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ユニバーサル・ミュージアムをめざして20

 

霊長類学者がユニバーサルな事を考える理由−3

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)

 

 

 

OldFemaleGorilla02.JPGゴリラのおばあさん。本当はまだ「おばあさん」というほどの歳ではありませんが、コドモが集団から独立したようなので、「おばあさん」と呼んでいました。コンゴ共和国のンドキの森で撮影

 

 

 最後に、「高齢者が活きるユニバーサルな社会」の可能性について考えましょう。霊長類学の仮説に「おばあさん仮説」があります。「おばあさん(=お祖母さん)仮説」とは、「ヒトの女性が子どもを産まなくなった後も長く生きて、家族の一員としてとどまり続けるのはなぜだろう」という疑問に対する仮説です。「仮説」ですから仮の答えです。本当かどうかはわかりません。

 

 年をまたいで何度もコドモを産む動物にも、「おばあさん」に当たるメスはいます。しかし、ヒトの「おばあさん」と同じではありません。「おばあさん」になってからも長く生きる動物はヒトだけです。地域によって違いますが、日本では、平均すれば女性の寿命は80歳を優に超えます。子どもを産まなくなるのは50代の事が多いので、ヒトは30年以上も「おばあさん」を続けるのです。なぜヒトにだけ「おばあさん」がいるのでしょう?

 

 ヒトはもともと、2世代、3世代がいっしょに暮らすのが普通でした。夫婦と子どもだけしかいない核家族というのは、ごく最近になって生まれた習慣です。そんな家族では、「おばあさん」の助けがなければ娘の子育てがうまくいかないのです。たまたま娘だけでもうまく育つこともあるのですが、「『おばあさん』のいない娘の子育ては、うまくいかないことが多かった」といった意味です。別の言い方をすれば、「おばあさん」がいなければ、「同じ数を産んだとしても、おばあさんと協力した場合に比べて娘だけで育てた子どもの数は、誰が見ても少ない」という事になります。

 

 つまり、ヒトが次世代を残すためには、「おばあさん」が不可欠だということになります。ヒトの進化史から考えても「おばあさん」は大切な存在だったのです。おろそかにしてよいはずはありません。

 

 では、「おじいさん(=お祖父さん)仮説」は存在しないのでしょうか?

 

 これは存在しません。「おばあさん仮説」はあるのに、「おじいさん仮説」がないなんて、不思議な気がします。なぜでしょうか?

 

 それは「父親」という存在が文化的に作り出された約束であり、制度だからです。ほ乳類でいえば、「おばあさん仮説」の基になっている「母親」はあるコドモ(や子ども)を産み、育てたのですから、誰も「母親」であることは疑いようがありません。それに比べて、ヒトを含むほ乳類は父親がはっきりしません。前にも書きましたが、「父親」候補はたくさんいるのです。「誰が父親だ」とは決められません。ゴリラの集団は一頭のオスしかいない事が多いので、つい、そのオスを「お父さん」だと思ってしまいます。でも本当は、そのオスとコドモの遺伝子を調べてみないとわからないのです。「一頭のオス」だと思っていても、森には多くの若いオスが隠れているものです。

 

 そもそもニホンジカのオスはメスのものと訪れて、コドモの顔を見ないままで去って行く存在でした。「父親」や「おじいさん」とは、家族があって、はじめて生まれるイメージです。だから、生物学的な「おじいさん仮説」は存在しないのです。けれども、現に人間には「お父さん」がいます。これが「(生物学的にではなく)文化的に決められた制度」だという意味です。

 

 ゴリラの研究で有名な山極寿一さんは『家族の起源 父性の誕生』という本の中で「父親」について考えています。山極さんによれば、「父親に由来する親族の構造は、構成員の不断の努力によって守らねばならなかった」ものであり、「社会的規範は文化的存在である男の弱い立場を守るために作られた」ものだという事です (1)

 

 この本は1994年に出版されたものなので、お考えが少し変わっているかもしれません。その上、ことばが難しくて、とっつきにくい気がします。この文章をわたしなりに解釈(かいしゃく)してみます。

 

 「お父さん」や「(お父さんがいる事によって作られた)家族」は、人間なら誰でも、なくてはならないものだと知っています。しかし、生物学的ではない「お父さん」という存在は、放っておけば消えてしまうでしょう。「お父さん」が消えるとしたら大変です。「(お父さんがいる事によって作られた)家族」までが消えてしまいます。そこでお母さんや子どもたちが、「この人がお父さんだ」と父親の存在を認めたのです。これは約束です。それはやがて「父親」という確かな制度になりました。これが人間――文化的背景があるので、生物学的なヒトではありません――にとっての父親の起源です。

 

 チンパンジーのメスは、栄養がよければ高齢になってもコドモを産み続けます (2)。しかし、ヒトは違います。栄養がよくても、一定の年齢になれば子どもを産む事はやめて、孫をかわいがるのです。そして何万年か、何十万年か前には、より良く生活するための方策であった「お父さん」や「家族」という社会の仕組みが、「結婚」や「家庭」といった制度にまでなりました。そして「確かな制度」は文化的な事実となりました。今日的(こんにち・てき)に言うと、赤ん坊に始まり、おばあさんにいたる女性のライフ・ステージを男性にも当てはめ、男女を問わず、すべてのライフ・ステージに生きる人びとの価値を見つけたということです。それが霊長類学を通して示されたのだと思います。

 

☆   ☆

 

 霊長類学でヒトの実像を考えるなら、「家族」や「父親」といった文化的なことも考えなければなりません。霊長類学は自然科学ですが、おのずと文化的多様性というものも考えなければ、ヒトの社会とか行動とかいった現象がわからないのです。この事を通して、霊長類学者は多様なヒトの価値(という、今はまだ実現していない理想)を知ってしまったのだと言えるのです。すべてのヒト(そして人)が活きる社会は、理想的なユニバーサル社会です。そのユニバーサル社会の理想は、女性や男性の事ばかりでなく、その他のさまざまなヒト(そして人)のあり方、生き方に広げていくべきだと思います。

 

 山極寿一さんは、別の『オトコの進化論 ―男らしさの起源を求めて』という本の中で次のように書いています (3)。少し長くなりますが、この文章と同じテーマなので引用してみます。

 

「現代の要請は、多様な人びとと多様な価値を認められる社会をつくるということである。これはなかなかむずかしい。今まで人間は半ば閉じこめられた共同体の中で、顔見知りの仲間と固有の価値観を共有して生きてきたからである。異質な人間を受け入れる事にも、別の価値を認める事にも慣れていない。」

 

 山極さんはこの文章に続けて

 

「そのような閉鎖的な社会は、人間の歴史からすればつい最近つくられたのである。過去の人類は熱帯林やサバンナで、多様な動物たちと共存して暮らしていた。何万年、何十万年という長い間、異種の人間が同じ場所で共存していたことも明らかになっている。人類に近縁なゴリラとチンパンジーは、アフリカの熱帯林で今でも同じ場所に共存して暮らしている。現代人はすべてホモ・サピエンスという同一種に分類される。身体能力も同じでコミュニケーションも可能な人間が共存できないはずはないのである。」

 

と述べています。ここは、わたしと山極さんの意見が分かれる所です。どこが分かれるのかというと、わざわざ「他種との共存」を持ち出さなくても、ヒト(そして人)にはさまざまな遺伝的多様性があり、さまざまな文化的多様性があるのです。そのよい例は、社会が「障がい者」と呼ぶ人びとに見つかります。「障がい者」は多数者(=定型発達者、健常者、健聴者、晴眼者などなど)とは「異なる文化」に生きているのです。その人びとの価値を偏見なく認めることが、ユニバーサルな社会を創るために、まず必要な事だと思います。

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(1) 山極寿一(1994『家族の起源 父性の誕生』(東京大学出版会)の175ページにあります。山極さんは2012年に、同じく東京大学出版会から『家族進化論』(http://www.utp.or.jp/bd/978-4-13-063332-1.html)という本を出しておられます。こちらは、今、読んでいるところです。

 

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(2) 2011年1月2日付けの YOMIURI online によれば、ギニアの村近くに住む54歳のお祖母さんチンパンジーは、3歳の孫を背負う姿が見られたそうです。チンパンジーの54歳は、ヒトでは70歳に当たるそうです。京都大学霊長類研究所の松沢哲郎さんの提供したニュースでした。

 

(3) 山極寿一(2003)『オトコの進化論 ―男らしさの起源を求めて』(ちくま新書 424)(http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480061249/)の228ページから230ページにあります。

 

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)

兵庫県立大学 自然・環境科学研究所

/人と自然の博物館

 

 

ユニバーサル・ミュージアムをめざして19

 

霊長類学者がユニバーサルな事を考える理由−2

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)

 

 

 

Humphrey_1998.JPG 

左は3万年前の洞窟壁画、右は3歳の自閉症の女の子が描いたウマの絵。左がウマを写実的にとらえていることは有名だが、右の絵もたいへん写実的で、生き生きとウマの姿をとらえています。  Nicholas Humphrey (1998). Cave Art, Autism, and the Evolution of the Human Mind. Cambridge Archaeological Journal, 8, pp 165-191.  doi:10.1017/S0959774300001827

 

 

 霊長類学(れいちょう・るい・がく)が描くヒトの姿と、現実の社会的な人間の姿は、ずいぶん違うことがあります。発達障害者の精神活動もそのひとつです。

 

 霊長類学では、ヒトは狩猟採集(しゅりょう・さいしゅう)生活につごうが良いように進化したと考えます。たとえばヒトのからだは霊長類としてはきょくたんに毛が少なかったり、大量の汗をかいたりしますが、これはサバンナで獲物(えもの)を追う時、暑い中で体温調節をするためにそうしているのだと考えています。またお尻に脂肪を蓄(たくわ)えたり、ほ乳類の中でも太りやすかったりしますが、これも獲物が捕れない時の飢餓(きが)にそなえての事だと思います。狩猟生活では、いつも獲物(えもの)が捕れるとはかぎりません。そんな時は木の実や貝の採集で食物を得るのですが、それでも狩猟生活はヒトの進化に大きな影響を与えたのです。

 

 そのような大昔の狩猟採集生活を想像させる痕跡が洞窟壁画(どうくつ・へきが)です。洞窟壁画はスペインのアルタミラやフランスのラスコーのものが有名です。氷河時代に描かれたものだそうです。そのような壁画は、「霊魂(れいこん)の意志」を伝える(と信じられていた)シャーマンが描いたものだと考えられています。進化心理学の立ち場からヒトのよって立つ位置を考えた人として有名なニコラス・ハンフリー(Nicholas Humphrey)は、そのような大昔の洞窟壁画が現代の幼い少女の絵にそっくりな事を知って、本当におどろいたそうです。少女は自閉症だったのです (1)

 

 大昔のシャーマンは自閉症、つまり発達障害だったのかもしれない。自閉症者だから、おおぜいの人がざわざわしていると緊張して思った事が言えなくなるのだが、普通の人には思いもつかない「霊魂(れいこん)の意志」を翻訳できる(と自分でも信じている)。それを落ち着いた場所で誰か仲介者に話して、人びとに伝えてもらったのかもしれない。

 

 ハンフリーが見た幼い少女は、ことばの出ない3歳の子どもでした。でも、その子の描いた絵は「3歳の子どもの絵」には見えませんでした。わたしたちの周りの「3歳の子どもの絵」と較べてみて下さい。その絵には、走り、跳ねるウマが描かれています。3歳の子どもの絵によくある、横から見たウマの絵だけが描いてあるわけではありません。自閉症児とか発達障害児と呼ばれる子どもには、普通の子どもにはない、すばらしい才能があることがよくわかります。ハンフリーは、それを大昔のシャーマンの能力と較べてみたのでした。ただ、この3歳の女の子は、そのすばらしい絵を描いたあと少しずつことばを身に付け、普通の子どもに近づいていったそうです。

 

☆   ☆

 

 現代に生きる狩猟採集民も、発達障害のひとつ、ADHD(注意欠陥/多動性障害)の遺伝子を持つ人が有利なのではないかと疑った人がいます (2)。毒ヘビや大型の肉食獣の危険は、いつ降りかかってくるかわからない。襲われた時にはすばやく身をかわさなければならない。その一方で獲物が見つかったら、根気よく追跡し続ける事も必要です。追跡し続ける事はけっして辛い事ではなくて、楽しくてしかたがないことなのです。このような狩猟のイロハは、ADHDに有利だと言うのです。

 

