ユニバーサル・ミュージアムをめざして49
わたし達は、皆、当事者の一人ひとり
三谷 雅純(みたに まさずみ)
キャンプ生活の活動。フジのツルを使って何かを作ります。
「平均的な」という言い方をします。「平均的な成績」とか、「平均的な体格」とか言う時の「平均的な」です。「平均的な」に「人」を付けた「平均的な人」は、「多数を代表する人物像」という意味が含まれます。「平均値」をはずれるような人は稀(まれ)だと、多くの人が信じているからです。
ですから、何かを新しく決める時、「平均的な数値」になるように決めておけば安心です。そんな気がします。一番人数が多いのですから、それだけ満足する人が多いはずです。このやり方は選挙や世論調査でも同じです。選挙をして、「一番、得票の多い人を代表にする」とか、世論調査では、「これこれの意見が一番多い」という時と同じ理屈です。
多数決で決めるのは民主主義的な気がします。しかし、少し考えてみると、多数決では決められないものが よくあることに 気付きます。好きか嫌いかといった好みの問題がそうです。甘いミルク・セーキが好きな人に、苦いお茶は強制できません。たとえ苦い味を好む人が多くいたとしても、苦い味を「全体の味」にすることはできないのです。
性や年齢でも同じことが言えます。今いる集団に男性が多いとか、女性が多いという理由で、その集団のシンボル・カラーを決めようとするのはナンセンスです。シンボル・カラーを決めるのであれば、その集団の特徴をよくあらわす色を選ぶのが普通です。例えば水泳が好きな人の集まりなら水がイメージできる水色にするとか、フラダンスの同好会なら風と花がイメージできるツートーン・カラーにするとかです。人生をどう生きるべきかと言った信条(しんじょう)でも同じでしょう。隣に住む人がどんな信条(しんじょう)を抱いているかは、あなたの信条(しんじょう)とは関係がありません。信条(しんじょう)は人によって違います。今まで生きてきた経験で決まるものだからです(もちろん、「正しい生き方」はあると思いますよ)。
よく考えてみると、全ての人は必ず、「平均的な特徴」とは違う、はずれた性質を持っています。他の教科に比べて数学なら何時間でも夢中になれる人がいますし、運動は得意ではないけれど、スキーなら任せてほしいという人もいるはずです。「平均的な特徴」は集団全体の傾向を知るには役立ちます。しかし、個人個人がどうであるかはわかりません。個人と集団は分けて考えなければいけません。
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我われは一人ひとりが個人として生活しているのですから、社会は、その人の生活にあった場所や時間、制度や道具を揃えておけば住みやすくなります。そうでないと、「平均」からはずれた特徴を持つ人――くり返しますが、皆、どこかに「平均」からはずれた特徴を持つはずです――は、何かを我慢しなければなりません。
ところで、「平均」からはずれた特徴を持つ人が何かを我慢するというのは、それほどいけないことでしょうか? 我慢は生活に付きものです。我慢しないのは我が儘(わがまま)です。そうではないでしょうか?
これは大切な問題ですから、はっきりと書いておきます。わたしは、決して我が儘(わがまま)だと決めつけることはできないと思います。
次に書くのは、ただの、わたしの空想です。キャンプをする場面を想像してみて下さい。山でテントを建てたり、火をおこしたりする活動です。自分でやってみれば、すぐにわかることですが、キャンプ生活には、すぐ馴染む人もいれば、なかなか馴染めない人もいます。○○さんは見かけによらず簡単に火がおこせたが、横柄な口を利く□□くんは、言葉のわりに、ひとりでテントも建てられないとかです。それでも大体の人は、何日かすれば自分ひとりでキャンプ生活ができるようになるものです。キャンプの世話をやく年長者のキャンプ・リーダーは、あるグループに合格点をあげたくなりました。しかし、ひとつ困ったことがあります。キャンプの経験をしに来ていた△△ちゃんは脳性マヒで、うまく歩けなかったのです。指や手も器用には使えません。ひとりでキャンプ生活をすることができないのです。こんな時は、どうしたら良いのでしょうか。
わたしは、△△ちゃんがひとりでキャンプ生活ができないからといって、決して我が儘(わがまま)だとは思いません。
では、どうすれば良かったのでしょう? キャンプに参加している皆が、助けてあげればよかったのでしょうか? それもあります。しかし、もっと大事なことは、脳性マヒの△△ちゃんに、反対に「助けを借りる」ことなのです。「助けを借りる」? 普通の人が脳性マヒの人に助けを借りる? 一体、何のことでしょう。
それは、人と人が助け合う工夫の仕方を学ぶということです。キャンプ生活の本質は、自分ひとりで何でもできることよりも、助け合う工夫の仕方を学ぶことにあるのです。
△△ちゃんのことで困っていたキャンプ・リーダーは、健常者、つまり非障がい者だったのでしょう。非障がい者であるリーダーが自分のわかる範囲で考えてみた。キャンプ生活で大切なことは、自分ひとりで何でもできるようになることだと考えた。そう考え、実践したリーダーは立派でした。しかし、脳性マヒの△△ちゃんは、自立よりも、互いに助け合うことが大切だったのです。そのことに思いが及ばなかった。これはリーダーの(健常者=非障がい者としての)至らなさです。
キャンプに参加した△△ちゃんにとって、キャンプでは人の助けを借りるばかりではなく、自分でも、どうすれば人の助けになれるかを、懸命に試行錯誤したはずです。健常者のように動けないことは、自分自身が一番よく知っていたのですから。その意味で、このキャンプの体験は貴重でした。我が儘(わがまま)にならないように自分をコントロールし、仲間に助けてもらいながら、自分もまた、どうすれば仲間の力になれるかを工夫する。このことを実際の経験を通して学んだのですから。
教科書ではなく、経験を通して何かを学ぶ。人は、経験から学ぶことの方が、教科書で学ぶことよりも何倍も多いと思います。
わたしの空想は続きます。わたしは、△△ちゃんが、将来、経験を積んだキャンプ・リーダーになれたら、そんなすばらしい事はないと思っています。脳性マヒで身体は思うように動きません。ひとりでリーダーはできないかもしれない。しかし、健常者(=非障がい者)との共同リーダーになら、なれます。障がい者同様、健常者にも、非障がい者ゆえに気が付かないことは多くあります。人と人が、互いに気が付かないことを補い合う。すばらしいチームができるでしょう。
人を平均値でだけ見る感性は愚(おろ)かです。多様な人のあり方を考慮して、新しい枠組みで見るべきだと思います。人を集団ではなく個人個人で見る。そのためには、パラダイムの転換が必要です。
三谷 雅純(みたに まさずみ)
兵庫県立大学 自然・環境科学研究所
/人と自然の博物館