ってもらえたと思います!

会場の様子です!

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鋭意準備中です!         標本をセット
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ほんものは迫力も・・ちがいますね~
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ひとはくブースは高校生で満員です!   まわりには高校生がたくさん!

高校生のための生き物調査体験ツアーin台湾の紹介コーナーも!
こんなやりとりも・・・
高校の先生方から・・
教科の研修として行きたいんですが・・・
大人はむりですか・・・?
参加できたら・・絶対スキルアップして・・授業にいかせるんですが・・・など
違いのわかる方(理科の先生方)はどれだけ充実した内容か・・すぐにわかっていただけるんですね~

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なんと!フェア当日は兵庫県立大学神戸情報科学キャンパス となりの
理化学研究所計算科学研究機構スーパーコンピュータ「京(けい)」の見学・紹介もありました!
 
今回サイエンスフェアに参加された高校の中には、2月11日(土・祝)に
兵庫県立人と自然の博物館で開催される
第12回 共生のひろば(2017年2月11日)でも発表される高校もあります。

そして・・・
高校生のための生き物調査体験ツアーin台湾(ブログ)
参加してくれた高校生も!
次は「共生のひろば」でお会いできることを楽しみにしていますね。
                                

                                 情報管理課 中前純一

ユニバーサル・ミュージアムをめざして87

アートと哲学

三谷 雅純(みたに まさずみ)




 高次脳機能障がい者や失語症者の皆さんといっしょに、当事者に聞きやすい公共放送のあり方を探っています。実験的に作ったサンプルを視聴してもらい、聞きやすいとか、よくわからないといったことを教えてもらうのです。その音声素材として、プロのアナウンサーに「わざと大げさに読んで下さい」とか、同じ文章を「わざと棒読みで読んで下さい」などと無茶なことをお願いして、その音声を録音させてもらっています。関西テレビCSR活動です。アナウンサーの皆さんが協力してくれたのです。ちなみに CSR とは "Corporate Social Responsibility" の頭文字をつないだもので、「企業の社会的責任」という意味です。

 アナウンサーはプロなので、録音する小部屋に入る時はテレビで見るような、言わば「よそ行きの顔」になっています。ただし、わたしと同様、皆さん、生身の人間なのですから、家に帰ってまで「よそ行きの顔」でいるわけはありません。家ではちゃんと眠り、ちゃんと食事をする普通の家庭人です。当たり前です。

 それなら、どのように「よそ行きの顔」に変身するのかというと、わたしが話をうかがった男性は、寝起きは1時間ほど発声練習(だったと思います)をしないとカメラの前に立てないとおっしゃっていました。のどや舌が滑らかに動かなくては、アナウンサーの仕事に差し障りがあるとおっしゃるのです。その修練は毎日繰り返す習慣なのでしょう。

 俳優や歌手といった人たちも同じだと思います。舞台では広い観客席の後ろまで台詞(せりふ)や歌声を届けなくてはいけません。肺活量やドレミファソラシドの音域は、毎日の練習が高い能力を維持するポイントだと聞いたことがあります。落語家や漫才師でも、きっと似た習慣があるのでしょう。

 実はわたしも、ここ10年以上、自(みずか)らに音読を課しています。口をなめらかに動かすためのリハビリテーションです。夕方30分ほど、本を手に持って読み上げます。もし音読をサボるとどうなるかというと、たちまち失語が出て舌やのどが滑(なめ)らかに動かなくなります。会話にならないのです。わたしの場合、会話ができないでそのまま放っておくとせっかく考えたことが形にならず、頭から消えてしまいます。思いついたということは憶えていますから、気持ちの悪いこと甚(はなは)だしいのです。わたしは仕事でセミナーの講師や大学の講義があります。ですから「考えたけれど、頭から消えてしまった」のでは、聞く方が何事が起こったのだろうと戸惑ってしまいます。わたしにとって「〈ことば〉にする」ことは、「思ったことを定着させる」ことなのです――このコラムも「せっかく感じたことだから、わたしの頭から消えてしまう前に定着させたい」という思いで文字にしています。

☆   ☆

 音読する本は、いろいろなジャンルから選びます。わざと漢字だらけの『論語』の解説書を選んでみたこともありました。実を言うと、これにはほとほと手こずりました。それでも終わりまで読み上げました。まだ病後1年目か2年目のことです。