 現代のわたしたちはどうなのでしょうか? 現代人は狩猟採集民のようなキャンプ生活ではなく、定住生活が大勢(たいせい)を占めています。そもそも、現在ではピグミーやブッシュマンも小学校に行き、字や算数を習っているのです。今は、昔のような狩猟採集生活は少なくなりました。

 

 現代生活の基本は農耕だと思います。農耕には定住が必要です。芋は種芋を植えるだけではなく、芋が育つ雨と時間が必要です。その農耕をいつも変わりなく行うためには、どこまで木を伐(き)って畑にするかといった計画性も大切です。農耕には、狩猟採集とは異質の才能が必要なのです。そして、狩猟採集時代には重宝した(だろう)自閉症やADHDの人に秘められた力は、「発達障害」という枠(わく)でくくる医療行為の対象になってしまいました。でも、狩猟採集生活をほとんど止めてしまった現在でも、ヒトに体毛が少ないとか、太りやすいとかいった性質が残っているように、「発達障害」の才能を持った人は今でもたくさんいるのです。

 

 臨床精神科医の杉山登志郎さんは、『発達障害のいま』という本 (3) の中で、「発達障害」と呼ぶのは、もう止めようと言っています。現在では発達障がいの事を「自閉症スペクトラム障害」と呼びます。その意味は、誰のこころにも大なり小なり自閉症の傾向はあるもので、スペクトルのように普通の人と自閉症者はつながった存在だからです。「発達障害」という言い方は、なにか特別な人がいるように聞こえます。その上「障害」と言ってしまうと、その人はまるで「社会の害」になっているみたいではありませんか。そこで「発達障害」に代わって「発達凸凹(でこぼこ)」と呼ぼうと提案したのです。才能のでこぼこは誰にでもあるものだからです。

 

 同じく臨床精神科医の青木省三さんは、『ぼくらの中の発達障害』という本 (4) の中で、やはり自閉症スペクトラム障害という考え方を支持し、世の中には、(健常者ならぬ)定型発達者と発達障害者がいるという考えを勧めています。青木さんも杉山さんと同じく、何とか「発達障害者」で表される「特別の人」という誤解を解きたいと思ったのです。

 

 しかし、そうは言っても「発達障害者」は現実に存在します。一般の人と「発達凸凹(でこぼこ)」のある人、あるいは、定型発達者と発達障害者という類型化にも、何かの意味があるに違いありません。「類型化」とは連続したものの一部に名前を与える事です。いったいどういうことでしょうか?

 

 青木さんは、色のスペクトルと「赤」とか「青」とかの色のとらえ方を例にあげて説明しています。つまり、ある波長の色を「赤」ととらえるか「オレンジ」ととらえるか、「青」ととらえるか「緑」ととらえるかは、文化によって変わるのです。必ずしも波長の長さ・短さによるのではありません。経験によって変わる主観的な現象です。

 

 わたしは、なるほどと思い、うなずきました。人(あるいはヒト)の発達のようすは連続的なものでありつつ、同時に個別のものでもあるのです。青木さんは、「発達障害を持つ人は、定型発達の人とは、異なった物の見方や考え方や振る舞い方をする人、即(すなわ)ち異なった文化を生きる人」だととらえ、「異なった文化に敬意を払い、対等な一つの文化として理解しようとする姿勢」が、共に同じ社会で生きていく時には大事なのだと語っています。

 

☆   ☆

 

 このように臨床精神科医は自閉症スペクトラム障害という考え方で、連続しつつ個別でもあるという、例えるなら〈人種〉と同じように発達障がいをとらえているのです。しかし、教育者の考え方は硬いように感じます。医者は「個別の人」として患者をとらえているが、学校の先生は子どもをクラスの中の大勢、すなわちマスとしてとらえがちだといった意見を聞いた事があります。すべての医者が患者を「個別の人」と見なし、すべての教育者が子どもをマスと見なしているとは思いません。でも学校現場には、どうも子どもを医療に預けてしまえば、それからは、たとえ子どもが自分の前にいたとしても親身に関わろうとはしないという悪しき傾向があるように感じるのです。このことは青木さんも指摘していましたし、わたしは、それが「発達障害児の(病状の)類型化」 (5) に現れているように思ったのです。

 

 農耕という豊かで計画性に満ちた生活は、人類史のレベルでは、たかだか1万年前に始まったばかりだと言います (6)。人類史を一年間の暦(こよみ)にたとえるならば、農耕が始まったのは昨日の事か、ひょっとしたら数時間前のできごとかもしれません。農耕が始まるまでの数百万年間は、延えんと狩猟採集生活が続いたのです。「異なった物の見方や考え方や振る舞い方をする人」がいる事は当然です。だれもかれもが「定型発達の人」ばかりになったとしたら、かえって気持ちが悪いはずです。それはまるで人間像のコピーだからです。

 

 この「気持ちが悪い」という感覚が理解できるかどうかは、ひょっとして、ユニバーサルなものを創り出す動機まで左右しているのかもしれません。

 

 次に続きます。

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(1)  N. Humphrey  (1998)  Cave Art, Autism, and the Evolution of the Human Mind.  Cambridge Archaeological Journal 8:2, pp. 165-191

http://journals.cambridge.org/action/displayAbstract?fromPage=online&aid=3070628

 

(2) たとえば、T Hartmann, P Michael (1997)  Attention deficit disorder: A different perception.  http://www.citeulike.org/group/266/article/430116

 

(3) 杉山登志郎 (2011) 『発達障害のいま』(講談社現代新書 2116http://www.bookclub.kodansha.co.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=2881160

 

(4) 青木省三(2012)『ぼくらの中の発達障害』(ちくまプリマー新書 189http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480688927/

 

(5) 文部科学省初等中等教育局特別支援教育課 (平成24125) 通常の学級に在籍する発達障害の可能性のある特別な教育的支援を必要とする児童生徒に関する調査結果について.

http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/tokubetu/material/__icsFiles/afieldfile/2012/12/05/1328849_01.pdf

 

(6) 浅井健博(2012) 「耕す人・農耕革命〜未来を願う心〜」pp. 221-318, NHKスペシャル取材班『ヒューマン なぜヒトは人間になれたのか』, 角川書店.

http://www.kadokawa.co.jp/book/bk_detail.php?pcd=201012000174

 

 

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)

兵庫県立大学 自然・環境科学研究所

/人と自然の博物館

 

ユニバーサル・ミュージアムをめざして18

 

霊長類学者がユニバーサルな事を考える理由−1

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)

 

 

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わたしがコンゴ共和国のオザラ国立公園で撮ったゴリラ集団の写真です。前を赤ん坊を背負った2頭のメスと1頭の若いメスが行き、いちばん後ろをオスのシルバーバックが付いて行きます。メスはエサのあるところをよく知っていて、どんどん進みます。シルバーバックは「付いて行っているのではなくて、いちばん後ろで、敵を見張っているのだ」と感想を述べた男性もいました。

 

 

 わたしが長く取り組んできた学問は「霊長類学(れいちょう・るい・がく)」と言います。「霊長類(れいちょう・るい)」というのは、サルや類人猿や化石人類、それから現生人類を含みます。今、生きているわれわれヒトも霊長類です。

 

 わたしにとって霊長類学は、「今、生きている霊長類の生き方や感じ方をくわしく調べて、ヒトの本質を探る」ものです。ただの「サルの動物学」だと勘違いしている人がいますが、霊長類学は、けっして「サルの動物学」ではありません。ややこしいことに、霊長類学を俗に「サル学」と呼んだりします。実際のところ霊長類学に「サルの動物学」の側面がないわけではないのですが、どちらかと言えば「人類学」という言い方がより正しいと思います。

 

 人と自然の博物館には、化石になったヒトの祖先の展示があります。ですから「人類学」と言えば化石を調べる古人類学(こ・じんるい・がく)を思い浮かべる人が多いでしょう。現に化石を研究している霊長類学者がいます。しかし、霊長類学者には積極的に化石を調べない人も多くいます。なぜかと言うと、霊長類学では、けっして化石になって残ることのない、大昔の(そして今、生きている)霊長類の行動や社会に本質的な興味を感じているからです。我われヒトが持っているはずの「生き方」や「感じ方」、それから「社会の進化」を探っていると言えば、もっとわかりやすいでしょうか。

 

 たとえば、大昔のアウストラロピテクスの女の子の化石が出たとしたら、わたしたち霊長類学者は「この子のコミュニケーションは、どんなふうだったのだろうか」とか、「この子は家族と、どんな関係を持っていたのだろうか」と考えます。「お父さんは、外敵から守ってくれただろうか?」とか、「ひょっとしたら、家族にお父さんはいないのが普通だったかもしれない」とかです。現に(生物としてDNAを受け渡したオスはいたのですが)、社会的には、「お父さん」という存在がいない、つまり「お父さんの可能性のあるオスが多すぎて決められない」霊長類は多いのです。

 

 もう一度書けば、わたしにとって霊長類学は〈ヒトの本質〉を探るための学問です。しかし、現代人は元来のヒトの生き方とは違った生き方をしています。定住をしていますし、都市や農村で生活する人が多くいます。このような生き方が、本当にヒト本来の生き方かと問われれば、ためらってしまうでしょう。どこまでも膨張し続けるインターネットで結ばれる人間関係や、お金の形がどこにもない(しかし、社会的な人の生活には強い影響力を持つ)電子マネーに囲まれた生活というのは、わたしたちの本当の生活なのでしょうか? それを感じてしまう心のすき間に、「狩猟採集こそ、ヒト本来の生き方だった」という思いが忍び込むと、登山や野遊びの好きな人は、思わず、うなずいてしまうでしょう。

 

 前回まで話題にしていた「女性の働き方」は、現代社会が抱える大きな問題です。そして霊長類学から見ると、女性と男性の生き方は現状とはずいぶん違ったものになります。

 

 人と自然の博物館の準備室長(≒初代館長)で霊長類学者の伊谷純一郎さんは、『霊長類の社会構造』(1)という本を、当時、奈良公園のニホンジカを調べていた川村俊蔵さんの調査(2)を基に、(霊長類ではなく)ニホンジカの生活の仕方から、メスとオスは違うのだという話から始めています――わたしが偉い先生に対して「伊谷さん」や「川村さん」と呼ぶ事に疑念を持たれた方がいるかもしれません。霊長類学の研究仲間は、どんなに偉い先生でも「○○さん」と呼ぶ習慣があります。お互いに「○○さん」と呼び合わないと、学生は先生に、後輩は先輩におかしな遠慮が出て、研究者として本当の議論ができなくなるからだと思います。ですから、わたしは敬意を込めて「伊谷さん」「川村さん」「河合さん」と呼んでいるのです。

 

 伊谷さんによれば、メスジカは自分が生まれた土地に長くとどまろうとして、一生を同じ場所で過ごすことが多いそうです。そしてオスジカには放浪ぐせがあり、交尾の季節だけメスジカよりも広い場所をテリトリー(なわばり)として守ります。オスジカのテリトリーはメスジカのテリトリーと重なっているので、メスとオスは自然に出合い、交尾が起こります。交尾が終わったらオスジカは別のメスジカを探し、一方、メスジカはコドモを生んで、自分だけで育てていくのです。これはニホンジカの話ですが、霊長類も、もともとはニホンジカと同じような社会だったと伊谷さんはおっしゃいます。

 

 わたしが鹿児島県の屋久島で調べてみると、ニホンザルの社会(3)でも、自分が生まれた土地に長くとどまるのはメスたちでした。いちばん老齢のメスを、わたしは「母家長(ぼ・かちょう)」と呼んでいました。何頭もいる集団のメスは、皆、母家長の娘や、娘の娘なのだと思います。これに対して、オスは一時的に集団にとどまるだけの存在です。かつては、ニホンザルでよく言われた「ボス」とか「リーダー」という言葉から受けるオスの印象とは、だいぶ違っていました。

 

 もっとも、ヒトの直接の仲間のゴリラやチンパンジー、ボノボのような類人猿では、ようすが変わります。類人猿は、基本的にオスに血縁がある集団を作ります。ニホンザルと違い「父系」なのです。そしてメスは「嫁に行く」ように集団を移動します。このメスが集団の間を移動する行動は、今は化石になったアウストラロピテクスや、ずっとヒトに近いネアンデルタール人でも同じだったと思います。

 

 それよりも、ヒトの直接の仲間――類人猿や化石人類を含めて、ヒトの直接の仲間をホミニッドと呼びます――は、メスとオスで作られる社会が、種によって多様であることの方が重要かもしれません。

 

 たとえば、くわしく調べられたチンパンジーの集団はオスに血縁があり、メスは血縁がないために、オスほど親密ではありません。しかし、チンパンジーによく似たボノボは、別の集団から移ってきたメスたちに血縁はありませんが、親密さはおどろくほど高いのです。さらにゴリラでは、オスにもメスにも血のつながりはないことが多いのですが、集団のメスたちは親密に接します。配偶(はいぐう)の相手を選ぶのは――特に若いオスが相手では――メスなのです。わたしはコンゴ共和国でゴリラを観察しましたが、オスはメスが選んでくれるのを黙って待っていたのでした。

 

 ニホンジカと同じように霊長類でも集団の主役はメスなのだと思います。それが基底音となっては全ての霊長類には流れているようです。ところが、ホミニッドでは「父系」で表される別の要素が加わるようになった。しかし、これまで見たようにホミニッド全体は一種類の社会というわけではありません。チンパンジーのようにオスのつながりが強い社会もあれば、ボノボやゴリラのようにメスのつながりが強い社会もあります。それなら原生のヒトはどうなのでしょうか?

