ユニバーサル・ミュージアムをめざして62
ハンナ・アレントの『人間の条件』考-1
三谷 雅純(みたに まさずみ)
子どもたちの世界には、〈スクール・カースト〉と呼ばれる現実があるそうです。クラスの中に身分制のような序列がある。そのカーストにいったん捕まると、抜け出せない子どもがいる。下のカーストにされた子どもは〈引きこもり〉、やがてクラスのみんなはその子がいた事も忘れてしまう。まるで子どもの「難民化」です。
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なぜ故郷を捨てて、危険を冒してまで見知らぬ土地に旅立つ人がいるのだろうかと、このところずっと考えていました。死ぬかもしれないのにです。などと書くと、わたしやわたしの家族がどこかに旅立ちたがっているかのようですが、そうではありません。このことを考えはじめたのは、昨年の冬に『ゾミア』を読んだからです。『ゾミア』によれば「遺伝子のつながった民族」などは後から為政者が作りあげた虚構にすぎず、実際は、遺伝的にはあまり関わりのない雑多な人たちが、「新しい民族」を創り、勢力を競ったといったことがよくあった。そのことを知ったことが始まりでした。
『ゾミア』はイエール大学の人類学者:ジェームズ・C・スコットが書いた本です (1)。2009年にオリジナルが出て、2013年10月に日本語の翻訳版が出ました。「ゾミア」とは東南アジア大陸部の広大な丘陵地帯を指します。ベトナム、カンボジア、ラオス、タイ、ビルマ(=ミャンマー)と中国の4省(雲南、貴州、広州、四川)が含まれます。人びとは山の斜面に小さな村を作って住んでいます。中国の漢族やタイ、ビルマといった、水稲耕作が基本の大きな国家とは異なった倫理観や宗教を保(も)つ、言うならば、大きな国家からは独立した「自由な民族」です。
わたしたちの周りにも多くの異民族が混じり合い、ひとつのコミュニティで同居しています。日本列島のなかでも、昔からさまざまな人たちが混住した歴史があります。多様な文化が花開き、さまざまな言葉が話されました。中には権力者による移住もありましたが、経済的な理由や、ことによったら冒険心から故郷を離れ、移住し、混住したコミュニティもあったと思います。それは一種の「聖域」とか「自由領域」に当たるのでしょうか。つまり統治権の及ばない「アジール」です。
新しい集団が生まれるには人と人の出合いが必要です。その出合いのためには、出会うまでの間、さまよわなければなりません。では人は、どんな時に故郷を離れる決心をするのでしょうか。そのことを確かめようと、ハンナ・アレントの『人間の条件』(2) を読んでみました。ただし、アレントは哲学者であり、『人間の条件』はアレントの哲学的な思考の結果です。わたしがそのまま読むのは難しい。そこで、アレントの思想を長く研究してこられた矢野久美子さんの『ハンナ・アーレント』(3) をあらかじめ読んで下準備をし、『人間の条件』を読んだ後、さらに教育哲学者の小玉重夫さんが書いた『難民と市民の間で』(4) を読んで、わからなかったところを補おうとしました。
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ハンナ・アレントの『イェルサレムのアイヒマン』(5) のことは、たしか開高 健のルポルタージュ (6) で知っていました。記憶はおぼろげですが、開高もアレント同様に、アウシュビッツでユダヤ人殺害を命じたアイヒマンを、「凡庸な役人」と評していたように思います。
『イェルサレムのアイヒマン』は『人間の条件』の後に書かれています。この本の主張は、「アイヒマンはナチズムへの盲信によってユダヤ人を殺害した冷酷な人物」という世論に反し、「どこにでもいる、凡庸な役人のひとりであった」というものでした。この主張からアレントには大変な非難が巻き起こり、彼女はユダヤ人の友人を次つぎに失ったということです。
アレントはドイツで生まれました。ユダヤ人でしたがユダヤ教徒ではなく、両親は社会民主主義者だったそうです。
学生時代は、すでに家族を持っていた大学教員マルティン・ハイデガーと恋仲になりました。しかし、ハイデガーはナチに優遇され、大学の総長にまで登りつめます。一方のアレントは大学を去り、同じユダヤ人の哲学者カール・ヤスパースに指導を受けて博士論文を執筆しています。そのヤスパースもユダヤ人であったために大学を追われてしまいました。アレントもドイツを追われ、フランスのパリに亡命したのです。「ドイツで大学教授たちのナチへの同調を目の当たりにした彼女は、二度とこうした『グロテスクな』世界とかかわるまいと考え」たそうです(『ハンナ・アーレント』:51ページ)。
ところがフランスはドイツに宣戦布告し、ドイツから亡命したアレントたちは、ユダヤ人であるかどうかの区別なく「敵性外国人」として強制収容所に入れられます。アレントはこの収容所体験をあまり詳しくは語っていないそうですが、劣悪な環境だったことは間違いありません。この収容所体験の後、収容所を逃げ出したアレントたちは、アメリカに亡命します。大著『全体主義の起原』(7) やこのコラムで取り上げる『人間の条件』、先に述べた『イェルサレムのアイヒマン』などを刊行するはアメリカでのことです。
『人間の条件』を読むときのキーワードに、「国民国家」「公共空間」「忘却の穴」といった言葉があります。
現代では「国民国家」でない国を想像できないという人が多いのかもしれません。「国民国家」とは「国家」の構成員は「国民」であるような国家のことです。暗黙の了解として、「国民」は「同じ文化を担う民族」(拝外主義的な主張では「単一民族」)であるという前提があります。近代になってヨーロッパで起こった考え方だそうです。もちろん日本でも、例えば在日朝鮮人や在日台湾人(中国人)といった人たちはコミュニティの構成員、つまり納税をしている市民ですが、日本国籍の持たない人はよくいます。またアイヌ民族や琉球民族は日本国籍をお持ちですが、同調圧力が極端に高い日本では、まるで独自の言葉や文化を持たない「日本民族」のように扱われています。
