ユニバーサル・ミュージアムをめざして91
ドキュメンタリストの民俗学―1
三谷 雅純(みたに まさずみ)
インターネットを見てみると,テレビの世界では一時衰退していた「ドキュメンタリー」というジャンルが,また勢いを盛り返していると出て来ました.そう言えば,撮りためた記録映像を新たにまとめ直した「NHKスペシャル」の「新・映像の時代」(1) は,確かに心に響くドキュメンタリーですし,「プラネット・アース」(2) は,制作費に縛られることなく撮りたいように撮れる,言い換えれば作り手の持っている才能を思いのままにぶつけることのできる作品でした.動物ドキュメンタリーの「ダーウィンが来た」(3) は,比較的若い作家が作品の良し悪しでしのぎを削る,健全な競争の場になっている気がします.
民放では,TBS系列で放送している「世界遺産」をよく見ます.中でもアフリカ中央部の「サンガ川流域の森林地帯」(4)(つまり「ンドキの森」)はとても楽しみにしていました.「世界・ふしぎ発見!」(5) は土曜日の夜,わたしの家では夕食の後の放送なので,何も考えずに気楽に見ることができます.フジ・テレビ系列で関西テレビが制作している「ザ・ドキュメント」(6) という番組もあります.もっとも「ザ・ドキュメント」は不定期放送の上,現在は深夜の放送ですので,関西で活躍している知った人が主人公になることもあるのですが,わたしは直(じか)に見ることができませんでした(そんな時は,ある方がDVDに取って送って下さいました).
金子 遊(ゆう)さんは映像作家を名乗っています.「映像作家」をウィッキペディアで確かめると,「映像作品の制作を専攻する作家を総称する概念」とあります.「ビデオグラファー」とも呼ばれるそうで,「コマーシャル、ドキュメンタリー、ライブイベント、短編映画、教育映画、結婚式やプロモーションビデオなど映像作品の制作」を仕事とする人とあります.つまり,何でもかんでも映像関係の仕事をすれば映像作家を呼ぶようです.
金子さんには「民族誌学」という経歴もあります.不思議な気がしました.というのは,職業を「映像作家」という総称で括(くく)りながら,「民族誌学」では個別の学問の名がかぶせてある.しかも「民族誌学」は学問の名前であって,職業名ではないのです.ここは「ドキュメンタリスト」と「民族誌学研究者」とでもしなければ,統一がとれない気がするのですが,いかがでしょう? ちなみに,「研究者」という言葉は職業研究者を指して呼ぶことが多いのですが,何か別の職業を持っていて,市民の立場で研究をする「市民研究者」もいらっしゃいます.
ここは,わたしが勝手に解釈して,金子さんをドキュメンタリストと呼んでおきます.違っていたら,ごめんなさい.でも国立民族学博物館に行けば,さまざまな民族の記録映像,つまりドキュメンタリーが閲覧できますし,ドキュメンタリーといっても学術的な記録だけではなく,一般のビデオ店で購入できる作家性に富んだ作品もあるからです.作家性に富んだドキュメンタリーでは,商業映画と変わらず一般の興味を引く作品があります.金子さんの本から知ったのですが,ロバート・フラハティというドキュメンタリストが,映画撮影には対象に働きかけ「創造する」方法と,なすがままにして事実を「発見する」方法があると言ったそうです.この言葉には説明が要ります.本当に「なすがまま」にしたのでは作品になりません.監視カメラの単調な映像は作品とは呼びません.「発見する」方法でも,カメラの位置を変えたり,即物的には関係ないのだけれど,テーマを象徴的に描くシーンがあれば挟んだりして,撮影者の「発見した事実」を浮かび上がらせる努力は常にあります.ましてやドキュメンタリーは作り手と対象の共同作業がなければ,作品としては完成しません.