 

 わたしはゴリラの社会に近かった気がします。ヒトも基本的には父系です――社会人類学者のクロード・レヴィ=ストロースがブラジルの先住民ナンビクワラ族の社会を書いた『悲しき熱帯』(4)には、その事がよく示されています――が、女性は血縁はなくても、ゴリラのメスたちと同じように他の女性と仲よく生活することができます。貝であれ、木の実であれ、女性の採集集団は、女性どうしがお喋(しゃべ)りをしながら集めたものでした。

 

 このことに加えて、ホミニッドの中でヒト(あるいは人)をきわ立たせる重要な特徴が、もうひとつあります。それは「(目の前にないものを)イメージする力(ちから)」とか「抽象的な思考能力」(5)です。「抽象的な思考能力」といっても、ここで言っているのは哲学とか数学とかいった難しい事ではなくて、子どもが憶える〈ことば〉とか、子どもの〈絵〉を描く能力の事です――〈ことば〉や〈絵〉は、本質的に抽象的なのです。この能力によって、「ヒト」は生物学的な存在から、社会的な「人」に変化します。

 

 「ヒト」が「人」になるのは、子どもの成長で言えば〈ことば〉を獲得する1歳ぐらいからだと思います。この変化は10歳を超える位まで続きます。〈わたし〉が世界から独立したものだとわかってから、〈あなた〉や〈彼ら〉も、〈わたし〉と同じように〈こころ〉を持つのだということがわかるまで、少しずつ変化するものです。それは「人」として「社会性を身につける」ことに当たります。進化では、〈ことば〉を獲得した時に「生き方」や「感じ方」が一気に組み換えられたのだと思います。その時から、ヒトはチンパンジーやゴリラや、多くの化石人類とは別の生き方を始めたのでしょう。

 

 では、基底音となっては全ての霊長類に流れている(であろう)「メス中心の社会」は、我われの社会に、割合としてどれぐらい残っているのでしょう? それは確かめられるのでしょうか?

 

 確かな事は言えません。しかし、それを確かめてみる努力をしないと、女性が不利な世の中をどのように変えればいいのか、方針も生まれないように思います。少なくとも、今、言える事は、社会を形作るのが男性の専売特許ではないという事です。女性こそが、おだやかに、そして、たゆみなく社会を動かしているのかもしれない。そうであるならば、男性中心に組み立てられた社会では、どこかに矛盾が生まれるのは当然です。その矛盾をできるだけ取りのぞくためには、ユニバーサルなシステムが登場します。皆が等しく役に立つ、それぞれに異なった得意技をみがいて成り立つ社会の登場です。

 

 次回に続きます。

 

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(1) わたしが持っているのは、共立出版から生態学講座の1冊として1972に出た古い版です。現在は、『霊長類の社会構造と進化』として新しい版が出ていますが、値段は大変高いので、図書館で買ってもらうといいと思います。

(2)『奈良公園のシカ』(川村俊蔵、1971

(3) MITANI, M. (1986)  PRIMATES, 27: 397-412

(4) クロード・レヴィ=ストロース (2001)『悲しき熱帯』1, 2 [川田順造 ] 中公クラッシックス.英語であれば無料で公開されています

 

tristes_tropiciquesFP_reduced.jpgのサムネール画像(5) 三谷雅純 (2011)  『ヒトは人のはじまり』(毎日新聞社)

 

front_page.JPGのサムネール画像 

  

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)

兵庫県立大学 自然・環境科学研究所

/人と自然の博物館

 

 

ユニバーサル・ミュージアムをめざして17

 

「女性の働き方」に寄せられたご意見

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)

 

 

 前回ブログに書いた「女性の働き方と『モモ』に出てきた時間泥棒」には思ってもみない反響がありました。内容に「ひとはくブログ」の文章とは違ったところがあったからでしょうか? それとも、自然系の博物館が主催するブログには珍しく、(身近な問題であり、そこに何か矛盾は感じているが、多くの事実がこんがらがっていて、その解決の方法まではよくわからない)「女性の働き方」という人間社会の問題がテーマだったからでしょうか?

 

 いただいた反響には、わたしの言い足りない点を補足して下さるものから、わたしには気が付かなかった視点から問題を指摘して下さるものまで、さまざまなご意見がありました。いただいたご意見の内、代表的なものを紹介します。

 

 まず前回のブログを簡単に振り返ってみます。

 

 ひとはくブログ「女性の働き方と『モモ』に出てきた時間泥棒」では、日本社会が尊(たっと)ぶ働き方は、健康な男性にだけ向いた働き方だという話を紹介しています。IMFthe International Monetary Fund:国際通貨基金)の専務理事、クリスティーヌ・ラガルドChristine Lagardeさんと経済団体代表幹事の長谷川閑史(はせがわ やすちか)さんの出演したテレビ番組で主張していた意見です。

 

 番組によれば、女性が出産や子育てという重要なライフ・ステージを送ると、それ以後は働き手としての価値は認められなくなり、同じ仕事をこなしていても、同一の賃金は支払われなくなります。

 

 一方、男性の多くは同じペースで働き続けますが、職場と家庭を比べれば職場の比重が高くなり、そのために信じられないほどの長時間、働く事を強いられたり、人間関係や仕事のストレスで消耗してしまう人が多いのです。

 

 可能な代案はオランダ社会の働き方です。オランダでは、パートタイムの女性管理職が多く働いているのです。管理職は仕事の経験を積んでなるものですが、女性には出産や子育てがあります。仕事の経験を積んでいるからといって、本質的に「出産」や「子育て」は避けるべきものではありません。しかし、その女性には、働き手としても豊富な経験があるのです。この家庭と会社の価値観が両立するように、「パートタイムの管理職」という働き方が生まれたのです。

 

 「パートタイムの管理職」は、女性だけに限った事ではありません。「家庭と会社の価値観の両立」が主な目的なのですから、男性も職場に居続けるわけではありません。子育ての責任は両親が共に持ちます。そのため、女性と同じ意味で「パートタイムの男性管理職」も多くいるそうです。オランダのご夫婦は子育てをしながら、ふたり合わせると、ひとりの時の1.5倍の収入があるという事です。このようなご夫婦は「ダブル・インカム・ウイズ・キッズ(収入はふたりともあり、子どももいる)」と呼ばれます。

 

 わたしがこの番組に引かれたのは、「家庭と会社の価値観の両立」が、ユニバーサルな事に思えたからでした。福祉にありがちな「『働けない人』は『働ける人』のお金に頼る」という考え方ではなく、その人なりの働き方を工夫することで、それぞれ、有能さを目に見える形にする。収入も、当たり前の金額が保障される。言うなら、「オール・インカム・ウイズ・キッズ(みんな収入があり、子どももいる)」です。

 

☆   ☆

 

 ある女性はこんなご意見を寄せて下さいました。子どもを育てた獣医さんです。

 

「女性の働き方」については、仕事を持つ女性みんなが、ずっと立ち向かってきた問題だと思います。男性中心の考え方は根強く、絶望的に思えることもあります。私たちの学生時代、大学の先生が平気で、「子供が泣いているそばで、女に手術ができるか!」と言っていました。「夫が(子供を)見てくれたら、するけどな」と思ったけど、よけい(その先生に)怒鳴られそうなので黙っていました。

 

獣医学生の半数以上が女性になった今でも、出産・育児をどう乗り越えるかは、彼女たちの大問題だという記事を、最近読みました――暴言を吐いていた先生は今、女子学生たちにどんなことを言っているのでしょうね。男性はもちろん、理解ある年配女性から、時として、夫をたてるようにと矛盾することを言われたり、そういう自分たちでさえ、専門の職種や上位のポストの人は、無意識のうちの男性と決めつけたりして、愕然とすることもあります。ユニバーサルな考え方をすれば、解決できることがたくさんあると思います。

 

私は幸い、夫の協力と保育所・学童保育のおかげで仕事を続けてくることができましたが、保育所の頃の大変だった思いは、今でもまざまざとよみがえります。でも、この経験と、ここでめぐり会った先生や友達が、私たち家族の財産だと思っています。働く女性にとって保育所や学童保育の整備は必須――話はそれますが、目的や考え方の違うふたつを一緒にする幼保一体化には、不安をおぼえます。

 

夫も子供のために休みをとると、上司から嫌みを言われることがありました。そんな夫の世代も、今では共働きで子育てをする後輩たちのフォーローができる年になりました。そして、<働く母が育てた息子たち>の考え方は、変わってきているはずです。女性が普通に働ける社会に、少しずつ変わっていくと思います。

 

ただ、人一倍やらないと「女はダメだ」と言われた世代から見ると、若い人たちの中には、女性の立場が強くなって発言はするけれど、責任を負うべきところでは都合よく「女性だから」と一歩ひいてしまうこともあるように感じます。女性も甘えてはいけません。また、最近では専業主婦の方が、肩身の狭い思いをすることもあるとか。これは逆にユニバーサルではありませんね。

 

 こちらは男性です。

 

私は、保育所の送り迎えから、日々の晩飯や風呂を一手にさせていただいたおかげで、娘や息子とは、ずう〜っと仲良しです。

 

夫婦としては、当たり前のことを当たり前にするだけなのでしょうが、やや甘い考えの女性も居ることは事実です。一部の本当に頑張っている人たちをサポートするためのものと、ニセモノをどうふるい分けるか。システムには必ず大きな隙間が生じるものです。

 

☆   ☆

 

 ある男性は次のようなお手紙を寄せて下さいました。

 

私が定年まで勤めた会社に入社したのは、大阪万博の年でした。私が勤めている間に、女子社員の働き方はずいぶん変わりました。勤め出した頃は、1人を除いて、女子社員は若い人ばかりでした。結婚すると、退職してゆくのが普通でした。社員は、倉庫番の年配の男子社員を除いて、全て正社員でした。パートは、一人も居ませんでした。

 

その内、女性のパート社員がぼちぼち入社し出しました。パートは、全て結婚している方でした。パートと正社員の給与には、相当の差があったようです。2〜3年すると、時給の高い仕事に転職して行かれます。中には、パートから正社員に変わられた方が3人だけ居ました。3人共、仕事のよくできる方々でした。

 

その後、工場だけがパートの女性を雇い続けましたが、事務職ではパートは派遣社員に変わっていきました。派遣の方は、派遣会社の正社員です。相当に能力の高い方も来られました。事務機器の事についてよく知っておりまして、私も時々教えていただきました。私が退職する頃には、結婚しても女子社員が退職するという事が少なくなっておりました。

 

女性が、結婚し、出産後も働き続けるには保育所と学童保育が必要です。我が家でも保育所と学童保育にお世話になりました。子供が小学校低学年の時までは母と同居しておりましたので、母にも助けてもらっています。

 

妻は看護師で、3交替勤務をしておりました。保育所に行っている子供に変調があれば、保育所から電話があります。妻は仕事上 融通が効きませんので、それに対応するのは、たいてい私がやりました。保護者会や小学校の参観日やPTAにも、主に私が参加しております。保育所では、保護者会の折、男の参加も多かったのですが、PTAでは、クラスで男は私一人の事が殆どでした。

 

パートは、正社員と給与が全く違います。会社や店がパートを雇うのは、賃金を安くできるからです。オランダのように、パートと正社員が同一賃金になれば、女性も男性も子育てしやすい社会に変わるでしょうが、前にも書いたのですが、日本では法律で強制しないと、オランダ型にはなり難いと思います。

