ユニバーサル・ミュージアムをめざして31
三谷 雅純(みたに まさずみ)
幼い子どもが最初に思い込む「素朴概念(そぼく・がいねん)」では、大地は平らなものですが、本当の地球は球体です。NASAが公表したアポロ宇宙船からの映像
一般に、「思い込み」はあまり科学的な態度(たいど)ではありません。中立的な物の見方(みかた)から、はずれてしまう事が多いからです。冷静な判断は「思い込み」を棄(す)てて初めて可能になると言われています。第一、思い込みが強すぎては、人との付き合いもギクシャクしてしまいます。思い込みは偏見を産むからです。相手の人は、その偏見に腹を立てるでしょう。
でも、物事はグループに分けた方が理解しやすいというのも事実です。雑多な物、さまざまな個別の物を、それぞれ別べつに憶えておくのは大変です。とても憶えきれません。そこで、わたしたちは物事をグループに分けることを試みるのです。こうして世界を体系的に理解し始めます。
ただし、変な話に思えるのかもしれませんが、グループに分ける事は、「思い込み」がなければできません。つまり、「偏見」は「理解」につながるのです。
子どもが生まれて初めて果物(くだもの)を見て、グループに分ける時の事を想像してみて下さい。黄色の果物(くだもの)、赤い果物(くだもの)、緑の果物(くだもの)といった具合に、見た目の色で分けていくかも知れません。しかし、現実にリンゴやブドウが食卓に出た時に、その子は戸惑(とまど)ってしまうかも知れないのです。なぜかと言うと、リンゴやブドウの色は、特定の色に決まっているわけではないからです。リンゴは赤と決まっているわけではありませんし、ブドウも紫(むらさき)ばかりではありません。緑のものがあります。
幼い子どもは、見た目で判断しがちなようです。黄色いリンゴは黄色いバナナの仲間なのです。この態度は科学的とは言えません。でも、仮に分けておくのは大切なことです。どうグループ分けしたらいいのか、よくわからないのなら、取りあえず分けておく。そうすれば、後でもっと別の規準で分けることができるからです。果物(くだもの)の場合なら、食べてみることです。黄色いリンゴと黄色いバナナは別物で、どちらかというと、黄色いリンゴは赤いリンゴと同じ味がすることに、食べてみて、初めて気が付くのです。
こんな子どもの理解の仕方(しかた)を、教育学や認知(にんち)科学の世界では「素朴概念(そぼく・がいねん)」と呼ぶのだそうです。「無邪気(むじゃき)な思い込み」とでも言い直せばいいのでしょうか? 人間が、日常生活で、自然に身に付けた知識のことだそうです。ですから、学校で習う理科とか社会、算数や国語の知識とは異なっていることが普通(ふつう)です。
学校現場では、「素朴概念を、学校で教えていく科学的概念に直す方法」といった教え方が、よく研究されたと言う事です。なぜかというと、「素朴概念」は専門家の考え方とは異なりますし、その上、案外、多くの人が疑わずに信じていて、簡単(かんたん)には誤解が解けないからだそうです (1)。学校教育で教える理科とか社会では、誤解を解いて、もう一度、子どもたちに教え直す必要があるのです。
「素朴概念」を学校教育で教える知識の体系に直すのは重要です。「素朴概念」だけでは、複雑な現代社会が理解できないからです。たとえば「わたしたちが住むこの地球は、水平な板ではなく、丸い星のひとつ」だとか、「民主主義では多数の意見を尊重しなければならないが、少数者の意見を無視しても社会が成り立たない」といった事は、「無邪気(むじゃき)な思い込み」では理解できません。「大地が丸まっていないように見える」のは地球が大きすぎるからですし、少数者の意見も大切にするから、多様な未来の可能性が開けるのです。
このように、学校教育で教える知識の体系は子どもたちの将来にとって大切です。しかし、わたしは霊長類学の研究者ですから、教育現場にいる先生がたとは、ちょっと捉(とら)え方の違うところがあるのです。
今の教育システムからは、はずれるのかも知れません。でも、幼い子どもがどう世界を理解するのかは、ひょっとするとヒトのたどってきた進化のプロセスから見直すと必要な事だったという事はないのでしょうか?
たとえば「素朴概念(そぼく・がいねん)」を、〈ことば〉と同じようなものだとは捉(とら)えられないのでしょうか? 〈ことば〉は、赤ん坊であれば、何の苦労のなく憶えられます。多くの子どもは、こうして母語を覚えます。ちょうどそれと同じように、「素朴概念」、つまり「無邪気(むじゃき)な思い込み」を抱く事には、何か科学的な合理主義とはまったく別の価値があるのではないか。ただ単に「子どもの誤解」した「間違いを正す」というだけのものとは違うのではないか。ふと、そんな気がしたのです。
教育現場にいる先生にとっては、子どもの将来が大切です。ですから、現代社会に沿ったものの考え方が大事だと思います。しかし、わたしにとっては、現代社会の価値観を超えた、人(=ヒト)の本質を考えていく作業が、自分の仕事だと思っています。そこでは、変に聞こえる事も言ってしまいます。
本当に不思議な事ですが、わたしたちは、何か物事を分かろうとする時には、おとなになっても「思い込み」で分けていくしかありません。そうする事によって「理解した」と思い込むのです。また、そうしなければ、後のちの理解はできないのです。わたしはこの事に、つい最近、気が付きました。
たとえば、世の中に無数にいる「他人」、つまり「自分以外の人」です。もちろん、お一人おひとりは個別の人間ですから、笑いもし、怒りもします。でも、「他人」を理解しようとすると、個別の人ではなく、「よく笑う人」とか「怒りっぽい人」といったふうに、人をいくつかのグループに分けて理解しようとしていることに気が付きます。その「グループ」とは、よく考えてみると、ただの「思い込み」で分けたに過ぎません。その人が、本当にほがらかで、よく笑っているかどうかはわからないし、いつも不機嫌に怒っているように見えるが、もともと、あまり表情を作らないだけかも知れません。無理やりグループに入れないですむのは、「自分」だけではないでしょうか?
人を理解する前に、まず、その人をグループに当てはめてみる。考えてみれば、これは恐ろしい事です。わたしたちには、人に偏見を貼り付ける下地(したじ)が常にあるということです。でも、ヒトは誰でも、人をグループに分けてみなければ、世の中の仕組みは分からない。仕組みは、科学的な事実のはずです。
明らかに矛盾しています。幼い子どもと同じように、いつか「黄色いリンゴと黄色いバナナは別物で、実際に食べてみれば黄色いリンゴは赤いリンゴと同じ味がする」ことに気が付くのでしょうか?
そもそも、科学の知識自体が「時代の空気」や「時代の要請」といった偏(かたよ)りに根ざして広がっているのですから、本当に冷静で中立的な物の見方(みかた)など、存在するかなと思ってしまいます。どうなんでしょうか?
-----------------------------------------------
(1) Chinn,C.&Brewer,W.(1993)The role anomalous data in knowledge acquisition:Atheoretical framework and implications for science instruction. Review of Educational Research,63,1-49.に載っているそうです。山縣宏美さんが2001年にお書きになった「理科学習における概念変化のプロセスとその要因」(京都大学大学院教育学研究科紀要, 47: 356-366)
http://hdl.handle.net/2433/57399
からの孫引きです。
三谷 雅純(みたに まさずみ)
兵庫県立大学 自然・環境科学研究所
/人と自然の博物館