 ついこの間までは、新年を越えて鷲田清一さん『素手のふるまい アートがさぐる〈未知の社会性〉』(1) を音読していました。この本の音読は、開始したのが2016年11月30日、し終えたのは2017年 1月 8日ですから(わたしの癖で開始と終了の記録を付けています)、およそ40日かかったことになります。

 鷲田清一さんは哲学者です。哲学者の文章は難しいものが多いのですが、鷲田さんの文章は読みやすく――それでも充分難しいのですが――、その上、わたしの普段の思考法とは違うので多くのことを教えてもらいます。

 そもそも『素手のふるまい』とは何のことでしょう。それは生身の人間が、さまざまなことにどう振る舞ったかを表す言葉だと思います。2011年 3月11日に東日本大震災が起こりました。被災した東北地方は大きな打撃を受けました。震災の後、土地の人びとと共に、多くのボランティアが復興に参加しました。その中でアートという人間の営みが人びとにどう受け止められたか。そのことを中心に――鷲田さんご自身は震災の記録を意図して書いたのではないとおっしゃっていますが――「アートと社会の錯綜した関係」(p. 239、「おわりに」)を観察し、思索した結果できあがった本でした。

☆   ☆

 この本を音読し始めた時は、どうアートと哲学が繫(つな)がるのだろうと疑問でした。人間なら誰でもアートを作る行為はできます。それでもアートを仕上げるのは特別です。少なくとも他人に見せるためには作品としてしっかりしていなければいけません。きっと「特異な才能を持った天才が、何かのひょうしに創り出したもの」なのではないか。そう思ってしまいます。

 それにしても哲学とアートです。哲学は「理詰めの学問」です。それにくらべると、アートに理屈は必要でしょうか? 理屈よりも感性が必要なのではないでしょうか? 「哲学は理屈、アートは感性」、そう考えれば、まるっきり逆の営みと言えそうです。そうした二つが結びつく余地はどこにあるのでしょう?

 この疑問は音読する内に解消されたように思います。

☆   ☆

 例えば作業を効率化させようとする時にはルーティン化しようとします。流れ作業なら、いちいち考えなくてもいいのだし、計画は誰か他人が立ててくれるのが普通です。それに作業の方法がバラバラでは一定の出来上がりは保証できませんし、少ない人数で大量の作業をこなすためには統一が必要です――それが仕事というものです。まさに仕事のマニュアル化です。しかし、さまざまで具体的な個人が生活する時、「仕事」では推しはかれない、あれやこれやは付きものです。ましてや、どうなるのかわからない社会で生きていくのです。なぜ生きていくのかという目的さえはっきりしない場合があります。リアルな人生では、そんな曖昧さが当たり前なのです。そのことを鷲田さんは、

「政治的な判断においても、看護・介護の現場でも、芸術制作の過程でも、見えていないこと、わからないことがそのコアにあって、その見えていないこと、わからないことに、わからないままにいかに正確に対処するかということが問題なのである」(p. 107、「3 強度 志賀理江子の〈業〉」)

とおっしゃいます。そして、それに続けて現代人の振るまいを指して、

「人びとはそれとは逆方向に殺到し、わかりやすい観念、わかりやすい説明を求める。一筋縄ではいかないもの、世界が見えないものに取り囲まれて、苛立ちや焦り、不満や違和感で息が詰まりそうになると、その鬱(ふさ)ぎを突破するために、みずからが置かれている状況をわかりやすい論理にくるんでしまおうとする」(同上)

とおっしゃいます。しかし、アートを創るという行為はマニュアル化はできません。一回ごとに呻吟(しんぎん)し、思い悩んだあげくに出てくる制作です。そこが哲学と同じだと考えておられるのだと思います。リアルな人生の曖昧さに耐えながら「わからないままにいかに正確に対処するか」が大切であると言っているのです。哲学は個人の思考した結果を他人にわかってもらわなければ意味がありません。皆にわかってもらうためには理屈が必要です。一方、アートは「感性」が大切です。ただし、なぜ「感性」が大切なのか、そのわけはと言うと、ここでも皆にわかってもらうためなのです。そのひらめきは直感で得たものなのでしょう。このひらめきを得る過程が考え続けることではないか。わたしはそう解釈しました。