 

 ご自身が看護師として働いていた女性は、出産と子育てで仕事にブランクができてしまいました。今はパートで、やはり看護師をしていらっしゃいます。正職員の時に思った事をお書き下さいました。

 

 人手不足の看護師の世界では、時に「妊娠する」とか「病気になる」事が罪悪であったことがあります。人手が足らないのに「(うっかり)妊娠してしまう」とか「(うっかり)病気になる」と見られてしまうからです。子育てに時間を取られて、休みたいと言ったら、「誰か見てくれる人はいないの?」と、看護師長に言われた人がいました。「誰も見てくれる人がいないから、休みたいと言っているのに」と、側でそのやりとりを見て、思っていました。

 

 看護師は夜勤があるため、子どもが6歳ぐらいになると(電子)レンジの使い方を教えます。火を使うのは危険ですが、レンジは火を使わないので安心なのです。レンジが使えたら、牛乳を温める事も、シチューを温める事もできます。そのために、早くからレンジの使い方を教えたものでした。

 

 朝食からトンカツやシチューなど、子どもが喜びそうなメニューを作ったものでした。こうしておけば、朝食とお昼の給食で栄養が摂れます。夜勤で家にいない時でも、夜はインスタント・ラーメンをすすっていてもよいのです。

 

 しかし、このような働き方を強要していると、ストレスが溜まってきます。疲れてくると、つい、いらいらしてしまいます。それで皆、途中で退職してしまうのです。

 

 今は、また別種のストレスが(看護師に)加わり、自分たちよりももっと立場の弱い高齢の患者さんに向かってしまうのです。そのため、故意に過剰な薬剤を点滴して病人を死亡させたり、認知症の人の爪をはがしたりしてしまうような事件もありました。

 

☆   ☆

 

 ある男性は、現在の日本の政治について、次のようなご意見を寄せて下さいました。

 

 女性の社会進出や男女の労働平準化に関してもそうですが、その目的そのものは何ら問題はないのであって、それならどう実現するのかと言った各論に入ると現実的に大きな壁が立ち塞(ふさ)がります。やはり「どうやって生活を成り立たせるのか?」つまり生活資金の問題ですね。北欧やフランス、デンマーク、オランダでは労働の平準化政策がとられていますが、この国に共通しているのは全て消費税が25パーセント前後からそれ以上になっているということです。

 

 翻(ひるがえ)って日本では8パーセントで民主党の支持が激落する状態です。私は消費税のアップには大賛成ですし、もっと上げるべきだと思っています。その税金をどのような国作りに使っていくのか、やはり、子供やその現役の家族が安心して生活できる生活環境整備・教育や産業に投資すべきだと思っています。

 

 またある女性からは、「女性の働き方」の社会的矛盾が、現在の少子化を招いてしまったというご意見をいただきました。

 

日本社会は「男女機会均等法」を作っただけで、その本質を改めていないと思う日々でした。

もともと男の働き方が異常な社会なのに、それを変えようとせずに「男女機会均等法」を導入して、女にも異常な働き方を求めることには無理があるのです。

健全な次世代を産み育てる作業を女性の犠牲のもとに担わせる、そんな社会が日本の男性社会だと思っていました。

 

私が大学生になった頃、「女子学生亡国論」が流行っていました。

女子に高学歴を与えても社会に貢献しないというのです。

 

社会に貢献しようにも、貢献できないように追い込んでいるのは誰だ!

それなら、女は次世代を産み育てることを放棄すればいいのだ!

 

「産んでやらない!」

 

何年か経って、遅きに失した時、社会が気づくだろう。「次世代がいない!」と。

 

ほら見なさい、今の少子化を。

 

☆   ☆

 

 ある新聞社の記者として南アフリカの特派員をした白戸圭一さんは、立命館大学の大学院でアフリカ政治を研究した本格派です。その白戸さんが『日本人のためのアフリカ入門』(ちくま新書 900という本で、「アフリカでは自殺をほとんど見かけないのに、日本の社会では、子どものいじめも含めて、異常に自殺が多い」という意味の事を述べておられます。

 

 アフリカのバンツーの社会には、ちょうど日本や韓国、中国の「講(こう)」にあたる相互扶助システムが今でも生きています。誰かひとりが困っていたら、親族や地域社会で助け合うのです。それが今でも生きているから、アフリカには自殺が少ないのだそうです。

 

 そして日本社会の自殺率は、たとえば現在でも紛争の絶えないソマリアの、戦闘による民間人死亡率よりも高いのです。(1)ある地域の自殺率と紛争地域の民間人死亡率を比較するのはナンセンスです。意味がありません。しかし、この事実を、わたしは衝撃的だと思いました。わたしたち自身がアフリカか日本か、どちらかに住むとしたら、一見平和な社会にかかるストレスが、戦闘の混乱の中で生活する市民にかかるストレスよりも大きいのかもしれない。

 

 それほどわたしたちは、ストレスの大きな社会に住んでいるという事です。

 

 ユニバーサルな生活は、単に「助け合い」というニュアンスでは語るべきでないのかもしれません。

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(1) 『日本人のためのアフリカ入門』の中の「アフリカの『毒』」の内、211ページから215ページにあります。

 

 なお、本文中のご意見やお手紙は、わたしの判断で、文意を変えないように注意しながら、わかりやすく書きかえたところがあります。この他にもさまざまな意見がありました。ご意見やお手紙をお寄せ下さったみなさん、どうもありがとうございました。

 

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)

兵庫県立大学 自然・環境科学研究所

/人と自然の博物館

 

ユニバーサル・ミュージアムをめざして16

 

女性の働き方と『モモ』に出てきた時間泥棒

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)

 

 

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 この間、テレビで夜のニュース (1) を見ていると、IMFthe International Monetary Fund:国際通貨基金)の専務理事、クリスティーヌ・ラガルド(Christine Lagarde)さんと経済団体代表幹事の長谷川閑史(はせがわ やすちか)さんが出演して、あるIMFのレポート (2) の話をしていました。そのレポートには、「日本の女性は、せっかく働き始めても、結婚や出産といった人生には当然あるできごと、つまり大きなライフステージの変化で引っかかり、それ以降も正規職員として働ける女性は少ない。その事が、日本社会から、高い教育を受けた人に実力に見合った職につくチャンスを失わせている」という分析が載っているそうです。ラガルドさんのおっしゃることはもっともだと、わたしは肯(うなず)きました。

 

 その一方で、ライフステージに大きな変化のない人の方が圧倒的に多い男性は、職に付き続け、キャリアを重ねていきます。しかし、その中で、(日本では)長い時間働き続けることが当たり前とされ、家庭よりも職場を大切にすることが(今でも、暗黙の内に)尊ばれる世間の雰囲気(風土?)があるということです。

 

 これは女性にとっても、また男性にとっても、いびつだと思います。先程述べたように、女性はおのおのが夢見た人生設計が(半ば、強制的に)描けなくなり、男性は働き過ぎや職場の人原関係のストレスで消耗してしまうからです。

 

 日本では働く女性の数が、20代後半から少なくなるそうです。これは、この歳に出産を迎える女性が多いからですが、このような現象は、世界的にも、先進国ではあまり例がないそうです。どこの国、どこの地域でも、子どもが生まれるのはめでたいことですから、よその国や地域ではきっと、いろいろな意味で子どもを育てることに助けがあるのでしょう。「女性は家庭にいるもの」という考え方は、よいか悪いかは別にしても、あちこちにあります。ですから、ここで言う保育への手助けとは、「保育園の数」のような施設の問題だけではなく、赤ん坊や子どもを大切にすることが社会全体に根付いているということなのかもしれません。

 

 それにしても、高い教育を受け、まじめな日本の女性が働けない。たとえ働けても、正規雇用ではなくて、非正規雇用や短期のアルバイトという現状はひどいと思います。女性が社会に出られるようになるだけで、ものの生産力は上がり、女性がお金を持つために消費も伸びるというのにです。

 

☆   ☆

 

 番組では、ひとつの解決策として、オランダ・モデルを紹介していました。オランダも、かつては日本と同じで、女性は家庭にいて、おもに男性がお金を稼いで来たということです。それが、今では80パーセントもの女性が働きに出ていると言います。どうしてそのようなことが可能になったのかというと、それはパートタイムで働くことに、社会全体が価値を認めるようになったからだそうです。

 

 たとえばオランダには、パートタイムで働く女性管理職が多いそうです。女性管理職の40パーセントがパートタイムで働いているのです。日本では、管理職は何となく男性のイメージです。そして管理職は、正規職員であることが当然だという雰囲気です。女性の上司に「仕える」ことは嫌だという日本人も、まだ多くいます。

 

 オランダの女性にパートタイムで働く人が多いというのは、家庭と職場のモラルを両方ともに大切にしているからです。考えてみると、20歳から30歳で子を産めば、その子が10代の反抗期を向かえる時、自分は40代になっています。人(あるいはヒト)の10代は、他人にも<こころ>があるという認識を深め、社会性を身に付ける、成長のクライマックスとも言える時期です。<社会>とか<美しさ>といった抽象的なことについても、考えられるようになります。そんな、我が子にエネルギーを注がなければいけない時が、ちょうど職場でも、経験を積み、人に頼られる時と重なるのです。そのような女性がパートタイムで正規に働けるような場所があれば、人生の大切なものをあきらめないでいられるでしょう。

 

 もちろん、パートナーの存在も大事です。オランダでは、男性もパートタイムの正規職員という例が多いそうです。職場に出ない時間は、女性同様に家庭を大切にするそうです。そして正規職員ですから、給料は働きに見合った分を普通にもらえます。こういうご夫婦を、「ダブル・インカム・ウイズ・キッズ(収入はふたりともあり、子どももいる)」と呼ぶそうです。こうした制度のおかげで、ひとりひとりの収入は少なくなりますが、合計すれば、ひとりで働く時の1.5倍になるそうです。

 

☆   ☆

 

 こんな働き方を、わたしはまさに、<ユニバーサル>だと思いました。ユニバーサル・ミュージアムとか、ユニバーサル社会というと、どこかで福祉を想像してしまいます。一方で福祉を受ける人がいて、もう一方で福祉を授ける人がいる。福祉を受ける人は、社会的弱者として社会の余剰物を受け取る。社会的弱者は「弱者」なのだから、受けるのは当然である。でもこの理屈には、働く人は、皆、同じように働き続けるものだという、暗黙の前提があるように感じます。今、社会には「働き手(という名の、若い、あるいは壮年の健常な男性)」が減って、高齢者や障がい者はどんどん増え、社会的に支えきれなくなっている。それは、(死に物狂いで?)働き続ける人だけを「働き手」と呼んだことの矛盾が、目に見えて来たということだと思います。

 

 <ユニバーサルなこと>は、福祉と似ています。でも本質的には違います。「パートタイムで働く女性管理職」という話題に従えば、「社会が必要とする<女性の本質>が生かせるような働き方、生き方」のことだと思うのです。その働き方、生き方が日本にないのなら、どこかあるところの真似をすればいい。どこにもないのなら、新しく創ればいいのです。<女性>ということばは、<子ども>や<高齢者>、<障がい者>と言い換えることができます。<男性>と言い換えることだってできるはずです。<女性>だけの得意技は、<子ども>や<高齢者>、<障がい者>にも、それぞれにあるでしょう。<男性>だけにある得意技もあるはずです。それを生かしていくのがユニバーサル社会です。ユニバーサル・ミュージアムというのは、そのユニバーサル社会が実現できるかどうかを試してみる社会実験のようなものです。

 

☆   ☆

 

 女性は、狩猟採集の生活でも、農耕の生活でも、生活の基盤を築いてきました。狩猟採集なら、男性の「必ず今日あるとあてにできない」、一発ねらいの狩猟の獲物を待つよりも、木の実や貝の採集が人びとの日びの食物をもたらしたのです。確かに焼き畑を作る時には、男性の体力がなければ森は開けませんでしたが、木を伐ったあとで、そこに畑を作ったのは女性でした。その労働は生死を分けるとても大事なものですが、市場経済の下では、お金が介在しないために家内労働と呼ばれ、商品としてあまり評価されませんでした(少しは評価されます)。

 

 ミヒャエル・エンデという人が書いた『モモ』というお話があります (3)。有名なお話なので、読んだ方も多いでしょう。モモというのは、主人公のみすぼらしい少女の名前です。

 

