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ユニバーサル・ミュージアムをめざして35

 

脳の多様性?-1

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)

 

 

neurodiversity_FP.JPG 

 本を題材にして、多様性について考えます。

 

 「生物多様性」は博物館でも よく聞く言葉です。かんたんに言ってしまえば、いろんな生き物が、いるべきところに、ちゃんといるということです。

 

 それから「遺伝的多様性」です。野生でも、同じ種類の生き物に生まれつき体の色や大きさが違うという場合があります。たとえばチョウの羽根は、少しずつ模様が違うのが普通です。また人間の血液型はA型やB型、AB型、O型の人がいて、それぞれの血液型は生まれつき決まっています。これは「生物多様性」の中でも特に、「遺伝的多様性」と言っています。

 

 「文化的多様性」という言葉もあります。この多様性は人間にだけ見られます。

 

 例をあげておきましょう。もともと台湾という島に住んでいた人は、日本人や朝鮮人、そして中国大陸から台湾に移り住んだ漢民族とは異なる習慣や宗教を持っていました。わたしの友人に台湾先住民はいないので、顔つきを思い出すというわけにはいきませんが、本で調べると、フィリピンやマレーシア、インドネシアの人たちと顔立ちが似ているそうです。マレーシアのサバやインドネシアのスマトラ島とかジャワ島なら何度も行った事があります。そこで友だちになった人たちとは、今でも、よくメールのやり取りをしています。そのような人たちと顔立ちが似ているそうです。台湾先住民には何となく親近感がわきます。

 

 生活の仕方や習慣も似ているのでしょう。それはわたしの生活や習慣とは違います。文化の成立の仕方や歴史が違うからです。そのような社会の多様性は、現代では巨大な経済活動によって見えなくなりました。つまり、地球の上では誰もが同じ物を食べ、同じ仕事をしているように思ってしまうのです。しかし、それぞれの民族のそれぞれの集団を訪れると、そこには、力(ちから)では断ち切ることのできない絆(きずな)のようなものを感じます。「文化的多様性」とは、それぞれの絆(きずな)が、それぞれ価値を持っていることの証(あかし)です。

 

 そして「脳の多様性」です。わたしにとっては新しい言葉でした。いったい何のことでしょう。今から書いていく文章は、『脳の個性を才能にかえる―子どもの発達障害との向き合い方―』(トーマス・アームストロング著、中尾ゆかり訳、NHK出版)を読んで感じた、わたしの読後感といったものです。

 

 ところで「脳の多様性」といった場合、それは、たとえば血液型の多様性とは違うものなのでしょうか?

 

 ほとんど同じでした。ただ違うところもありました。遺伝的な多様性は、純粋に生物学的な概念です。「脳の多様性」も脳の働きに関わる遺伝子の話ですから、もともとは「脳の遺伝的多様性」のはずでした。ところがそこに「文化的多様性」含まれるのです。人間は「脳の遺伝的多様性」を「異常/正常」や「病気/健康」や「障害/健常」に分けたために、純粋な生物学的概念であったはずのものが、社会的な価値観を含むようになってしまったのです。「異常/正常」や「病気/健康」や「障害/健常」は、どれも、片方がもう一方よりも良いという価値判断の入った概念です。

 

 この本では人間の多様性の中でも、社会的によく問題になる「障がい」を取り上げています。取り上げる「障がい」を順にあげます。まずADHD(注意欠損多動性障がい)です。次に自閉症です。そしてデスレクシアを取り上げます。さらに、うつなどの気分障がいを取り上げます。そしてこの種の書物にはあまり取り上げられなかった脅迫性障がいPTSDなどの不安障がいが話題に上ります。またダウン症など知的発達に遅れがちな人のことが取り上げられます。そして最後に統合失調症です。皆、遺伝子の多様性が原因で起こるのです。程度は重い・軽いの差があるスペクトルが見られるのだそうです。以上を明らかにした上で、他の人とは違う、当事者の良いところを探そうというのです。

 

 原題は "The Power of Neurodiversity: Unleashing the Advantages of Your Differently Wired Brain" です。直訳すれば「脳の多様性の持つ力:つながり方の違うあなたの脳の才能を解き放つ」とでもなるのでしょうか。日本語のタイトルは日本でよく話題になる発達障がいに偏った本というイメージです(訳者か出版社が、発達障がいについての本だと誤解してもらうことを望んだのかもしれません)が、読んでみると、発達障がいよりももっと広く、うつやダウン症、統合失調症の人の才能を探っているのです。わたしには、このような著者の話題設定が新鮮でした。

 

 わたしがこのブログや他のエッセーに書いてきたことと似ています。わたしは、世の中でネガティブに捉(とら)えられがちな「障がい」を、人の、あるいはヒトの多様性と捉(とら)え直すことで、いろいろな価値観が驚くほどひっくり返る。ヒトの進化を見る目はおろか、人の社会の意味付けまでが変わってしまう。その事を知ってもらいたくて、さまざまに書いてきました。それが別の国の、別の人によって本になっているなんて、嬉しくなってしまいました。それにしても、わたしは neurodiversity(ニューロダイバシティ:「精神の多様性」?)なんて言葉は、本当に聞いたことがありませんでした。わたしが知らないだけで、英語では普通の言葉なのでしょうか? 霊長類学の研究者としては恥ずかしいのですが、その可能性もあります。

 