*
というわけで,
金子 遊さんの『辺境のフォークロア:ポスト・コロニアル時代の自然の思考』(7) を読んでみました.日本列島に展開する文化を紹介した人類学の本だと思って読み始めました.「ポスト・コロニアル時代」からはエドワード・サイードの『オリエンタリズム』(8) を思い出しますし,「自然の思考」という言葉はクロード・レヴィ=ストロースの『野生の思考』(9) を想像します.それにしても,「辺境」とは何のことだ(?)と思いながら読み進めたのですが,「はじめに」で日本列島や琉球弧へ,また千島列島へとつながる曲線や,小笠原からマリアナ諸島へ,さらにヤップ島へとつながる島弧の文化的繋(つな)がりを「辺境」と呼んだのだと理解することができました.
それにしても,次に出て来たのが「柳田國男(やなぎだ・くにお)」です.サイードやレヴィ=ストロースとは,だいぶ趣(おもむき)が違います.「柳田國男」と言えば,例えば『遠野物語(とおの・ものがたり)』(10) では岩手県遠野に伝わる河童(かっぱ)や天狗(てんぐ)といった妖怪や土地に伝わる祭の由来といった農村に伝わるあれこれを記録しました.また『蝸牛考(かぎゅう[=かたつむり]・こう)』(11) では,「かたつむり」を日本各地ではどのように呼ぶかを調べ,新しい言葉は京の都(みやこ)に起こり,中部や中国,関東と四国,東北と九州に行くにしたがって,より古い言葉が残っている(つまり,昔の京都の言い方が方言として残っている)という「方言周圏説(ほうげん・しゅうけん・せつ)」のより所となった本です.ただし「方言周圏説」はあくまで一つの説に過ぎません.有名な説だと言っても,後になって間違いが見つかることは,よくあるものです.
わたしにとって柳田國男という人は,立派な民俗学者でしたが,それこそ「辺境」の「自然の思考」を顧みなかった人に思えます.理念的な仮想の「日本」を生きた人に思え,例えば稲作農村以外の人の暮らしや,被差別者の暮らしは(本当はその多様性は大切だと分かっていたのかもしれませんが)文章で十分には表しませんでした.金子さんはそんな柳田國男を,なぜ取り上げるのだろうと不思議に感じました.しかし,これも読んでみて解ったような気がします.それは柳田國男の文献を借りた「辺境」の時間を過去に遡(さかのぼ)る試みだったのではないでしょうか.
今はもう,都会に「自然の思考」はありません.よく捜せば,あるのかもしれませんが,たいていは痕跡が残るだけです.あるのは市場(しじょう)だけが大切だという画一的な価値観です.仮に「自然の思考」に似たものがあったとしても,それは人間の行いから染み出たものではなく,市場での価値(=生産ラインや流通,小売りの経費)だけで評価される,キレイにお化粧直しされた「商品」なのです.人類史のなかで分泌されたものの蓄積ではありません.その,今では稀な(しかし,かつてはすぐ側にあった)思考を「人びとの文字にならない語り」(つまり「口承伝承」)から読み解く試みが『辺境のフォークロア』なのです.
*
日本列島の南,と言うよりもフィリピン諸島の東とか,ニューギニア島(=パプア島,イリアン島)の北と言った方が分かるかもしれません.そこをミクロネシアと呼びます.ミクロネシアは,かつてドイツやイギリス,日本の植民地になり,太平洋戦争では日本帝国の統治を受けました.グアム島やサイパン島,硫黄島は太平洋戦争の歴史のなかで,わたし達にも馴染みのある名前です.またマーシャル諸島のビキニ環礁はアメリカ合衆国が何度も核実験を行ったところです.
そのミクロネシアのサテワヌ島は,もっとも原始的な生活習慣や信仰を残す島でした.そこにはカナカ人と呼ばれる肌の黒い人びとが暮らしていました.サテワヌ島は,彫刻家で民俗学研究者の土方久功(ひじかた・ひさかつ)が7年間を過ごした島として有名です.
