館長 岩槻邦男 |
---|
自
然環境という言葉はいろいろに解釈される。もし、「自然」の反対語が「人為・人工」であるという現在風解釈を厳密に適用すれば、兵庫県には人為の加わらない場所などないのだから、兵庫に自然はない、という言い方が成立する。しかし、常識的には、辞書などの定義に関わらず、人為・人工の影響を受けたところでも、緑豊かな場所を自然の状態にあると考える。そう考えれば、兵庫にも自然は結構豊かである。 人 為・人工の影響が比較的希薄で、緑豊かな場所があれば、現代人はそこを自然度が高い場所であると解釈する。そのような「自然環境」を保全しようとする。環境保全という表現は、今ではこのような共通理解を得ている。 都 会には自然がない、と嘆く人が結構多い。しかし、上のような自然観をもつと、都会にも自然の要素は少なくない。家のまわりに雑草が生えてきたら、いそいそと草抜きをしながら、都会には自然がないと嘆いていたのはあなた自身ではなかったか。雑草は人の営為にともなって発達してきた植物たちではあるが、栽培されたものではなくて、野生の息吹を備えている。野性は自然の現れである。 一 方、田園地帯にも原始自然の姿など残ってはいない。もともと田園そのものが、日本列島で農耕を始めたお先祖たちが、鬱蒼と茂っていた森林を伐開し、単作農地に転換し、資源の生産性を高めるために自然破壊を行なったその破壊の結果を慎重に維持してきた姿である。人為・人工の所産を人為・人工によって維持している姿だから、自然に反する実体だけれども、この人為・人工の場を、里山、里地の自然を護ろうといって保全に取り組もうとしているのである。 里 山の自然を護ろう、という標語が当然のように受け入れられるようになって久しい。しかし、言葉をすなおに解釈すれば、この表現は論理的には間違いである。里山は、自然に営為を及ぼして自然破壊を行ない、その残滓を人為的に維持してきた場所である。里山に(原始)自然などひとかけらも残ってはいない。それにもかかわらず、その人為の結末を、自然であるから護ろうという。そのこころは何なのだろう。 自 然の反対概念が人為・人工であるという共通の解釈が成り立つようになったのは、人為・人工の技法が飛躍的に発達し、いわゆる科学技術が自然に与える圧迫が極端に強くなってからである。自然度の高い環境は、機械器具の適用によって一挙に変貌させられた。それまで、わずかに残っていると見られていた自然の要素が、簡単にコンクリートで固められてしまうことになった。自然の要素の一切が圧殺されてしまったのである。 人 類のすべての個体が、ということは地球上のすべての人が、たとえば環境問題に直面するとはどういうことか。情緒的に絶滅危惧種が出ては困ると言っているだけでなく、この問題の科学的意味は何かを知ることが、問題解決の第一歩である。しかし、それは世界中の人が大学で科学の課題の学習をすることだと短絡する話ではない。必要なのは、すべての人が、事実をより正確に知り、科学的思考法に基づいて自分の行動を判断することである。すべてが理想でも、より多くの人が、ということがここでは眼目である。 田 園地帯では、原始自然の姿は破壊され尽くしても、緑豊かな「擬似」自然が安定した状態で維持されてきた。文明の極端な発達にともなって、しかしながら、2千年以上も続いたその状況に変化が生じることになった。科学技術の進歩にうながされた人為・人工の営為によって、安定していた擬似自然が人工物で覆われ尽くそうとしていることが、ある種の危機感を煽ることとなった。その典型的な指標が、絶滅危惧種が相次いで認識されることで明示され、生物多様性に危機が迫っていると理解された。 生 物多様性の危機といっても、原始自然の生物多様性はすでに大きく変貌してしまっている。人が育てた擬似自然を、今では自然の姿に置き換えて郷愁の対象にする。その現実は直視しなければならない。事実に基づいた上で、快適な人間環境の維持の為に、擬似自然である里山を保全しようというのだったら、これは望ましい表現であるといえる。 2 千年の間維持されてきた里山という人工の姿も、今絶滅の危機に瀕している。そこに生きていた生物たちが生存できなくなるのも当然である。私たちが今絶滅危惧種とみなしている生き物たちのうちには、人為の影響を受けた場所だけで生存を維持してきたものも少なくない。 兵 庫県には、そのような意味での貴重な環境が残されている。しかし、どの環境が貴重なものであり、どこが人間生活にとって望ましくないものか、感覚だけで判断が可能だろうか。 そ ういう視点に立って整理をしたら、兵庫の自然の現状はどうなっているだろうか。絶滅危惧種の消長を観察することによって、今兵庫の人間環境に何が生じつつあるかを知ることができる。その現実はどのようなものか。また、現在を知るだけでなく、未来へ向けて、絶滅が危惧される生き物たちの動向をモニターし、よりよい姿での私たちの環境の確保を求めるべきである。 そ のための科学的指標を、ひとはくは提供しようとしている。ちょっと残念なことは、その行動が県民にそのまま理解されているとは期待できないことである。ひとはくには、科学的に予見できる資料の読み方を、県民に普及啓発する努力が期待される。ひとはくが企画する展示やセミナー、キャラバンなどのイベントには、常にそのような願いが込められている。人々とのコミュニケーションの推進によって、美しい兵庫を私たちの手で作り上げるという意図をはっきり示し、実現したいものである (館長 岩槻邦男) |
Copyright(C) 1999, Museum of Nature and Human Activities, Hyogo
Revised 2004/1/20