 モモはどこからかやって来て、ある町に住み着きます。町の人たちは優しくしてくれて、汚い服を着ているモモを嫌がりません。その上、皆、正直者で、ゆったりとした暮らしを楽しんでいました。モモもひとりになって、夜空を眺めるのが好きでした。こうすれば、夜空が奏でる<荘厳なしずけさ>に耳を澄ますことができるのです。

 

 ところが、その町に時間泥棒が現れます。時間泥棒は人びとにささやき、「むだな時間を節約して、『時間貯蓄銀行』に預けなさい」と勧めます。でも、それはただの詐欺でした。銀行などなく、「預けた」はずの「むだな時間」は、時間泥棒たちが自分で使ってしまうのです。しかし、あんまりささやきが見事だったので、人びとはその事に気がつきませんでした。人びとは、「じぶんたちの生活が日ごとにまずしくなり、日ごとに画一的になり、日ごとに冷たくなっていることを、だれひとり認めようとはしませんでした」。

 

 お話の最後は、ついにモモが時間泥棒から人びとの時間を取り返します。モモが時間を取り返せたのは、そのみすぼらしい少女に、物事の本質を見ぬく力があったからです。

 

 先ほどのIMFのテレビ番組でも、ある韓国の社長は、女性は人間関係を築くことや、コミュニケーション能力に優れていて、(女性を登用すれば)その能力を生かしてプロジェクトを円滑に進め、会社に大きく貢献していると言っているそうです。「人間関係を築くこと」や、「コミュニケーション能力に優れてい」ることは、モモが「夜空を眺めるのが好き」なことと通じるような気がします。どちらも、時間泥棒に取り込まれた人からは見つからない本質だからです。

 

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(1) NHK クローズアップ現代 「女性が日本を救う?」、20121017日(水)放送[http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail02_3261_all.html

 

(2) Chad Steinberg and Masato Nakane (2012)  Can Women Save Japan?  IMF Working Paper, Asia and Pacific Department.http://www.imf.org/external/pubs/ft/wp/2012/wp12248.pdf

 

(3) 『モモ』、ミヒャエル・エンデ作、大島かおり訳、岩波書店、1976360p.http://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/isearch?isbn=ISBN4-00-114127-2  なお、わたしは、昔、『モモ』を読んだのですが、ここでは辰濃和男(たつの・かずおさんの『ぼんやりの時間』(岩波新書、1238)[http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn1003/sin_k524.htmlから「二 ぼんやりと過ごすために――その時間と空間」の「1『むだな時間』はむだか」を参考にさせていただきました。

 

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)

兵庫県立大学 自然・環境科学研究所

/人と自然の博物館

 

ユニバーサル・ミュージアムをめざして15

 

『エピジェネティクス 操られる遺伝子』

PTSD、自閉症、iPS細胞、タスマニアデビル−2

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)

 

 

 

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 前回、「ひとはくブログ」に「『エピジェネティクス 操られる遺伝子』 PTSD、自閉症、iPS細胞、タスマニアデビル−1」を載せてしばらくして、あるお母さんからお手紙をいただきました――わたしは、失語が出ることがありますので、今でも電話は避けています。その事を知っておられたので、わざわざお手紙を書いて下さったのです。どうもありがとうございます。

 

 そのお母さんは、「日本でも病院の産科に行くと、葉酸は積極的に勧められる」と教えて下さいました。葉酸は胎児の成長には欠かせませんから、お医者さんは勧めるのです。

 

 そのお母さんの息子さんはアスペルガー傾向があるそうです。アスペルガーの人は少し変わり者が多いのですが、でも本質は、邪心のない、心根の優しい人です。その心根の優しさを大切にしてあげれば、今のままの、心根の優しい、すてきな青年に育つと思いますよ。

 

 さて、

 

 PTSD(精神的外傷)やストレスは、エピジェネティックなメカニズムを通じて、普通の遺伝とは違いますが、まるで遺伝しているような影響を子どもに与えます。葉酸――お手紙を下さったお母さんにも申し上げましたが、もともとは誰にでも必要な物質です――その葉酸が多すぎるために、自閉症は起こるのではないかと疑っている研究者がいました。エピジェネティックスは、研究されるようになってから、まだ10年ぐらいにしかなりません。よく探せば、似た現象があちこちで起こっていそうです。この文章は、『エピジェネティクス 操られる遺伝子』の書評のつづきです。

 

☆   ☆

 

 オーストラリアは有袋類(ゆうたい・るい)というほ乳類が住む大陸として有名です。有袋類はオーストラリアの北にあるニューギニアや南アメリカにもいますが、いろんな種類の有袋類がたくさん住んでいるのは、オーストラリアだけの特徴です。

 

 そのオーストラリア大陸の南東にタスマニア島という島があります。大きな島で、つい最近までタスマニア人が住んでいました――残念ながら白人が入植して、現在は絶滅してしまったそうです。タスマニア島は6万4400キロメートルだそうですから、九州より大きいが、北海道ほどではないということになります。それでも十分に大きな島です。

 

 このタスマニア島には、ここにしかいない珍しい有袋類がいます。それはタスマニアデビルとフクロオオカミです。フクロオオカミはヒツジを襲う有害獣(ゆうがい・じゅう)として嫌われ、絶滅(ぜつめつ)させられてしまいました。タスマニアデビルもフクロオオカミと同じように他の動物をおそいますが、わたしの持っている本では、おそうのは、ヒツジよりももっと小さな動物だということです。そのタスマニアデビルが、フクロオオカミとは別の理由で、今、絶滅しそうなのです。

 

 なぜ絶滅しそうなのかというと、タスマニアデビルの間には、「噛(か)んで移るガン(癌)」がはやっているからです。タスマニアデビルは、死んだ動物の肉を前にすると、争いのために競争相手のタスマニアデビルの顔に噛みつくのです。その時、ガン細胞が移るのだそうです。

 

 ガンが「噛(か)んで移る」? 人間のガンは、噛(か)まれても移りません。わたしは『エピジェネティクス 操られる遺伝子』を読んでいて、最初はガン細胞が移ったのではなく、ガンを起こすウイルスが移ったのだと思いました。実際に、そういうウイルスはいます。しかし、移っていたのは本物のガン細胞だそうです。それも、皮膚(ひふ)だとか骨(ほね)だとかといった組織の細胞ではなく、何にでもなれる「幹(かん)細胞のガン」だというのです。

 

 ここまで読んで、わたしは、ふたつの事に気が付きました。

 

 ひとつ目の、本当にガン細胞が移っているのなら、タスマニアデビルの免疫(めんえき)が普通ではないのではないか? たとえば他人の体から臓器移植(ぞうき・いしょく)や皮膚移植(ひふ・いしょく)を受けると、体は「自分とは違うものが入ってきた」と思って拒絶反応(きょぜつ・はんのう)を起こすものです。しかし、皆が似た遺伝子を持っていると、この反応はおきません。「免疫(めんえき)が普通ではない」とは、そういう事なのです。

 

 たとえばチーターは皮膚(ひふ)を移植(いしょく)しても拒絶反応(きょぜつ・はんのう)は起きません。なぜ拒絶反応が起きないのかというと、昔、チーターの数がものすごく減ったことがあって、その時、ある遺伝子を持っていた個体だけが生き残った。そうだとすると、元のようにチーターが多くなった今でも拒絶反応(きょぜつ・はんのう)は起こらない事があるのです。難しいことばを使うと、「遺伝的な多様性」がきょくたんに低くなったのです。野生動物でも、よくある事だそうです。そんな訳で、タスマニアデビルもチーターと同じく、拒絶反応(きょぜつ・はんのう)が起きないので、ガン細胞は、あるタスマニアデビルから別のタスマニアデビルに移れたのではないか? そう思ったのです。

 

 ふたつ目の「幹(かん)細胞のガン」というのは、ひとつ目に比べてやっかいな気がします。どこがやっかいなのかと言うと、皮膚(ひふ)とか肺(はい)とかいった「○○の細胞」ではなく、これから何にでもなれる、言うなら「卵(たまご)のようなガン細胞」だからです。移った「卵(たまご)のようなガン細胞」は、顔のできものだけでなく、肺やリンパ節(せつ)といった顔以外の場所もガンにしていきます。このガンにかかったタスマニアデビルの治療(ちりょう)法は、まだ、ないままだそうです。

 

☆   ☆

 

 「幹(かん)細胞のガン」と聞くと、iPS細胞のことを思い出します。iPS細胞というのは、京都大学の山中伸弥(なかやま しんや)さんたちが作った、これから何にでもなれる人工的な細胞のことです。もちろん「人工的な細胞」といっても、細胞そのものを人間が作れるのではなく、マウスならマウス、ヒトならヒトの、皮膚(ひふ)の細胞に、ある遺伝子を入れて作りだしたのです。そして皮膚(ひふ)の細胞に入れた「ある遺伝子」には、発ガン作用があります。

 

 「卵(たまご)のような幹(かん)細胞」とガン、そしてエピジェネティクスの間には、実は深い関係があります。細胞には全部、DNAがあります。DNAが「生き物の設計図」と言われていた時代には、体の中のある細胞は肝臓(かんぞう)になり、別の細胞は脳になるというのが、考えてみれば不思議でした。実はどうも、そこにはエピジェネティクスが関係しているらしい。しかし、実態はまだよくわかりません。

 

 エピジェネティクスというのは、細胞によって、DNAにそれぞれ別べつの「ふた」をかぶせて、そのDNAが働かなくなるようすです。そして、その場所にぴったりのDNAだけが働くようにしているのです。それが体の中でうまくいっているから、ヒトはヒト、タンポポはタンポポになるのです。

 

 ガン遺伝子というものがあります。体が生まれつき持っているガンを作る遺伝子です。ガンは恐ろしい病気ですから、「ガンを作る遺伝子」なんて、わけが分かりません。なぜガン遺伝子などというものが、あるのでしょう。しかし、事実としてガン遺伝子はかなりの数あることがわかっています。そのガン遺伝子を持っているのに、多くの人はガンになりません。それは、ひとつには、ガンの抑制遺伝子というのがちゃんとあって,ガン遺伝子の働きを押さえてしまうのと、もうひとつは、エピジェネティクにガン遺伝子に「ふた」をして、ガン遺伝子が働かないようにしているからです。

 

 iPS細胞は、エピジェネティクな「ふた」をむりやり取ってしまった、人工的に作りだした幹(かん)細胞です。しっかり分裂させるために発ガン作用がある遺伝子を入れるのですが、それとともに、エピジェネティクな「ふた」をむりやり取ってしまった幹(かん)細胞では、ガン遺伝子も働き始めるということです。

 

☆   ☆

 

 それにしても、<ガン遺伝子>とは、いったい何物なのでしょう? 体の中に危険な病原体を持っているようなものです。ガン遺伝子は、何食わぬ顔で遺伝子にもぐり込んだエイズのようなウイルスなのでしょうか? それとも、老化して役目を終えた細胞に死ぬタイミングを教える遺伝子なのでしょうか? わたしにはわかりません。でも、ある事を思いつきました。それは、ヒトが使う事のなくなった、ちょうどトカゲのしっぽのように、「体の再生をうながす働きを持つ遺伝子が、変化したもの」という思い付きです。

 

 わたしは霊長類学者で、エピジェネティクスの専門家ではありません。ですから、今から書くのは、ただの<しろうと談義>です。ふざけているのではありませんが、責任は持てません。

 

 もともとガン遺伝子は、ガンという病気の遺伝子などではなく、体の再生をつかさどる遺伝子でした。体の再生のためには、肝臓(かんぞう)とか脳(のう)とかの専門化した、言い換えればエピジェネティクな「ふた」のかぶせられた遺伝子ではなくて、エピジェネティクな「ふた」を取り去った遺伝子が必要です。なぜかと言えば、再生のためには、しっぽの骨やうろこといったふうに、まだ専門的には別れていないからです。魚類や両生類、は虫類までは、似たような再生ができるはずです。しかし、ほ乳類になると再生できるところは限られます。ヒトの体でいえば肝臓(かんぞう)の再生力は強いそうですが、手や足が再生できるとは、聞いたことがありません。この再生をする能力を持った遺伝子は、進化の途中で働かなくなりましたが、消えてしまったわけではなかったのです。再生をうながしていた遺伝子は、エピジェネティクスによって、息をひそめるようにしてDNAに引き継がれ続けました。

 

 その遺伝子は、ある時、再生のために細胞を増殖させる働きは保ったまま、しかし、体の骨や皮膚(ひふ)を組み立てる力は失って、ついにガン遺伝子になりました。そのために、ガン細胞をむやみやたらと増やすようになったのです。