土方は,島にいる間,カナカ人の女性と暮らしました.その女性や女性の親族から聞くことが多かったのかもしれません.土方の著作『サテワヌ島の神と神事』(12) の中に,島民の「霊魂」概念を書いた文章があるそうです(現物は見ていません).それを金子さんが解釈したものが以下の文章です:
「サテワヌ島の人たちが不思議だと感じたのは,人間にしても動物にしても生きているものが死んでしまうということだった.ところが,その死んだはずの人がときどき夢のなかに出てくるということが起きる.死んだ人が自分を訪ねてきて,自分と話したり笑ったりする.そこから推して考えると,人は死んで肉体がなくなっても,すっかり消えてしまうのではないらしい.死んだ人のなかにあった何かが残るのだ.――(中略)――そのようにして,肉体と霊魂の二元論が生まれてくる.」(『辺境のフォークロア』第4章 マリアナ・南洋考,p. 186)
島では,人が死に,埋葬してから四晩経つと,霊魂を送る火を焚くそうです.「魂送り」です.
「それ(=「魂送り」)が終わると,死んだ人の霊魂は家の外を自由に歩きまわるようになる.そこへ親類たち氏族の霊魂がやってきて,さまざまな島へ連れて行って見物させてくれる.こうして,サテワヌ島民の宇宙観,宗教観ができあがる.あらゆるものが死後は霊魂になるので,それらは島民のまわりの世界に無数に満ちていて,しかもどこへでも勝手に歩きまわることができる.」(『辺境のフォークロア』第4章 マリアナ・南洋考,pp. 187-188)
わたしはアフリカのカメルーンやコンゴ共和国で親しくなったピグミーたちが,わたしの調査に付き合って森の中で幾晩も過ごすと,家族のいるキャンプを恋しがって,夜,皆が寝静まってから,魂だけがキャンプを訪れて「妻や子どもに会ってきた」と言っていたことを思い出しました.肉体は調査地に置いたままです.
「人間が自分の親しい人の死を前にした時に持つ心情と,その心の痛みを乗り越えようとするときに描く想像力のあり方として,これほど自然に思えるかたちもないということである.ここまでくれば,自然界のあらゆる『わからないもの』の背後に霊や神が発生する段階までは,あと一歩だといっていい.」(『辺境のフォークロア』第4章 マリアナ・南洋考,p. 188)
次に続きます.
------------------------------------------------------
(1) 「NHKスペシャル」「新・映像の時代」
https://www.nhk.or.jp/special/eizo/
(2) 「プラネット・アース」
https://www.nhk-ep.co.jp/topics/planetearth2-20170317/
(3) 「ダーウィンが来た」
http://www.nhk.or.jp/darwin/
(4) TBS「世界遺産」「サンガ川流域の森林地帯」
http://www.tbs.co.jp/heritage/archive/20130331/
(5) 「世界・ふしぎ発見!」
http://www.tbs.co.jp/f-hakken/
(6) KTV「ザ・ドキュメント」
https://www.ktv.jp/document/
(7) 『辺境のフォークロア:ポスト・コロニアル時代の自然の思考』(金子 遊,河出書房新社)
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309226194/
(8) 『オリエンタリズム』(上・下)(エドワード・W.サイード,平凡社ライブラリー)
http://www.heibonsha.co.jp/book/b160202.html
(9) 『野生の思考』(クロード・レヴィ=ストロース,みすず書房)
http://www.msz.co.jp/book/detail/01972.html
(10) 『遠野物語』(柳田国男,青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/001566/card52504.html
(11) 『蝸牛考』は青空文庫で準備中でした.作家別作品リスト:No.1566 柳田国男
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1566.html
(12) 『ヤップ離島サテワヌ島の神と神事』
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001383287-00
三谷 雅純(みたに まさずみ)
コミュニケーション・デザイン研究グループ
兵庫県立大学 自然・環境科学研究所
/人と自然の博物館