ユニバーサル・ミュージアムをめざして92
ドキュメンタリストの民俗学―2
三谷 雅純(みたに まさずみ)
金子 遊さんの『辺境のフォークロア』を読んだ感想の続きです.金子さんはドキュメンタリストで,民族誌に強い関心をお持ちです.『辺境のフォークロア』も日本列島と他の地域の,境界が滲(にじ)んだ場所の民俗とドキュメンタリーの記録です.
金子さんはアレクサンドル・ソクーロフが映画「ドルチェ―優しく」(13) を撮った課程をていねいに追いかけます.「ドルチェ―優しく」は奄美群島のひとつ加計呂麻島(かけろま・じま)で,島尾ミホの晩年を記録した映像です.自身が作家であったミホは島尾敏雄(―・としお)の妻でした.敏雄の書いた小説『死の棘』(14) に登場する「妻」のモデルとなった女性です.
『辺境のフォークロア』では,映画「ドルチェ―優しく」の初めに説明の(金子さんの言い方では「映画小説的な」)部分があり,その後,ドキュメンタリーの手法で加計呂麻島(かけろま・じま)のミホの生活を撮っていきます.今,「説明の」と書きましたが,もちろんこれはソクーロフが根拠なく創造した映像ではありません.ドキュメンタリー作品によくある,主題に至る部分を手短に語り,主題が,なぜ主題であるのかを,観客に納得してもらうための前置きのようなものです.ただし,その前置きは島尾ミホが自分自身で語ったのではなく,いろいろな記録をつなぎ合わせることで表したものだと思うのです.
「映画小説的な」部分では,島尾敏雄が海軍の隊長として長崎県から加計呂麻島(かけろま・じま)に赴任してきたこと.ミホは敏雄と恋仲になったこと.敏雄が命じられるだろうと思っていた特攻攻撃は,ついに命じられることはなく,敏雄が出撃したら,短刀でのどを突いて,昔から村では「死んだ霊が村に帰るお盆に目印にした」大きな岩のところで海に飛び込むつもりでいたこと.夫・島尾敏雄の立場から小説『死の棘』に描かれたミホの精神病棟への入院などが語られたのではないでしょうか.
それでも,これらはソクーロフにとっては前置きにすぎません.ソクーロフはこのようなことを説明した後,現在の島尾ミホと娘のマヤの暮らしをドキュメンタリーとして静かに追います.小説家として有名な島尾敏雄の妻であり,小説『死の棘』に描かれた島尾ミホのドキュメンタリーです.常識的には『死の棘』に描かれた数かずの場面を入れるというのが常套手段のように思います.ところがソクーロフはそうはしない.もっと地味な加計呂麻島(かけろま・じま)の生活を痰たんと追いかけ続けます.そこに主題となる奄美や加計呂麻島の民俗が,色濃く表れます.
「奄美大島や加計呂麻島を訪れると気づくことだが,島の外海を向いた浜では,空と陸地の境界線を目で追っていくと必ず水平の海にたどり着く.視線のつきる崖にある山の稜線の先端には,大抵,切り立った大きな岩がある.土地の人はこれを立岩(たてがん,りつがん),または『立神(たちがみ,たちがん)』と呼ぶ.古来島人は,死者の国が水平線の向こうにあると考えることが多かった.『立神(たちがみ,たちがん)』はその集落に住む人にとって『ここから先の沖に黄泉(よみ)の国がある』というランドマークであり,年に一回,(お盆の)マツリのときに集落へやってくるコーソガナシ[先祖の霊]や来訪神にとっては『こちらに集落がある』という灯台のような働きをしてきたといわれる.」(第1章 琉球・奄美考,38ページから39ページ)
立岩(たてがん,りつがん)は映画「ドルチェ―優しく」では何度も描かれます.それは島尾敏雄が特攻に出るとき,ミホが短刀でのどを突いて入水しようとした場所であり,ミホのお母さんが潮干狩りの最中に事故で命を落とした特別な場所だからです.そして村人にとっても,生者であるか死者であるかを問わず大切にする「特別な場所」でした.ソクーロフはミホやマヤを通してそれを撮りたかったのではないか.金子さんは,そう考えます.