 

 以上は<しろうと談義>でした。しかし、ガン遺伝子も、もともとは何かの役に立っていたと考えなければいけないような気がします。

 

 この『エピジェネティクス 操られる遺伝子』の著者、リチャード・フランシスさんは、遺伝子を「生き物の設計図」ではなく、「細胞」と「遺伝子」は、互いが互いに影響を与え合う共同作業者のようなものだと言います。その意味では、今まで遺伝するのだと信じられてきた事にも、エピジェネティクスであれば元に戻すような治療法が出てくるのかもしれません。訳者の野中香方子さんが訳者あとがきに書いておられましたが、エピジェネティクスは2008年度から、アメリカ国立衛生研究所の重要研究項目になっているそうです。日本でも、同じように研究が進んでいくのでしょう。

 

 また、遺伝子と細胞が影響し合ってヒトが生み出されるようすを受けて、フランシスさんは「人間性というものは程度の問題であって、絶対的なものではない。胚が人間になるまでの各課程をどう扱うか決定するのは、社会全体の責任である」と述べておられます。出産前診断に対するこの筆者の意見には、耳を傾ける価値があります。わたしは、そう思いました。

 

 

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三谷 雅純(みたに まさずみ)

兵庫県立大学 自然・環境科学研究所

/人と自然の博物館

 

ユニバーサル・ミュージアムをめざして14

 

『エピジェネティクス 操られる遺伝子』

PTSD、自閉症、iPS細胞、タスマニアデビル−1

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)

 

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  『エピジェネティクス 操られる遺伝子』は遺伝学の本です。DNAやタンパク質合成、ヒトゲノムといった、ややこしそうな話が出てきます。なぜ遺伝学の本が、この「ユニバーサル・ミュージアム」のコラムに入っているのかと、不信に思われた方もいるでしょう。ひょっとすると、「不信に思われた方もいる」どころではなく、「不信に思われた方が多い」と言い換えた方がいいのかもしれません。<ひとはく>は、いろんな方が集まってくる生涯学習のための施設です。そこのコラムに、こんな「ややこしそうな」題名の本を取り上げて、三谷(わたしです)はいったい何を考えているのか? 自分が読んだ(と称する)本を、自慢したいだけじゃないのか? いろんな言葉が聞こえて来ます。ご不信、ごもっともです。この書評を書く前に、そのあたりを説明しておきます。

 

 わたしが「エピジェネティクス」という言葉をはじめて知ったのは、昨年の秋頃でした。発達障がいの中でもアスペルガー症候群について特集した子どもの精神医学の雑誌「そだちの科学」【注1】http://www.nippyo.co.jp/magazine/5622.htmlを読んでいて、目にはいったのです。新しい言葉だろうとは思いましたが、書いてあった意味は、もうひとつわかりませんでした。こんな時はインターネットのコンピュータ検索が便利です。引いてみました。すると、どうも「DNAは変化していないのに、(まるで遺伝しているかのように)親から子へと伝わる現象」らしいのです。でも、何が伝わるのでしょう? 「エピジェネティクス」は普通の遺伝ではないということですが、何が違うのでしょうか?

 

 わたしが高校生だった40年前は――10年でひと昔と数えますから、本当に昔のことです――教科書にメンデル遺伝の手ほどきが載っていました。それはエンドウ豆の皮の色や模様がどう伝わるのかといったことです。ヒトのABO式の血液型も、同じしくみで親から子に伝わります。でも現実にわたしたちが経験する、たとえば身長や癖毛(くせげ)といった見た目や、「おとなしい」とか「活発」だといった性格は、豆の皮や血液型のように単純ではありません。メンデル遺伝を否定するわけではありませんが、現実にわたしたちの周りで起こっていることは、もっともっと複雑でした。

 

 今では、ひとつの遺伝子がひとつの見た目や性質をコントロールするというメンデル遺伝は、あるにはあるが、たいへん珍しく、普通は、いくつもの遺伝子が組み合わさって、見た目や性格を決めているのだということがわかるようになりました。その組み合わせがどれだけ重なり合っているかとか、遺伝子の細かな性質の違いはあるのかといったことによって、見た目や性格が微妙に変わる。わたしは、そう思っていました。それでも「エピジェネティクス」というのは、このことに当てはまらない、まったく新しい考え方のようです。何か基本的な原理が違うのかもしれません。違うとしたら、どこがどう違うのでしょう? と、せっかくここまで考えたのに、この疑問は、疑問のままで残してしまいました。ひたいに大きなクエスチョン・マークを貼り付けたまま、日常のあれやこれやにかまけてしまったのです。

 

 わたしがよく存じ上げている方で、昔からお世話になっている、ある生化学の先生がいらっしゃいます。上品な女性で、関西のご出身なのですが、お仕事の関係で長く愛知県に住んでいらっしゃいました。その方が、今度、神戸に引っ越しをなさるとうかがい、わたしは、お住まいが近くになったと喜んでいました。そして、ふと思いついて、「<エピジェネティクス>の簡単な解説書を教えて下さい」とお願いしてみました。長く学生の相手をしてこられた先生であれば、そんな本もご存じかもしれない。でも生化学といっても、エピジェネティクスはできたての科学のはずです。ムリを承知で紹介していただきました。その方が紹介してくれたのが、『エピジェネティクス 操られる遺伝子』(リチャード・C・フランシス著、野中香方子訳、ダイヤモンド社)でした。読んでみて、実にわかりやすい説明に、思わず引きつけられました。

 

☆   ☆

 

 DNAは、ヒトを始めとするあらゆる生物の設計図である」というのは、言い古された「常識」です。DNAがなければ生き物は始まりません。それなら、DNAという高分子は、ある生き物の運命を握る<神>にも等しい存在なのでしょうか? これも、どうも違うようです。ヒトの発達を考えてみても、最初、子宮の中で感じたうすぼんやりした光や、お母さんの心臓が刻んだドクンドクンというリズムは、生まれた後も、人の日常に影響しているのです。顕微鏡が発明される前に研究者が想像していたのは、「人の卵(らん)の中には、目に見えないほど小さな人が隠れていて、その人が大きくなって赤ん坊になる」ということだったのですが、ふたを開けてみると「小さな人」はいませんでした。最初から、どのような赤ん坊が生まれ、どのようなおとなになるかは、決まっていなかったのです。そうではなくて、胎児を取り巻く環境が大切だったのです。

 

 わたしたちは昔から、「赤ちゃんを身ごもったら、災(わざわ)いのありそうなことは避け、(赤ちゃんができて)身ひとつではなくなった分、人一倍、滋養(じよう)を摂(と)らなくてはいけない」と伝えてきました。日常からタブーが消えてしまい、栄養条件がよくなったわたしたちの生活では、「妊娠したから災いを避ける」とか、「ことさら栄養のあるものを食べる」という習慣はなくなりましたが、その代わり今度は、きびしくなった社会的なストレスがお母さんに重くのしかかり、子どもにも影響するようになってしまいました。どんなストレスかと言うと、地震や津波、場合によっては戦乱の恐怖といった厄災がもたらす精神的外傷(PTSD)です。ストレスがPTSDを引き起こし、それが子どもにも、生涯にわたって影響を与えるというのです。

 

 ここまでは、よくわかります。今までわかっていたことと、本質的には何も変わりません。変わったのは子どもに影響を与えるメカニズムでした。ストレスが、ある特定遺伝子の働きを押さえ込んでしまい、脳内に、特定の大切な物質が作れなくなりました。この物質は恐怖や不安を静める働きがあります。子ども、つまり胎児や赤ん坊の脳でその物質が作られなかったために、その子は不安やうつ、PTSDに陥りやすくなっていたのです【注2】。この特定遺伝子の働きを押さえ込んでしまう働きは、愛情を持って接すれば取り除くことができます。しかし、普通は長期間――たぶん、子どもの一生の間――つづくと考えられているのです。言い換えれば、子どもにもたらされた影響は、まるで親から子に伝わる遺伝子のように、ただし通常の遺伝子以外のメカニズムで、伝わるというのです。これがエピジェネティックスの仕組みです。

 

 この本の著者、フランシスさんは、肥満や糖尿病も、PTSDと同じようにして起きるといいます。妊娠したラットの母親にタンパク質を摂らせないようにすると、コドモは肥満や糖尿病になりやすい体質になるそうです。その結果、すぐにメタボリック症候群を発症してしまう一生を送ることになります。親のこうむった栄養不足や社会的ストレスは、ここでもコドモの一生を左右するわけです【注3】

 

☆   ☆

 

 わたしが知りたかったエピジェネティックスと自閉症の関係は、葉酸(ようさん)という物質に関係があるようです。

 

 普通、葉酸はくだものや野菜から摂(と)っていますが、妊娠した初期には、健康な赤ちゃんを産むために葉酸を服用することが勧められているそうです(筆者はアメリカ人ですが、日本でもそうでしょうか? 妻は「聞いたことがない」と言っていましたが)。なぜかというと、葉酸は胎児の神経系の発育をエピジェネティックに助けるため、神経管閉鎖障害といった重大な障がいを防ぐからです。メタボリック症候群の改善も期待できるのだそうです。このことを知った食品製造業者は、シリアルから小麦粉まで、穀物製品には何にでも葉酸を添加して、栄養強化をうたっていると言います。

 

 いくら健康によいものでも摂り過ぎれば害になることがあります。適量であれば健康によいものでも、過剰な葉酸の摂取は障がいを引き起こす。エピジェネティックなメカニズムで自閉症を引き起こすことはないのだろうか? このような疑いを持っている研究者がいるそうです【注4】

 

 もう一度言いますが、これはアメリカの話です。日本ではシリアルは子どものおやつのようなものですから、子どもにとっては同じとしても、日本ではアメリカほど小麦は摂(と)りません。まあ、感覚的にたとえれば、主食のお米に人工的な葉酸が添加されているようなものだと思います。日本のシリアルや小麦にも人工的に葉酸が添加されているのかどうかはわかりません。ちなみに家にあった子ども用のシリアルには、人工的なものかどうかはわかりませんが、「栄養成分表示」として鉄分や何種類かのビタミンとともに葉酸の値が載っていました。

 

 自閉症は親から子に伝わる性質です。そうだと思っていました。自閉症の人は興味の持ち方や学ぶ方法が違います。それにしても、自閉症の人は、全体として数が多くなったと思いませんか? アメリカでは多くなったとありましたが、日本でも増えているようなのです。このことは、何か変だと思いませんか? なぜ変かと言うと、「自閉症は遺伝する性質」なのですから、そんなに簡単に減ったり増えたりはしないはずなのです。

 

 ひとつには、社会的に<自閉症>というものが認知され、お医者さんも自閉症だという診断を下しやすくなったことがあります。

 

 もうひとつは――今でも偏見は残ってはいるものの――自閉症者をまるで犯罪者のように扱い、色眼鏡で見下すことが減ってきました。そのため、自閉症者の側も「自分は自閉症だ」と言える土壌ができてきました。この社会的な変化が、あげられると思います。

 

 ですから、全部が全部、葉酸のせいにしてしまうのは、とんでもないことです。ですがアメリカでは、食品会社が葉酸を広く添付するようになった時期と自閉症が増加したと思われる時期は、だいたい重なっているのだそうです。

 

 つづきは、次に書きます。

 

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【注1】 鷲見 聡(2011  アスペルガー症候群の最新理解. 自閉症スペクトラム――遺伝環境相互作用の視点から.そだちの科学 17: 21-26. http://www.nippyo.co.jp/magazine/5622.html  この雑誌の記事の中で、小児精神医学者で臨床遺伝学の研究者でもある鷲見 聡さんは、10年前には常識であった「自閉症スペクトラムは遺伝によるものだから変えられない」という状況は変わり、自閉症スペクトラムの原因も、エピジェネティックスによって遺伝要因と環境要因が複雑に絡み合っているのだろうとおっしゃいます。自閉症スペクトラムの遺伝学は、2011年現在でも多くの事はなぞのままですが、「(自閉症スペクトラムの当事者が)変えることのできない部分に対しては、いくら努力しても報われない。そういう場合は、周りの大人たちが、それを『個性』として認める必要がある。一方、変わる可能性がある部分でも、そのために必要な体験がなければ、変化は起こらない。子どもたちひとりひとりの個性を理解して、それぞれに応じて適切な生育環境を与えることは、大人としての重要な使命である」と考えられておられます。

 

