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◇ 温故共生 江戸のくらしにみる共生環境
<ツルが渡りくる都市>
信じられないことですが、東京の近郊にはかつてツルがやってきていました。現
在の台東区にあたる金杉三河島でのそうした風景を、広重が江戸名所百景の中で描
いたものがあります。江戸の頃、このツルの飛来地には竹の囲いを巡らせてあり、
ツルがくる11月から3月までの間は木戸を閉じて通行を禁止し、犬や人の出入り
を監視する犬番という係やエサを与える「餌まき平四郎」という管理人をおいたよ
うです。
囲いの中に畑をもつ農民は、ツルのいない夕方6時から朝の6時までの間だけ中
に入ることができ、付近ではツルを驚かさないように南風の時は凧をあげないなど
の禁制(きまり)がありました。
<江戸にやってきた異人さんたち>
このツルをはじめ、広重の江戸名所百景には背景としてたくさんの鳥が描かれて
います。江戸は鳥などたくさんの生物が人々とともにすむ都市でした。
当時日本では、鳥や獣をとることが禁止されていました。ペリーが来航したとき
、船の甲板やマストには人間を恐れない鳥たちがたくさんやってきました。それを
船員たちが鉄砲で撃ちましたが、それを見ていた日本人たちは驚き、日米和親条約
の付則に「鳥獣遊猟は禁じられている。アメリカ人もこれに服すべし。」とつけ加
えるほどでした。
こうした江戸の豊かな生物相は、その生息環境である江戸内外の豊かな緑に支え
られていました。
<英国人フォーチュンが驚いた緑の都市>
江戸では、ほんの2割ほどの町人地に多くの人々が集まり住んでいましたが、残
りの8割は武家地・寺社地でした。それらは塀で囲まれていましたが、大半が庭園
でした。幕末に江戸を訪れたイギリス人で植物学者のR.フォーチュンは、「緑の
美しさにおいては、世界中のどの都市も江戸には及ばないだろう」と感嘆したと伝
えられています。江戸はまさに庭園都市であったのです。
<菊人形やツツジの名所>
こうした広大な大名庭園の成立の背後には、江戸の北部郊外における植木産業の
発達がありました。駒込・巣鴨・染井などです。今日人気のある桜ソメイヨシノは
、この染井から広まった品種です。
江戸中期から幕末にかけて、高密居住をしている庶民の間には、郊外に遠出して
名所や花木を楽しむ行楽が流行します。こうした植木産地では、たとえば染井のツ
ツジなど季節ごとに園地を開放したり、巣鴨での菊の形造りや菊人形など見せ物的
な演出によって、行楽の人々を集めてにぎわいました。
同時に、園芸趣味が大名から下級武士・庶民へと広がり、狭い長屋の軒先にもア
サガオやキクなどの鉢が並んだのです。
<太陽とともにくらす>
江戸のくらしは、太陽とともにあります。当時の時間の決め方は「不定時法」と
いって、日の出が明け六ツ、日の入りが暮れ六ツであり、その間を6等分して1刻
としていました。つまり、昼間の1刻の長さは、夏は長く、冬は短いというように
、季節によって変わるわけです。
日が昇れば起きて働き、日が暮れれば帰って寝るという自然のリズムそのままの
生活が当たり前でした。現代から見れば不便なようですが、太陽の位置で誰にでも
時刻がわかり、太陽が時計の代わりだったのです。
太陽、緑、花、いきもの、これらはみな江戸の都市生活の重要な構成要素でした
。そして、そこから江戸独特の都市文化が創られてきたのです。
<下水道のない衛生都市>
近代化以前の当時の欧米の都市は、どこも衛生面で苦労していました。下水道が
ないため、道路や川など町中が汚物であふれていたからです。世界で最初に下水道
が造られたパリでも、その下水道はセーヌ川に垂れ流すだけのものでした。
その頃、江戸では近郊の農民が江戸の人々の屎尿を争って求めていました。野菜
の栽培のための貴重な肥料となるからです。長屋には共同の便所がありましたが、
屎尿は大家の所有となり、大家が農家に売っていました。その代金が家賃よりも高
収入だったというから驚きです。
このように、江戸をはじめ、日本や中国の都市では、屎尿を土に返して農業生産
に役立てていたため、下水道はなくても衛生的な都市が成立していたのです。人工
的に処理するのではなく、物質循環という大きな自然のしくみの中に都市活動が位
置づけられていたのです。
<華麗なるエコロジカル・シティ>
今日、持続可能(サステイナブル)な社会をつくろうとする模索が始まりました
。江戸期は200年余りにわたり鎖国をしていましたので、その間はほとんど自給
自足のサステイナブルな社会を築いています。
この江戸期も初期の50年間には各地で城下町の建設や新田開発など、盛んな開
発がなされました。しかし、開発すればするほど大雨で土砂が流出したりして土地
が荒れるので、山川掟(さんせんおきて)というものを出して開発を規制しました
。こうして造られた国土に当時暮らしていた人口は約3,000万人で、現在の4
分の1です。江戸期は、人間が近代技術を用いずに、自然の法則の中で環境と共生
しながら持続できる社会をつくるための壮大な実験期間であったともいえます。
さて、当時よりすぐれた科学技術を持つ私たちには、果たして持続可能な社会が
つくれるのでしょうか? 地球上の資源は有限なのです。
「温故知新」−古きをたずねて新しきを知る−ということわざがありますが、こ
れからは「温故共生」−華麗なるエコロジカル・シティだった江戸の人々の技術や
生活・自然観から自然との共生のしくみを学び、これからのまちづくりに生かす−
ということを忘れてはならないと思います。
(環境計画研究部 澤木昌典)
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Copyright(C) 1995, Museum of Nature and Human Activities, Hyogo
Revised 1995/12/18