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琉球や奄美では,広く竜宮(りゅうぐう)が黄泉(よみ)の国であったと考えているそうです.そこはまた,現世(げんせ:うつしよ)の再生も担っていて,例えば「人間は生まれるとき,赤子が遠い海の彼方から小舟に乗って浜に寄せられて来る」(第1章 琉球・奄美考,41ページ)と信じられていたそうです.『古事記』(15) 以来,今でも信仰を集める天照大神(あまてらす・おおみ・かみ)のような「太陽の神格化」ではなく,海の底に竜宮(りゅうぐう)があると考える.このことは柳田國男も『海上の道』(16) で指摘しているそうです.
このように書くと,何だか映画「ドルチェ―優しく」は陰鬱(いんうつ)なドキュメンタリーだと思うかも知れません.しかし,映画「ドルチェ―優しく」は,まさに奄美の「優しさ」を描いた作品だと思うのです.ドルチェ (dolce) とは,イタリア語で甘いデザートのことです.それが「おだやかな」とか「甘美な」,あるいは「優しい」と意味が転用されるようになりました.実際に島尾ミホさんの『海辺の生と死』(17) という作品を読むと,底抜けに優しいミホさんのお父さんやお母さんの振るまいが語られます.例えば,お父さんが商売にしていた南洋真珠をこっそり盗み,売り飛ばしていた人をかばってやり,そればかりか,その盗人(ぬすっと)を警察からもらい受けてくる話や,お母さんが幼児のたどたどしく語る口調を暖かく見守っていた話です.お母さんが微笑みながら見守った幼児は,皆,戦争のとき,沖縄で死んでいきました.ついに成人はしなかったそうです.
沖縄や奄美で暮らしたことのある人は,土地の人たちが「甘えている」と見ているのかもしれません.わたしは沖縄や奄美で暮らした経験はありませんが,屋久島で過ごした経験があります.屋久島は沖縄や奄美とは違うのですが,それでも屋久島の「おだやかな」「優しい」人びとのことを思い出します.ソクーロフが映画「ドルチェ―優しく」で表現したかったことは,「おだやかな」「優しい」加計呂麻島(かけろま・じま)の人びとの,生者と死者が渾然(こんぜん)一体となった民俗だったのではないでしょうか.
島尾敏雄は小説を書くために東京に住みますが,ミホが病気になり,入院する舞台は千葉県です.加計呂麻島ではありません.仕事のために東京に出ていなければ,ミホは病気にならなかったかもしれない.屋久島の「おだやかな」「優しい」人びとのことを思うと,わたしには,そう思えます.
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金子 遊さんが『辺境のフォークロア』で描いた社会のあれこれは,現在の社会とは明らかに違います.現代の社会とは違う社会を、今さらのように描いて、何か価値があるのでしょうか.このことをあからさまに言い直せば,人類学やドキュメンタリーは何のためにあるのでしょう?
わたしは,我われの社会がひと色に染まらないためだと思います.例えば「日本文化」と安易に言ってしまうのではなく,日本列島の文化的な背景には,いろいろな ものが ある.それは今も息づいている.そのことを再確認するためには,常に努力が必要なのです.
それをドキュメンタリストは映像で表現します.文章とは違う映像の表現です.「ドキュメントは純文学的でないと いけない」などとは言いません.商品としても完成したドキュメンタリーは数多くあります.要は、その中に努力がどこまで表れているかだと思います.
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(13) 映画「ドルチェ―優しく」アレクサンドル・ソクーロフ
http://www.queststation.com/feature/sokurov.html
(14) 『死の棘』(島尾敏雄,新潮文庫)
http://www.shinchosha.co.jp/book/116403/
(15) 『古事記』(青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/001518/card51732.html
(16) 『海上の道』(柳田國男,青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/001566/card54331.html
(17) 『海辺の生と死』(島尾ミホ,中公文庫)
http://www.chuko.co.jp/bunko/2013/07/205816.html
三谷 雅純(みたに まさずみ)
コミュニケーション・デザイン研究グループ
兵庫県立大学 自然・環境科学研究所
/人と自然の博物館