ユニバーサル・ミュージアムをめざして67
「権利と義務」は誤解されている?
三谷 雅純(みたに まさずみ)
わたしは「ユニバーサル・ミュージアムをめざして66」 (1) で,「『権利/義務』は片方だけでも行使できるように思いますが,それは誤解です」と書きました.それに続けて「原理的にできません.『わがまま』な主張は,健全な倫理観から『許されない』のではなく,『主張』として成り立たないのです」と書きました.インクルーシブな社会のあり方について,ある人だけに生じた不自由を主張して直してもらうとすると,それは確かに,最初は個人の要求です.しかし,相手の行政や企業の担当者が誠実に取り上げて,どうしたらいいのだろうと当事者といっしょになって,一生懸命,考え始めた時点から,それはすでに「個人の要求」ではなく,「公(おおやけ)の要求」になると主張したのです.なぜなら,同じ不自由を感じている人は誰でも,その不自由さから解放されるからです.社会的に障壁だと気付かなかったことが,ひとりの主張や要求によって皆が気付けるのなら,立派に「義務」を果たしたと言えるのだと,わたしは考えました.なぜなら,その人の要求によって,社会が少し変わるからです.
ところが,最近読んだ荻上チキさんの『未来をつくる権利 社会問題を読み解く6つの講義』 (2) という本に,「権利/義務」と無理に言わなくても,条件によっては「権利」だけで成立するという意味のことが載っていました.例えば「人権」がそうです.「人権」はどのような人でも、例外なく認められる権利です.「どのような人にも認められる」ということは,ある人が「寝たきりである」とか,「赤ん坊である」とか,「知的障がいである」といったこととは無関係に認められる権利であるということです.お母さんのお腹の中にいる胎児にすら認められています.さすがに受精卵には認められないでしょうから,成長が進んだ「いつの段階から,受精卵は人になるのか」という議論があったりします.人であれば例外なく認められる権利ですから,なかなか「義務」を果たせない人も,現実に存在します.
荻上チキさんは,「権利」と「義務」を分けて考えます.「人権」は人であれば無条件に認められるものだが,誰が認めるのかと言えば,それは「国」だと言います.「人権」の場合は,「国」と「国民」の組み合わせで「権利」と「義務」のセットが成立するというわけです.つまり,「国」は「人であれば」という条件ですべての「国民」に「人権」を認めた以上,「すべての人が権利を行使できるような社会制度を整える『義務』が生じる」わけです.
「権利/義務」は,条件によって「権利」は「権利」,「義務」は「義務」とバラバラにできるということは,言われてみれば当たり前のことです.納得できます.と言うことは,「ユニバーサル・ミュージアムをめざして66」でわたしが主張したことは,間違っていたということでしょうか? でも,最初に述べた「ユニバーサル・ミュージアムをめざして66」のわたしの主張を改めて読んでみても,どこが間違っているのかわかりませんでした.これはこれで理屈は通っているように思います.どこかに見落としているところがあるはずです.どこが,おかしいのでしょう.
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このことを考えていて,わたしは,「国」と「国民」のそれぞれに「権利」と「義務」は存在するのだが,荻上さんの議論では,両方ある内の片側が見えなくなっているのではないか? つまり,「国」にとっての「権利」,「国民」にとっての「義務」は,理解するのが難しいので,まるで無いことにしているのではないか思い当たりました.
早い話が「国」にとっては「人」のすべてが「国民」ではないということです.
誤解を招きそうな言い方なので,きちんと説明しておきましょう.
荻上さんは「国」とか「国民」とお書きですが,「国」や「国民」という言葉の使い方には,わたしの使い方とはギャップがあります.わたしなら「人権」のことを問題にするときは,「市民」という言葉を使います.「市民」というのは曖昧な言葉かもしれませんが,少なくとも「国民」とは違います.なぜなら,日本に住む人のすべてが日本国籍を持つとは限らないからです.
元来,「国民」はひとつの民族ではありませんし,生まれたときからその国籍を持つと決まっていたわけではありません.例えば,現在は日本国籍をお持ちの作家 C.W. ニコルさんは,もともと南ウェールズにすむケルト民族です.長野県北部にある黒姫の森が気に入り,ニコルさんはそこに住み始めました.そのときはまだ日本人ではありませんでした.ニコルさんは日本人でないことに不便を感じたのでしょう.やがて日本に帰化をします.(3)
横浜の中華街に生まれた陳 天璽(チェン・ティエンシ)さんが国立民族学博物館に就職したときは,台湾籍も中国籍も日本籍もない,まったくの無国籍でした.そいて移民やマイノリティ,国境や国籍の問題に研究者として取り組んでいました (4). 研究の必要上,調査で海外に出ることや,学会などで海外に出掛けることがよくありましたが,そのたびに自分の身分を保証してくれる国がない「無国籍」の苦労を身に染みて感じたそうです (5).陳さんもニコルさんと同じように,後に日本国籍を取りました.
