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1992年夏、お荷物大学院生の私に、変動地形を専攻する先生から夢のような話が舞い込みました。
「エチオピアで古人類の研究を進めている諏訪先生が火山灰層序を研究している
院生を探しているが、君ではどうか」というのです。
アフリカの大地が目に浮かんだ私は、ぜひ行きたいと即座に答えていました。
東大に赴任してすぐの諏訪さんは、私より6歳年上で兄貴のような存在でした。
UCLAの大学院で十数年エチオピアの古人類研究を続け、独立後に調査地に選んだのが、
エチオピア南西部のコンソ遺跡でした。
この遺跡は、1991年にホモ・エレクトスの下顎化石が発見され、豊富な石器とともに、初期人類の
進化過程を明らかにできる世界有数の遺跡といわれていました。運良く人と自然の博物館に就職できた
私は、地質調査班の一員として、1995年からこの遺跡の調査に参加するようになりました。
コンソ遺跡の野外調査は、休みなく1ヶ月以上に及びました。日中の気温35〜40℃のなか、
えんえんと丘陵地を歩き回り、地質調査を続けます。1年目は水あたりを起こし、10キロ以上も体重が減りました。
3年目には金泥棒と間違えられ、身の丈より長いヤリを持った現地人に取り囲まれました。付き人の説得で警察が呼ばれ、
私は逮捕されて警察所へ連行されました。その後無事に解放されたのですが、警察が来なければ、私の人生もそこで
終わっていたようです。1997年までの調査では、ボイセイ猿人(アウストラロピテクス・ボイセイ)の完全な頭骨化石が
発見されました。私たち地質調査班は、化石が発見された地層の特徴を詳しく調べ、挟まれる火山灰を採取して放射年代を測定し、
この化石の年代が約142万年前で、湖に接する小さな扇状地に猿人が暮らしていたことを明らかにしました。この報告がNature誌に
掲載されたとき、喜びよりも抜擢された責任をなんとか果たせたなと、一息ついたものです。その後現在まで、コンソ遺跡の調査は続いています。
2003年には、古人類学の世界で大発見が相次ぎました。チャドで発見された600〜700万年前の古人類化石に続いて、
エチオピア北部のヘルトー遺跡で、最古のホモ・サピエンスの化石(ヘルトー人)が報告され、現代人のアフリカ起源説が裏づけられました。
古人類学では、化石や石器を年代順に整理して古人類の進化を考えるため、年代決定が重要な鍵となります。
ヘルトー人の場合は、化石を含む地層の直下の火山灰から約16万年前の放射年代が得られましたが、上位の火山灰からは放
射年代が得られませんでした。しかし、巨大噴火で放出された火山灰は、火山から千km以上も離れた所で発見される例があります。
そこで上位の火山灰をヘルトー遺跡以外の地で見つけ出し、年代を決定することになりました。2000年〜2001年にはエチオピア北東沖、
アデン湾の深海底調査に参加し、深海底の堆積物中にこの火山灰を探りました。ところが、予想された層準に火山灰を発見できず、
年代決定は暗礁にのりあげました。
一方コンソ遺跡では、古人類化石が産出する地層に限らず遺跡全体の地層を調査しており、すでに約30万年前以降に堆積した数枚の
火山灰を発見していました。この中にヘルトー遺跡の上位の火山灰があるはずだと考え、火山灰から火山ガラスを分離して
化学分析を試みました。その結果、微量成分を分析したハート教授から、上位の火山灰と一致することが伝えられました。
私の予想が的中し、年代決定に光明がさしたのです。けっきょく、コンソ遺跡でこの火山灰のすぐ上の火山灰から15.4万年前の
放射年代が測定され、ヘルトー人の正確な年代(15.4〜16万年前)が決まりました。なかば趣味的に新しい時代の地層を調べていた
私には、ヘルトー人の年代決定に貢献できたことは、瓢箪から駒のような出来事でした。
今ふり返ると、つらくも楽しい野外調査と忍耐のいる単調な分析作業を、十年近くも繰り返してきました。目先の成果に追われて
自転車操業が続く今の博物館では、発見から報告まで5年以上かかる研究は、続けることができなかったでしょう。こうした研究を
理解し海外に送り出して頂いた歴代の館長さん、留守を預かる研究部の同僚、くじけそうになる自分を常に励ましてくれた諏訪さん、
そして、エチオピア、アメリカ、日本の共同研究者。私の科学する喜びはこれら多くの人たちに支えられているのだと、
エチオピアの乾いた大地に立つたびに強く感じます。
(自然・環境評価研究部 加藤茂弘)
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Copyright(C) 1999, Museum of Nature and Human Activities, Hyogo
Revised 2003/11/14