☆   ☆

 鷲田さんは、当たり前の言い方を疑っています。例えば、

「いまわたしたちの社会に流通している「エコ」「多様性」「安心・安全」「コミュニティ」「コミュニケーション」「イノヴェーション」などの概念は、それを仔細に吟味すればさまざまな不整合や撞着(どうちゃく)に突き当たるはずなのに、さらなる吟味を抑圧し、それに対して正面からは異を唱えさせなくする思考の政治力学が根強くはたらいている。わたしたちの思考を催眠状態に置くような力学である。」(pp. 104-105、「3 強度 志賀理江子の〈業〉」)

とおっしゃいます。よくある「時代の言葉」を疑う。少なくとも、その根源に立ち返って吟味する。それができない現代の人びとは我慢して考え続けることができないと言うのです

 自然現象や環境問題と対比させて考える場合、我われはつい「人」を単純化してしまいます。つまり「均質な人間像」を想定してしまいます。しかし、現実に「均質な人間」などはいません。赤ん坊や子ども、成人、高齢者といったライフ・ステージや発達段階、性・ジェンダー、遺伝的多様性、障がいの有無などは、時と場合に応じて適切に区別しなければ、人権でさえ十分に尊重できない場合があります。例えば、いくらわかりやすい言葉であっても、まだ〈ことば〉の話せない赤ん坊に口で説明するのでは何もわかりませんし、高齢者や身体障がい者に災害から身を守る術(すべ)を説明する時には、体力的なことを考慮しなければ意味がない場合があります。そのことを『素手のふるまい』では、

(個人個人の態度で大切なことは)「おなじ一つのものへと結集ないしは糾合させられることの拒否ということだろう。これを裏返していえば、一つへまとめることのできない多様性の徹底した擁護ということだ。」(p. 236、「8 点描」)

と表現していらっしゃいます。その上で、アートというものを

「生を丸くまとめることへの抗いとして、アートはいつも世界への違和の感覚によって駆動されているはずである。」(p. 238、「8 点描」)

と書くのです。ここで言うアートとは「わたし達の生活実感」に近い意味を持つのだと思います。

 鷲田さんは観念的な思弁の哲学者ではなく、具体的なもろもろの問題と格闘する「臨床哲学者」です。理論も大事なのですが、「臨床」はごちゃごちゃとややこしく、無駄が多く、互いに矛盾することがよくあります。そして「臨床」と言う以上、問題の解決を目指さなくてはならないのだと思います。ただ頭に思い描いただけの、現実にはどこにもいない「人」ではなく、さまざまな立場で問題を抱えて困っている、あるいは問題が解決して笑っている具体的な〈人〉こそ、哲学的に対象とするべき課題だとおっしゃっているのだと思います。

 「臨床」であつかうさまざまな問題は、まさに「ごちゃごちゃとややこしく、無駄が多く、互いに矛盾することがよくあ」るけれど、それに耐えて考え続けようと呼びかけておられます。我われの人生そのものへの応援のような気がします。

☆   ☆

 思えば、わたしのような研究者は、哲学者や『素手のふるまい』に出てくる写真家とか陶芸家と、本質的には同じ存在であったような気がします。ところが現実には、「研究」とは名ばかりの何やらレベルの低いルーティンでお茶を濁し、本来の仕事であるはずの発見の喜びは二の次になっています。作業の効率ばかりがうるさく言われます。その中で鷲田さんのおっしゃることを実践するには、研究者の側に大きな勇気が必要です。しかし、

「知らぬ間にだれによってともわからず設定された社会の構成秩序、その軸線や書き割り(分割線)に沿って生きることができないし、生きようともしない人びと、それが『はぐれ者』である。」(p. 222、「7 〈はぐれ〉というスタンス」)

という生き方は、「アートはいつも世界への違和の感覚によって駆動されているはず」の人びとによって無骨に実践され続けるのだと信じています。第一、研究者は、「他人と違う視点を見つける」ことが生きがいなのですから。

 次は池澤夏樹さん『終わりと始まり』(2) を音読しています。

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(1) 『素手のふるまい』(鷲田清一 著、朝日新聞出版)

(2) 『終わりと始まり』(池澤夏樹 著、朝日文庫)


三谷 雅純(みたに まさずみ)
コミュニケーション・デザイン研究ユニット
兵庫県立大学 自然・環境科学研究所
/人と自然の博物館

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