【注2】 脳にある海馬の糖質コルチコイド受容体があまり生産されなくなると、ストレス過敏な子が生まれるそうです。これは、メチル化というエピジェネティックな遺伝子制御のためだそうです。ここでは、Weaver, Cervoni, et al. (2004)  "Epigenetic programming by maternal behavior," Nat Neurosci 7 (8): 847-854. http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/15220929を参照のためにあげています。

 

【注3】 糖質コルチコイド受容体とメタボリック症候群の関係については、Witchel and DeFranco (2006) http://www.nature.com/nrendo/journal/v2/n11/abs/ncpendmet0323.htmlを参考にあげています。

 

【注4】 高濃度の葉酸と自閉症の関連については、Rogers (2008) http://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0306987708001631Leeming and Lucock (2009) http://www.springerlink.com/content/e58vh80120316q42/を参照するように勧めています。

 

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)

兵庫県立大学 自然・環境科学研究所

/人と自然の博物館

 

ユニバーサル・ミュージアムをめざして13

 

いろいろな子どもと野外活動をする準備

学校の先生といっしょに考えてみた−2

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)

 

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『コミュニケーション支援用絵記号デザイン原則(JIS T0103)』


 

 マヒと色覚以外のことで、特にお伝えしておきたいのがディスレクシアの問題です。発達障がいの中でも、特にディスレクシアのことを考えてみましょう。

 

 自閉症スペクトラム障がいの子どもに対しては、絵や写真を入れると、とたんに理解しやすくなるそうです。絵や写真が理解を助けると言い換えてもいいでしょう。自閉症の動物行動学者、テンプル・グランディンさんは、文章ではなく、図でものを考えるのだそうです。

 

 グランディンさんはご自分のことを自閉症だといっていますが、神山 忠(こうやま・ただし)さんはディスレクシアです。ディスレクシアは「難読症」とか「読字障がい」とも言われていて、日本語や中国語では漢字が読めなかったり、書けなかったりすることがよくあります。偏(へん)と旁(つくり)も、どちらがどちらだったかわからなくなりますし、「ウ冠(う・がんむり)」や「草冠(くさ・がんむり)」といった冠(かんむり)とルビがごっちゃになって、何を書いてあるのかがわからなくなるそうです。

 

 ディスレクシアの人は、つい鏡文字を書いてしまいます。ある有名な俳優はサインをねだられて、急に書かないといけない時には、Cは「⊂」だったか「⊃」だったかがわからなくなるそうです。そういえばわたしも、CやSがどちら向きだったかわからなくなった記憶があります(左右どちら向きであったかは、今は、こっそり筆記体(ひっき・たい)で書いてみることで、まちがえなくてすむようになりました)。

 

 ディスレクシアを知的障がいだと思っている方がよくいますが、基本的には、まったく違うものです。鏡文字の例でおわかりのように、生まれつき左右の認識があいまいなのです。

 

☆   ☆

 

 ディスレクシアのような現象がなぜ起こるのか、わたしには わかりません。でも、わたしは、左脳と右脳のつながりに秘密があるのだと思っています。

 

 ヒトではことばを話すことやコミュニケーションが、とても重要な日常の行動――重要すぎて普段の生活では、自分が言葉を話す動物だと言うことを忘れるぐらい――になっています。そして、ことばを理解し、構成し、話す中枢(ちゅうすう)は、たいていの人が左脳にあるのです――右脳にある人も、少数ですがいらっしゃいます。ところがチンパンジーやゴリラは〈ことば〉の中枢がないのです。ですから左と右を気にすることもありません。「ヒトのように、右利きが多い」ということもないのです。杉山幸丸さんという京都大学霊長類研究所の先生が、野生のチンパンジーでは左右どちらの腕で食べ物を採ることが多いかを調べてみたことがあります。その結果は、左右の比率は半はんだったそうです。〈ことば〉の中枢がないヒト以外の動物には、右利きや左利きはないのです。

 

 自閉症のグランディンさんは絵や図でものを考えるそうです。右脳は絵や図を使って何かを考える時によく働きますが、ディスレクシアの人も、絵や図は得意だと思います。少なくともわたしの知っているディスレクシアの人は、皆、絵や図が得意です。実は、漢字の学習障がい者(LD)であるわたしも、そうなのです。わたしの場合、鏡文字を書いてしまうというクセは左脳と右脳のつながりが弱いからなのか、右脳の働きが強すぎて、その分、左脳の働きが弱くなっているのかは、今でもわかりません。でも、絵は得意でした。細かいところまで、性格に描(か)けるので、霊長類学のフィールド・ワークでは重宝しました。

 


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 トゲの生えた豆をサルが食べた.わたしがカメルーンで描いたスケッチです.


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クズウコン科のヒプソロデルフィスの果実.これも,わたしのスケッチです.


 

 そして、この事はわかります。鏡文字を書いてしまうディスレクシアの人は、もともと左側・右側の認識が苦手なのですから、左右差を問いかけるような問題を出すのは慎重にした方がいいのです。野外活動では、東西南北と地形の関係が混乱しがちなのですから、それを問うような課題は避ける方がいいと思います。ましてや、わからないからといって罰(ばつ)を与えても、「気を付けていれば、わかる」というわけではないのですから、「苦手な人もいる」といった認識で野外に出る方が、ずっといいと思うのです。

 

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『子ども自然教室 第2版』【注1】の「植物標本を作ろう」

 

 ディスレクシアの人にとっては、文章が縦書きか横書きかというのが大きな問題だと、神山(こうやま)さんが指摘していました【注2】。わたしは、失語症でコミュニケーション障がいになったディスレクシアではなかった人が、まったく同じことを言っていたのを思い出しました。不思議な気がしたのです。ディスレクシアと失語症という、まったく別のコミュニケーション障がい者が同じことを言っている。ひょっとすると、何かつながりがあるのかもしれません。

 

 神山(こうやま)さんは、ディスレクシアの人にとって、一番わかりやすいのは、横書きで分かち書きがしてある時だと言います。たとえば、

 

「たいことばちをもってきて」

 

と伝える時は、

 

「たいこ と ばち を もって きて」

 

と分けて書く方が理解しやすいし、

 

「きょうはてんきがいいので

 そとでたいいくをします。」

 

と書いたのでは、わからないことがあるが、

 

「きょうは/てんきが/いいので/

 そとで/たいいくを/します。」

 

と書くと、とても理解しやすいということです。「たいことばちをもってきて」と続けて書くと、ディスレクシアの子ども(つまり、かつての神山(こうやま)さんご自身)は「鯛・言葉・血を・持ってきて」かなと誤解したというのです。


☆   ☆


 実は、元来の日本語の文章の書き方である縦書きよりも、英語のような横書きの方が理解しやすいということや、分かち書きで書いたり、「/」で切ったりするとわかりやすいというのは、多くの失語症者が同じことを言っています。ただ、失語症の人は、まれな例外を除いて病気やケガで脳の一部が傷ついて〈ことば〉が出なくなった人が多いので、もともと漢字は知っていたはずです。ですから、分かち書きで書いたり、「/」で切ったりする代わりに、漢字を適度に混ぜれば、わかりやすい文章になるのです。

 

 神山(こうやま)さんは、文章は、横書きで分かち書きや「/」で切ってある上に、ひらがな、カタカナ、漢字が混じった文章が一番わかりやすいと言っています。

 

 比較的、高齢者の多い失語症の人に比べて、ディスレクシアの人は、(もちろん高齢者もいますが)年齢に関係なく社会にはいるものです。子どもであれば、各クラスにいるのが普通です。ディスレクシアの人を「障がい者」「障がい児」と捉(とら)えて、文章がよくわからないままにがまんさせるのではなく、文章の伝え方や書き方を工夫してあげれば、多くの人と共通した理解ができるのですから、学校も楽しくすごせそうです。要はコツをつかむことだと思います。コツをつかむのは、ディスレクシアの子どもは自分のことなのですから、当然なのですが、学校の先生や野外活動のリーダーといったおとなも自分のこととして、ディスレクシアの人の読みにくさを実感してもらえれば、状況は、ずいぶん変わると思います。

 

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【注1】 『子ども自然教室』は,全文が人と自然の博物館ホームページからダウンロードできます.『子ども自然教室』は,特に障がい児といっしょに野外活動をすることを意図したものではありませんが,その中の,1.「植物標本を作ろう」,2.「セミのぬけがらで環境を調べよう」,3.「ネイチャーテーリング入門」などはそのまま使えそうです.

 

【注2】 岐阜県立関 特別支援学校教諭の神山 忠(こうやま ただし)さんが出ていたのは、「ディスレクシアとマルチメディアDAISY −当事者そして教育者の立場から」(障害保健福祉研究情報システム HP

 

ですが、同じ講演を動画でしているものもありました。動画では、神山(こうやま)さんの話すようすと音声が聞こえ、それがDAISYになって見えます。河村 宏さんというDAISYの開発に深く関わってこられた方の講演で、DAISYはディスレクシアの人ばかりでなく、高機能自閉症者,パーキンソン病などの病気や薬の副作用のある人,ADHDなどで集中して出版物を読むことが困難な人,さらには幻覚や幻聴があって混乱しやすい人,本を持って読むことが難しい紙アレルギーや麻痺のある人,手話を第一言語とする人,聴覚トレーニングを必要とする難聴者を助ける技術であると言っています。

 

神山忠さんの講演は動画でも 見ることができます2011年調布デイジー講演会)



兵庫県立大学 自然・環境科学研究所/

人と自然の博物館

三谷 雅純(みたにまさずみ)

 

ユニバーサル・ミュージアムをめざして12

 

いろいろな子どもと野外活動をする準備

学校の先生といっしょに考えてみた−1

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)

 

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 夏期教職員セミナー「障がいのある子どもたちとの野外活動入門」というセミナーを担当するようになって、もう何年かになります。

 

 わたしは、もともと霊長類学者(れいちょうるいがくしゃ)です。サルや類人猿の仲間のやることを調べて、ヒトとは何だろうと考えるのが仕事です。ですから、学校やその他の教育施設で子どもたちといっしょに奮闘(ふんとう)している先生に対して、何かをお教えするなんて、とてもできません。おこがましい。わたしは教育の専門家ではありません。

 

 その上、わたしは医者でもありません。子どもの発達や心理にくわしいお医者さんなら、子どもはこういう時、何を求めているとか、言葉に出さないけれども、本当は何をしたいのかといったことがわかるのかもしれません。しかし、これも、わたしにはムリです。一般的な医療現場の経験は、わたしにはまったくありません。

 

 それならなぜ、そんなわたしが「いろいろな子どもと野外活動をする準備」「学校の先生といっしょに考えて」みたいと思ったのでしょうか?

