館長 岩槻邦男 |
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野
外教室で子供たちと接する機会があると、林の中で唐突に姿を見せる鳥や蛙、それに艶やかな花など、ダイナミックな生き物の姿に接する瞬間、彼らの目の色の変わるのを経験する。教室内で小学生などに科学の話をする時でも、話に乗ってとっぴょうしもない質問を投げかけられることが珍しくない。そんな子供たちが、一般的傾向としては、理科離れをするというのはどういうことだろう。 欧 米の植物学者に、なぜ植物学を選んだのかとたずねると、子供の頃、お母さんやお姉さん、伯母さんなどに連れられてピクニックに行った時、野に咲く花や草の美しさや不思議さを教えられ、感動したのがきっかけだったと答える人が圧倒的に多い。一方、医学者などで、早めに退職して後植物学の研究に勤しむ人が結構多いが、そのような人たちにたずねると、植物学に関心があったが、生物学者では食べていけないと思って医者(だとかその他の職種)を選んだものの、自分の生活のための義務は終わったのであとは好きな研究で過ごしたい、という返事が返ってくる。 人 には生き物として生きる日常の生活がある。しかし、人は生き物として生活するだけでなく、それにプラスして科学や芸術などの知的活動を営む。さらにいえば、技術を極端に高めた人の活動を制御することができるのは、正しい科学的判断だけである。その科学(自然科学だけでなく、人文・社会科学も含めて)は人間の専有物である。 子 供が理科から離れるようになった原因について、理科系の卒業者は厳しい仕事を強いられながら最後はトップの地位を文系の人に譲ることになるから、とか、大学入試の科目が減った結果、難しい数学、理科がないか、少数の科目で受験できる大学を選ぶようになった、などと説明されることがある。少しずつは当っているかもしれないが、それよりも偏差値の高い大学に入学して、よいといわれる就職口を確保することが人生の目的になっているという大多数の日本人の生き方が、大多数の日本の子供たちの理科離れを促していることを見過ごしてはならない。 20 世紀の人間社会に見られた飛躍的な進歩は、物質・エネルギーの側面からは確かに豊かさをもたらした。しかし、21世紀に持ち越した問題のうちには、環境問題とか南北問題とか、日々深刻さを加えている課題があることもまた否定できないことである。この課題は、また、一部の指導者や科学者や企業のリーダーたちがしっかりしていたら解決できるという問題ではなく、人類を構成するすべての個体の意識革命がないと解決できない問題であるという認識も、今では共通の理解を得ていると思われる。2002年のヨハネスブルグサミットで、地球の持続性が最重要課題としてあげられたのも、その共通理解に基づいている。 人 類のすべての個体が、ということは地球上のすべての人が、たとえば環境問題に直面するとはどういうことか。情緒的に絶滅危惧種が出ては困ると言っているだけでなく、この問題の科学的意味は何かを知ることが、問題解決の第一歩である。しかし、それは世界中の人が大学で科学の課題の学習をすることだと短絡する話ではない。必要なのは、すべての人が、事実をより正確に知り、科学的思考法に基づいて自分の行動を判断することである。すべてが理想でも、より多くの人が、ということがここでは眼目である。 21 世紀の世界は、理科離れで解決できない問題を山積している。しかし、実際には理科離れと言われる現象の実態を、もう少し詳しく見つめる必要があるのではないか。大学へ入ってきた学生に数学の補習をしなければならない、と言って嘆く声が喧しい。数学の学力低下をもたらしたのは、子供の理科離れだったか?冒頭に記したように、私が接触する子供たちは、(日本の子供の総数からいうとごくごく一部だし、それも自然観察会に加わってみようという今では特殊といわれる子供たちかもしれないが、)不思議に接して驚く感受性を失ってはいない。その子供たちが、偏差値を高めようと受験のためのゲーム(それを勉強と呼ぶこと自体が間違っている!)に専念するようになると、自然の不思議に感動する機会を失ってしまい、数学のできない学生に育ってしまう。いつの間にか、お金だけが人生の目的であるような生き方を求めるようになり、目前の己の享楽のために地球環境に圧迫を加えて恥じなくなってしまう。 悪 循環を解く鍵はひとつだけ、人が人間らしくなることである。子供が不思議に感動する姿に戻ることである。サンテグジュベリは、『星の王子様』を親友のレオンウェルトに献呈し、「おとなは、だれも、はじめは子供だった。(しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない。)」(内藤濯訳)と記している。自然の生業に接するのは、必ずしも森林に入る時だけではない。私たちの身の回りには、私たちと生を共有する動植物がわんさと生きている。都会の生き物たちは、人の社会の変遷(歴史)にかかわりすぎたかもしれない。しかし、彼らは人の営為のもとであっても、彼らなりの生きざまを見せてくれる。都会のコンクリートジャングルの中にさえ、逞しく生きる生き物たちの姿を見る。素直に観察さえすれば、さまざまな知的な関心と、美的な感動を得ることができる材料である。子供を、子供であることさえ忘れるような生活に追い込むことは恐ろしい。 科 学するよろこびは(科学という用語を自然科学に限定したとしても)理科という教科の学習に閉じられたものではない。むしろ、教科は教科として学習するとして、それ以上に空想の世界に天駆けることである。そして、その先には科学的思考の構築という楽しい知的世界が待ち受けている。まさに人だけが得ることのできる幸せである。 私 は子供の頃からだが強くはなかった。そんな私を、母はしばしば野山に連れ出してくれた。春の一日、小川の堤で摘むツクシは、坊主と袴をとって甘辛く煮、食膳に載せられた。ザル一杯に集めたツクシが小皿一枚に載せられるのを見て、電信柱のようなツクシがあればいいが、などと子供心に思ったことがあった。それから20年ほど経って、大学の植物の系統の講義で、私が一番感動したのは、中生代にはツクシの祖先は電信柱のような姿だったことを知った時だった。植物学の講義を子供の夢と同次元で聞くのは邪道だろうか。私は、自分が講義をする際、科学的思考法の構築の基盤を提供することを一貫して期待していたが、同時に、取り上げる具体的事実を紹介しながら、聞く人になんらかの感動を与えることができるなら最高であると期待もしていた。 科 学するよろこびは、子供のこころにも老人のこころにも、人間らしい感動をもたらすものであり、一方、科学に培われた論理的思考法を万人が共有することが、環境問題をはじめ、人類が直面する諸問題を解決する唯一の技法なのであることを理解したい。そして、科学するよろこびを広く人のこころに呼び覚ますことに夢をもち続けたい。 (館長 岩槻邦男) |
Copyright(C) 1999, Museum of Nature and Human Activities, Hyogo
Revised 2003/11/14