お二人の例は日本国籍が取れた幸運な例ですが,不都合がある人の全てが日本国籍を取れるとはかぎりません.例えば日本語が不自由だったり,経済的に自立していなかったりする人は,申請しても日本国籍は取れないと思います.難民はなかなか認めてもらえませんし,日本で生まれたとしても,難民の子どもが日本籍を取ることは,今でも難しいのではないでしょうか.つまり,ある人が帰化を申請したときに,認めるか認めないかを決めるのは,いわば国家の「権利」と言えそうです.「国家」は誰と誰を自分の国の国民と認めるのか決める「権利」を持ち,それ以外の人は国民とは認めない.一旦,国民と認めてしまったら,「すべての国民が権利を行使できるような社会制度を整える『義務』が生じる」のだと解釈できるのです.このことを,さらに別の言葉で言い直せば,(もちろん,国民であろうとなかろうと「人権」はあるに決まっていますが)国家は,少なくとも国民以外の人の人権には,(あまり?)配慮しなくてもよいとなってしまいます.だからこそ,ニコルさんや陳さんは,何か不都合を感じることがあったので,日本国籍をお取りになったのです.
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ここまで考えてみて,わたしは,「国」と地方では人の捉え方が違うのだと思い当たりました(どちらかが悪いと言っているのではありませんよ.「人の捉え方が違う」と言っているのです.念のために).
我われの感覚で地域コミュニティというと,何とかそこに住んでいる人の顔が思い浮かぶ範囲ではないでしょうか.隣近所よりももうもっと広い範囲で,かと言って市内の人全部ではかなり多過ぎる.そんな範囲に住む人は,どこそこの地方出身だというばかりではなく,外国籍の人や「ユニバーサル・ミュージアムをめざして66」で書いたような障がい者がいることでしょう.わたしたちは,お隣かそのまたお隣に,外国籍の人や障がい者が住んでいることを当たり前だと受けとめています.ひょっとすると地域によって感覚は違うのかもしれませんが,少なくともわたしが子ども時代を過ごした地域では,多くの外国籍の人や障がい者が住んでいました――わたしが育ったのは,大阪市内の下町です.ですから何となく,外国籍の人であっても「国民」だという気がしていたのです.しかし,実態は違っていて,市民感覚ではあって当たり前の「権利」でも,「国」のレベルでは認められていないことがよくありました.
無国籍だった陳 天璽(チェン・ティエンシ)さんは,もともとご両親の国籍があった台湾に行ったとき,台湾籍がないということで入国を断られました.しかたがないので日本に戻ろうとすると,やはり国籍がないことを理由に日本にも入れなくて,途方に暮れという経験があるそうです.生きた人を,杓子定規な法律に当てはめての矛盾が出てしまうのです.杓子定規な法律に当てはめることを何か変だなと思ましたが,その「変だな」という感覚は,きっと「地域コミュニティ」とか「市民感覚で」といった日常感覚と国レベルで理解しておかなければいけない法律運営の混同があったのでしょう.
国家レベルの感覚というのは,たぶん「法律を犯して悪いことをする人を取り締まる」ものでしょう.このことは日常のコミュニティで対応する人の数とは大きな開きがあるのですから,当然と言えば当然です.それに対して,地域コミュニティで顔の見えるレベルの人付き合いをするときは,最初から人を疑ったりはしません.疑っていたのでは,いっしょに暮らしていけません.「法律を犯して悪いことをする人」も現実にはいるのですが,地域コミュニティで暮らすとなると,「人びとの性格には悪いところもあるけれど,良いところもある」と気がつくものです.その気付いた良いところが国レベルの法律にも,何とか活かせないのだろうかと思ってしまいます.
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「ユニバーサル・ミュージアムをめざして66」は「ユニバーサル・ミュージアムをめざして65」(6)とともに,「障害者差別解消法」が2016年(平成27年)4月から施行されることを話題にしたエッセーです.国が法律で障がい者差別を認め,解消する手段を法律にしたことは,すばらしいと思います.それとともに差別の解消は,元来,互いに顔の見える地域レベルでこそ、細やかに実現できるものだと思います.そのことを考えると,今はまだ気がつかない つまずきが出るのかもしれません.
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(1) ユニバーサル・ミュージアムをめざして66
http://www.hitohaku.jp/blog/2015/03/post_1988/
(2) 荻上チキさんの『未来をつくる権利 社会問題を読み解く6つの講義』(NHK出版)は:
https://www.nhk-book.co.jp/shop/main.jsp?trxID=C5010101&webCode=00912162014
(3) C.W. ニコルさんのことは:
C・W ニコルさんと森を歩く――『アファンの森の物語』書評――
http://www.hitohaku.jp/blog/2014/06/post_1888/
にあります.
(4) 陳 天璽(チェン・ティエンシ)さんのホームページは:
早稲田大学国際学術院のページは
http://www.wnp7.waseda.jp/Rdb/app/ip/ipi0211.html?lang_kbn=0&kensaku_no=6398
2013年3月までお勤めであった国立民族学博物館のページは
http://www.minpaku.ac.jp/research/activity/organization/staff/chen/index
にあります.
(5) 陳 天璽さんの経験は,『無国籍』(新潮文庫 ち-6-1,552円)にくわしく書いてありますが,絶版になっていました.
(6) ユニバーサル・ミュージアムをめざして65
http://www.hitohaku.jp/blog/2015/03/post_1984/
三谷 雅純(みたに まさずみ)
兵庫県立大学 自然・環境科学研究所
/人と自然の博物館