「公共空間」は『人間の条件』では「私的領域」と対比して、「公的領域」という言葉で表されます(『人間の条件』の43ページから132ページ)。もともとは古代ギリシャのソクラテスやプラトンの時代にさかのぼる考え方で、市民一人ひとりが議論をとおして社会正義を実現するといったことです。現代の「公共空間」は、本当は学校制度にこそ求められるべき(『難民と市民の間で』:43ページ)ですが、今、日本の学校は「公共空間」からもっとも遠い場所になってしまいました。「スクール・カースト」や「引きこもり」といったことに関連して、このことは後でもう一度触れます。
そして「忘却の穴」です。このキーワードは『人間の条件』ではなく、『全体主義の起原』で出された概念です(『難民と市民の間で』:22ページ)。しかし、『人間の条件』を深く読むためには必要です。もともとはアウシュビッツなどで殺されたユダヤ人が、まるで最初からいなかったかのように歴史から消されてしまった事実を指します。収容者の名簿や記録から抹消され、個人の持ち物は焼き払われたのです。当然、収容所管理者は「ユダヤ人がいた」ことは知っていたはずですが、「ユダヤ人はいなかった」という暗黙の同調圧力が働いて、「記憶にないふりをしていた」ということです。このことも、現代の教育問題に関連して、後でもう一度触れます。
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アレントは、「公的領域」、つまり「公共空間」がなくなり、民族性や性差、年齢といった個別の属性が見えなくなったら、さまざまな属性や個性をもって議論しあうことがなくなるという意味のことを述べました。それなら個人の差異を表す方法はなくなったのかと言えば、そうではなくて、「単一の価値尺度」(例えば「偏差値」や「収入」)がそれに代わったと小玉さんは解釈しています(『難民と市民の間で』:136ページ~138ページ、『人間の条件』:65ページ)。
そもそも、なぜ近代の帝国主義的な「国民国家」では、「公的領域」で大切だったはずの個人の独自性が軽んじられたのでしょうか。わたしはそれを「水稲栽培の労働習慣」、つまり「コミュニティの構成員は皆、共同で労働しなければ水田耕作はなり立たない」からだと思っていました。しかし、ヨーロッパにアジアのような水田はありません。別の理由あるはずです。それは何でしょう?
『難民と市民の間で』の143ページに、フランスの哲学者ミッシェル・フーコーが近代の権力は個人の「私的領域」(=プライベートな事柄)に介入し、それまでは公に口にすることがはばかられた「子作り」を問題にしはじめたと述べたそうです。わたしは思わずヒザを打ちました。ようやく合点がいきました。「富国強兵」や「殖産興業」が「国家の意思」として国民に要求され、「産めよ、増やせよ」とせき立てられる。軍隊を強くするためです。その影響は子どもに及び、元来、「公的領域」は個性の尊重がなされて当たり前なのに、個人の独自性は無視され、横並びの「単一の価値尺度」が横行するようになりました。日本では農家には「水稲栽培の労働習慣」があった上に、海外から「富国強兵」の外圧が掛かった。これが「同調圧力」というものの正体ではないのでしょうか?
元来、「子ども」は「小さな大人」ではなく、〈子ども〉という異文化に生きる固有の存在です。そのことをわたしたちは、フランスの歴史学者フィリップ・アリエスの『〈子供〉の誕生』(8) という本で知りました。「異文化に生きる子ども」とは、決して支配する存在ではなく、教え、導きながらも、「異文化に生きる人」として尊重するべきだという事です。
『難民と市民の間で』には、「『忘却の穴』に落ち込む子どもの難民化」ということが述べてありました(154ページから161ページ)。今は社会全体に「同調圧力」が強いのだが、その中でも特に「同調圧力」の強い学校組織では、「空気が読めない」という理由で「スクール・カースト」の下位に追いやられた子どもは、子どもや教師の輪に入れてもらえず(=はいらせず)、引きこもり、やがてクラス一人ひとりの記憶から消えていく。まさに「『忘却の穴』に落ち込む子どもの難民化」です。
次に続きます。
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(1) お隣の山地民『ゾミア――脱国家の世界史』書評-1, 2
http://www.hitohaku.jp/blog/2014/01/post_1822/
http://www.hitohaku.jp/blog/2014/01/post_1823/
(2) 『人間の条件』(ちくま学芸文庫)
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480081568/
(3) 『ハンナ・アーレンと』(中公新書)
http://www.chuko.co.jp/shinsho/2014/03/102257.html
(4) 『難民と市民の間で』(現代書館)
http://www.gendaishokan.co.jp/goods/ISBN978-4-7684-1002-8.htm
(5) 『イェルサレムのアイヒマン』(みすず書房)
http://www.msz.co.jp/book/detail/02009.html
(6) 『声の狩人』(電子版が出ていました)
(7) 『全体主義の起原』1,2
http://www.msz.co.jp/book/detail/02018.html
http://www.msz.co.jp/book/detail/02019.html
(8) 『〈子供〉の誕生 アンシァン・レジーム期の子供と家族生活』
http://www.msz.co.jp/book/detail/01832.html