まえに戻る  目次へ    

ひととしぜん



ムラサキ


 川西市一庫(ひとくら)から国崎、黒川、豊能町吉川に広がる里山はその歴史性、自然性、文化性、さらに現在も一庫炭(池田炭)が生産されていることから日本一の里山とよばれている。 5年ほど前になるが、この里山の一角で堺市在住の麻生 泉さんは、私達が増殖の機会を狙っていたムラサキを一株発見した。
 ムラサキはムラサキ科に属する草丈30cm程度の草原生の草本植物である。花は白くて小さくあまり目立たず、全体としても印象の薄い植物ではあるが、その根がすばらしい。根にはシコニンという紫色の染料を含み、古来より紫の染料として利用されてきたたいへん有用な植物である。滋賀県の蒲生野で詠まれた万葉集の「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」(額田王)、「紫草のにほえる妹を憎くあらば人妻故に我恋ひめやも」(大海人皇子)の紫はまさにこのムラサキである。ムラサキは染料に使用されるぐらいであるから、かつては大量に生育していたと考えられるが、現在では非常に少なくなり、国のレッドデータブックではIB類に、兵庫県のレッドデータブックではAランクに位置づけられ、絶滅の恐れがたいへん大きいとされている。また、近年兵庫県では確認されていない。
 一株しかないということで麻生さんは採取すべきか残すべきか随分悩んだそうである。持ち帰って栽培するにしても枯死する危険性があるので、やはり現地に残すべきだとやさしい彼は判断したのだが、何日か後に再び訪れてみると、シカに食べられて消滅していたそうである。
 一庫の里山の大半はクヌギ林、コナラ林、アカマツ林などの樹林である。草原としてはクズの密生した群落はあるが、ムラサキの生育できるようなススキ、チガヤ、シバなどの群落は現在まったくみられない。なぜこのような所にムラサキは残存していたのであろうか。
 延宝7年(1679年)の徳川幕府による一庫村の検地帳をみると、当村にはクヌギ林の83haと共に、47haの草原が記録されている。このような47haにも及ぶ大草原は刈敷肥料、牛馬の飼料、屋根ふき材の採取のために育成されたものであり、一庫だけでなく周辺の各村にも草原が分布していたことが記録されている。草原は各地に普通に分布していたようである。その後、干鰯、油粕などの肥料の変化によって草原の面積は減少したが、小規模の草原は近年まで続き、その草原に生育していたムラサキが、かろうじて林縁に残存していたと考えられる。

ムラサキの花

 兵庫県産のムラサキを増殖させて県内の草原に移植するという種多様性復元の夢は消えてしまったが、古文書によりムラサキの残った理由が明らかになったのはたいへん興味深い。現在、私達は滋賀県在住の村瀬さんより贈られたムラサキを栽培し、美しい万葉時代の紫染めの準備を進めている。このムラサキは蒲生野産に違いない。

(自然・環境再生研究部長 服部 保)



まえに戻る  目次へ    


Copyright(C) 1999, Museum of Nature and Human Activities, Hyogo
Revised 2004/1/20