 と言うことで、"neurodiversity" をキーワードにインターネットで検索をしてみました。ただし普通に検索をかけたのでは、多くのデタラメ情報が引っかかってしまいます。わたしが検索をしたのは学術情報サイトです。そこでは学術論文と認められている情報だけを検索します。これでもデタラメは混じりますが――すべての学術論文に事実だけが載っているというわけではありません――だいぶ確からしくなります。結果はどうだったかというと、多くの論文に"neurodiversity"という言葉が使われていたのでした。ただし、それは生物学や医学のような自然科学の論文ではなく、出てきたのは社会学や倫理学のような社会科学とか人文科学の論文ばかりでした (1)

 

☆   ☆

 

 "Neurodiversity"という言葉を使った論文には、数ある多様性の中でも高機能自閉症について書いたものが目に付きました。アームストロングさんの書いた『脳の個性を才能にかえる』とは立場が違うのかもしれません。『脳の個性を才能にかえる』は読んでしまいましたので、次に"neurodiversity"で引っかかってきた論文も、目に付いたものを読んでみることにしました。

 

 すると、だいたいの傾向が分かりました。引っかかった論文の著者は、高機能自閉症やアスペルガーを遺伝的なヒトの多様性と捉(とら)え、認知の仕方が多数者とは違うが、その存在は多数者にとっても役に立つ、独特の才能を持った人なのだと主張しているのです。ちょうど〈ろう文化〉を思い出せば分かりやすそうです。ろう者は聴覚を使いません。赤ん坊の時から、周りのおとなのおしゃべり(=発話言語)は聞かず(=聞きようがなく)、手話を母語として育った人です。ろう者は視覚的な記憶力が優れているそうです。それはそうでしょう。手話という視覚言語で、日常のコミュニケーションをしているのですから。それと同じような、ただし、ろう者とはまた違う才能が、自閉症者にはあるそうです。高機能自閉症やアスペルガーを持った人は、人間関係に疎(うと)いところがありますが――相手の気持ちを推し量ることが苦手だそうです――、道具やコンピュータの扱いといった物との付き合いはお手のものです。また人間よりも動物の方が、何を感じているか分かるという高機能自閉症の動物行動学者もいます。でも人間だけはつき合えないのです。

 

 それにしても、なぜ高機能自閉症なのでしょう。

 

 わたしは、昔、「高機能自閉症者は認知能力のエリートだ」という主張をしている人がいると聞いたことがありました。ひょっとしたら、"neurodiversity"がそうなのだろうかと疑いました。論文を書いた著者にも高機能自閉症やアスペルガーの人がいるかもしれません。そんな人が、自分のことをよく見せるために、こういった論文を書いたのでないだろうか? そんな疑いです。

 

 日本の民俗学者で歌人でもあった折口信夫(おりぐち・しのぶ)は、日本文学には貴種流離譚(きしゅ・りゅうり・たん)と呼ばれる物語作りの基本構造があると主張しました。貴種流離譚(きしゅ・りゅうり・たん)というのは次のようなことです。

 

「高貴な血筋に生まれたが、赤ん坊の時に父親に嫌われ、棄てられる。その赤ん坊は、偶然、動物や卑しい女に拾われて育てられる。やがて育った若者は、自分を棄てた父親に巡り会い、復讐を果たす。そして高貴な血筋にふさわしい身分を取り戻す。」

 

ちょうど、この貴種流離譚(きしゅ・りゅうり・たん)が高機能自閉症の寓意だと、こういった論文は主張しているのではないのだろうか? そんな思いがしました。つまり、高機能自閉症はちゃんとした才能があるのに、世の中はその才能を認めていない。そればかりか「治療する」と称して薬を飲ませる。薬を飲むと頭はどんよりと雲がかかったようになり、本来の才能が失せてしまう。本当の自分は高機能自閉症という遺伝的な「貴種」なのだから、人びとはその事を認めて、「貴種」として扱うべきだ。

 

 もちろん論文には、こうしたことが、直接、書かれているわけではありません。しかし、一旦、このような想像をしてしまうと、何だか恐ろしくなりました。言うなら、「遺伝的に『文化』が違うと信じている人びとが、いるのかもしれない」ということなのですから。

 

 しかし、このような心配はまるっきり当たっていないと、すぐに気が付きました(よかった!)。高機能自閉症者の特徴は人間関係に弱いところがあることです。微妙な人間関係は理解できないのです。ですから「復讐」だの「高貴な身分」への憧(あこが)れだのといった気持ちは、はじめから持ちようがないのです。

 

 著者には、本当に高機能自閉症者がいるのだと思います。その人たちは自分のことを、「エリート」だとか「貴種」だと言っているのではなく、現実に生きていくのが辛(つら)いのです。それをどうすればいいだろうかと考えたのが、この論文だったのだと思います。この辛(つら)さをどうにかしたいという足掻(あが)きが、論文を書かせたのだと思いました。

 

 次ぎに続きます。

 

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(1) たとえば Health Care Analysis という雑誌に Pier Jaarsma と Stellan Welin が書いていた Autism as a Natural Human Variation: Reflections on the Claims of the Neurodiversity Movement

 http://liu.diva-portal.org/smash/get/diva2:457919/FULLTEXT01

 

や Andrew Fenton と Tim Krahn が Journal of Ethics in Mental Health に書いていた Autism, Neurodiversity and Equality Beyond the ‘Normal’

http://noveltechethics.ca/files/pdf/210.pdf

 

などでした。アームストロングさんご自身の文献がないかと探しましたが、あまりありませんでした。ただ、学校の教員向けらしい Educatinal Leadership という雑誌に書いていた First, Discover Their Strengths が大変わかりやすかったです。

http://web.uvic.ca/~gtreloar/20%20Latest%20Research%20Articles/First,%20Discover%20Their%20Strengths.pdf

 

 

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)

兵庫県立大学 自然・環境科学研究所

/人と自然の博物館

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