 

 ひとつには、わたし自身が障がい者――脳梗塞(のう・こうそく)をわずらいました――で、健常な人とは違ったものの感じ方や考え方ができるからです。自分に、健常な頃とは違った何かがあると感じるようになったのは、病気の後遺症で、それまで普通にできていたことが(努力しても)できなくなった頃からでした。この感覚は、子どもを前にした学校の先生にもきっと役に立つに違いない。そして、わたしが伝えなければ、健常な先生にはわからないこともあるだろう。そう思いました。

 

 もうひとつは霊長類学という学問との関連です。霊長類学はサルや類人猿のやることを調べますが、本当はヒトのことを知りたいのです。ただヒトの生き方は、どうしても文明や技術といったものの影響を受けて、変わってしまいます。ですから、日本列島に暮らす我われよりも、狩猟採集民や遊牧民の生き方の方がより多く自然に頼っていて、ヒトの本質がわかりやすいのです――日本列島に暮らしてきた人でも、狩猟や漁労を生業にして来た人はいたはずですが、明治時代に、狩猟や漁労は生業ではなくなりました。多くの人は農を営みとしています。近代ではそれが、産業としての農業や林業になりました。

 

 それでは日本列島で暮らすわたしたちの生活には、もうヒトの本質がなくなったのかと言うと、そんなことはありません。日本列島での暮らしにもヒトの本質は隠れています。しかし、それは目をこらさなければ見えてきません。それほど社会のいろいろな制度が発達し、変わってしまったのです。

 

 それに学校の先生と親しくしておけば、「現代の子どもの一面」といった目新しい事が聞けます。それを聞かしてもらえれば、次のセミナーのアイデアが出てきます。参加している学校の先生にも、きっと役に立つはずです。

 

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ネイチャーテーリングをする子どもたち

 

 おわかりのように、ここで言っている「いろいろな子ども」というのは、普通の言い方では「障害のある子ども」となります。わたしのセミナーのタイトルも「障がいのある子どもたちとの野外活動入門」です。ただ、一見「障害のある子ども」でも、その「障害」と呼ばれているものをよく見ると、ヒトのあるべきバリエーションであることが多いのです。さらに、自然なバリエーションとは考えられない病気や事故の後遺症であったとしても、当人が進んで受け入れたものではありませんから、当事者にとって状況はそれほど変わらないのです。

 

 セミナーでは、わたしのマヒに関連づけて、まず障がい児の中ではいちばん人数の多い脳性マヒを取り上げました。脳性マヒの症状なら、わたし自身が片マヒですから、いろいろ共通点が多そうです。

 

 もうひとつは霊長類学との関連で取り上げた発達障がいと色覚の問題です。このふたつは、社会的には障がいと言われますが、わたしは、障がいと言うよりヒトのバリエーションと捉えた方がいいと思います。

 

 発達障がいと色覚の問題は、真剣に取り上げている当事者がいました。社会的にはりっぱに仕事をしている人たちです。

 

 たとえば、自閉症であることを公表している動物行動学者のテンプル・グライデンさん(日本語)や、ディスレクシア(読字障がい)であることを公表している学校の先生、神山 忠(こうやま ただし)さんです。それに、母方の男性と息子さんがディスレクシアで、ディスレクシアのことを研究している発達心理学者のメアリアン・ウルフさん(日本語)もそうです。わたしは、これら当事者がお書きになった本を読み、ホームページを見て、発達障がいとされているものの状況と対応策を学びました(後でくわしく書きますが、わたし自身も、生まれつき、学習障がいだと思っています)。

 

 また、色覚の原理と実際の対応策は、色覚バリアフリーの理解を求める活動をしていて、ご自身が2色型色覚(ご本人が言うには色盲)の岡部正隆(おかべ・まさたか)さんや伊藤 啓(いとう・けい)さんの著作と色覚バリアフリーのホームページを参考にさせていただきました。

 

☆   ☆

 

 学校では発達障がいの事を、「生まれつきの障がいなので治らないが、がんばれば多数者に合わせた生き方ができる」と考えます。多数の健常児のほかに、少数の自閉症やアスペルガー症候群、学習障がい(LD)、注意欠陥・多動性障がい(ADHD)といった類型を持った子どもがいると考えるのです。医学的な研究の現場でも、同じように考えている研究者が多いようです。

 

 ところが、最近になってヒトのゲノム分析が実用化され、ヒトの遺伝子がいろいろわかってくると、ヒトという存在に自閉症やLD、ADHDといった類型に区別するよりも、一見健常に見える多数者から少数の自閉症者まで、言ってみればヒト全体が自閉症スペクトラムの傾向を持つと考える方がよいのではないかと言う人が出てきました。実際に子どもを診ている臨床医には、多い意見だと思います。

 

 わたし自身は、ヒト全体が自閉症スペクトラムだという見方の方がよいように思います。わたしは、マヒになる前から漢字のLDでしたが、それに加えて、ADHDやアスペルガー症候群といった症状の特性も、自分の事のようにわかるからです。

 

 つまり、自閉症やアスペルガー、LDやADHDはヒトの多様性――ちょうどA型やB型のような血液型と同じようなもの――なのだというのがわたしの意見です。こだわりの強い自閉症やアスペルガーの人は研究者に多いですし、こだわりがなければ研究は続けられません。またLDの人は絵や写真といったビジュアル刺激には大変強いので、デザイナーや建築士、医学生では特定のパターンを読み取らないといけないレントゲン医を目指す人が多いと聞きます。一方ADHDの人は、政治家や新聞記者といった、世の中の問題をまんべんなく拾って問題を提起する職業に向いていると聞きました。研究者には自閉症やアスペルガーの人だけでなく、LDやADHDの人もよくいます。いろいろな問題を認識し、解きほぐして、一般の人にわかりやすく解説するのが重要な仕事だからでしょう。

 

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3色型色覚と2色型色覚の比較(ColorDoctorを使いました)

 

 色覚の問題は、近頃は世の中の認識が整ってきました。未だに緑の棒グラフに赤い丸を打つといった、まるで時代に逆行したようなデザインを見かける事もありますが、緑と赤が一部の人には見分けにくい組み合わせだと、多くの人はわかってきたようです。

 

 「ユニバーサル・ミュージアムをめざして6」のさまざまな色覚−1でも言いましたが、ほ乳類はもともと2色型色覚です。緑と赤は見分けることが難しいのです。そのほ乳類の中から、突然変異で3色型の動物が表れました。それが霊長類(れいちょうるい)です。ヒトも霊長類の仲間ですから、当然、3色型が多数を占めます。しかし、この突然変異は多様性のあるものでしたので、ヒトは2色型と3色型がいっしょにいるのです。その上、色覚は性別によって出たり出なかったりします。2色型は男性に多く見られます。ですから、社会全体では、3色型の多数者の中に少数の2色型の、それも、たいていは男性がいるというわけです。2色型色覚は病気や障がいというよりも、ヒトが元来持っている性質だと思います。

 

 「学校の先生といっしょに考えてみた−2」につづきます。

 

ユニバーサル・ミュージアムをめざして11

 

『さわって楽しむ博物館』を

読んでみました

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)

 

 

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 「さわる」という行為は,多くの博物館や美術館ではタブーになっています.ひとはくにはハンズ・オン,つまり,もともと「展示物をさわって楽しもう」という意図で兵庫県のほ乳類はく製を展示したコーナーがありますが,はく製のそばには「お手を触れないで下さい」という,意図とは矛盾した張り紙があります.3階出入り口近くの「森に生きる」のコーナーです(はく製をさわることの意味と限界については,最後にふれます).

 

 小さい頃,ある美術館で油絵の絵の具があんまりデコボコしていたので,その具合を確かめたくてそっと触っていたら,係りの人から叱られたという経験が,わたしにはあります.その油絵があんまり大きすぎたので,しかたなく露出展示――ガラスでおおわない展示をこう呼ぶそうです――をしていたのでしょう.

 

 博物館や美術館の重要な役割は,貴重なものの保存です.ひとはくであれば,化石などは大切に保存しなければいけませんし,滅んでしまいそうな生きた植物は,自然に返すまでの間は,特別な施設で人工的に増やしてやらなければなりません.そのことと大勢の人が「さわる」ということは矛盾しているようです.どうでしょうか?

 

 この『さわって楽しむ博物館』の編者の広瀬浩二郎さんは,国立民族学博物館の研究員です.ご自身が全盲の視覚障がい者で,科学研究費プロジェクトの代表としてこの本をまとめられました.プロジェクトの名前はユニバーサル・ミュージアム研究会といいます.

 

 国立民族学博物館(みんぱく)は,昔からマイノリティーの立ち場を尊重してきた博物館です.民族学は世界中のさまざまな人びとの生活や考え方を調べる学問ですから,マイノリティーの立ち場を尊重するというのも,うなずけます.それに,みんぱくの初代館長は梅棹忠夫(うめさお・ただお)さんです.梅棹さんは強度の弱視でした.弱視の梅棹さんであってみれば,マイノリティーの立ち場を尊重するのも当然でしょう.もっとも,梅棹さんは「ほとんど視力を失った」ということでは確かにマイノリティーなのですが,「マイノリティー」という括りでは収まりきらない人だという気がします.

 

 梅棹さんは,ひとはくとも関係があります.ひとはくの館長だった河合雅雄さんは学部時代,梅棹忠夫さんの指導で卒論を書かれたそうです.思わぬところで,思わぬ人に巡り逢うものです.

 

 「さわる」話題に戻ります.

 

 広瀬さんは,視覚障がい者のことを「常日ごろ,手で触れることに慣れた人」という意味で「触常者」と呼んでおられます.「触常者」にはモノに「さわる」時,大切なマナーがある.それは,"優しく"資料を取り扱い,"ゆっくり"時間をかけて鑑賞する,そして想像力と創造力を発揮して「モノとの対話」を実践するというマナーだとおっしゃいます.多くの博物館や美術館関係者の心配をよそに,このほど注意してモノにさわるのですから,たとえ壊れやすい磁器のようなものであっても,壊すことはありません.そのようにしてミュージアム,つまり博物館や美術館で学ぶことを,広瀬さんは「手学問」と呼ぼうと提案しておられます.

 

 ひとはくを訪れる来館者には,「見学時間は全体で2時間.お弁当を食べて昼過ぎには帰る予定」などという団体があります.これなど視覚に頼らないと「2時間でざっと見わたす」こともできません.とても,「手学問」で,"優しく","ゆっくり"と「モノとの対話」を実践することなどできそうもありません.(印刷をした)カタログのような「2時間でざっと見わたす」といった扱いでは,せっかくの展示物が哀れにさえ思えてきます.

 

 わたし自身は視覚障がい者ではありません.広瀬さんのようには「さわる」ことに慣れているわけではないので,「手学問」という言葉で表されるほど深く,触覚でモノと対話した経験はありません(なかったと思います).しかし,広瀬さんがおっしゃっているのは,見学態度だけを言っているのではないようです.それは,モノを通して時間や空間の広がりを感じ,さらにはモノを通して人と人が結びつく,そのダイナミズムをおっしゃっているような気がします.

 

 『さわって楽しむ博物館』の第5章美濃加茂市民ミュージアムの藤村 俊さんがお書かきになった「人が優しい『市民ミュージアム』」という文章は,その事がとてもわかりやすく書いてあります.藤村さんは「博物館とは『ものと人』の繋(つな)がりを通じて,『人と人』の繋(つな)がりを強める場所」だとおっしゃいます.美濃加茂市民ミュージアムでは古墳時代の勾玉(まがたま)を,それも本物の勾玉を,手にとって,ゆっくりとさわることができるのです.まさに「手学問」です.大切にさわり,次の観覧者にそっと手渡す.本物の勾玉が傷ついたら大変です.でも,観覧者は古代の勾玉から時代の流れを感じ,優しく次の観覧者に手渡すことで,人と人の繋がりを再確認できるのです.

 

 

Minokamo_City_Museum.jpg

美濃加茂市民ミュージアムのページ

 

 ひとはくでたとえるなら,研究員やフロアスタッフ,市民団体「人と自然の会」の皆さんとその他の来館者が,人と人の関係を結べるようなものではないでしょうか? 博物館で過ごす,ゆったりとした時間の流れを感じませんか? 博物館や美術館というのは,元来,そのような場所なのかもしれません.

 

 第15章のキッズプラザ大阪の石川梨絵さんは,ユニークな報告をお書きになっています.「子ども向け暗闇体験プログラムの教育的効果」という題で,「暗闇でさわることを学ぶ」という報告です.あるアクティビティで,子どもたちとスタッフが,真っ暗な中をロープを頼りに歩いていきます.途中には,ぬいぐるみやカイロ,保冷剤など,触覚と温度を感じる皮膚感覚を刺激するモノが置いてあります.ぬいぐるみやカイロなら,さわっても安全です.子どもたちはキャーキャー騒ぎながら,やっとのことで終点のテーブルにたどり着きます.そのテーブルには「触常者」,つまり視覚障がい者の広瀬さんがいて,真っ暗闇の中で,座る位置まで子どもたちを誘導してくれるのです.

 

 

KidsPlaza_Osaka.jpg子ども向け暗闇体験プログラムのようす

 

 「この暗闇体験を通して,子どもたちの視覚障害者へのまなざしが変化する」と石川さんは言います.子どもたちの目の前にいるのは,「支援の必要な不自由な人」ではなく,「暗闇の中でも自分たちを誘導できる」スーパーマンのような「触常者」なのです.このことで人が持つ多様性を学びます.そして多様性を学ぶことで,子どもたちは「触常者」を尊敬しはじめるのです.

 

 これこそ「モノを通して,人と人が結びつくダイナミズム」です.

 

 この『さわって楽しむ博物館』を読んでいて,わたしの得意なことは何だったのだろうと,しばらく考え込みました.現役のフィールドワーカーであった頃には,一日中歩いて疲れはてても,冷静にものが考えられることであったのかもしれません.あるいは,最近であれば,ほかの人よりも早く原稿が書けることでしょうか? そんな自分の得意なことがすなおに認められれば,ろう者やマヒのある人,高齢者や社会的なマイノリティーもスーパーマンになれそうな気がします.そこでは,敬意を持って人と人が結びつくダイナミズムが見られることでしょう.

 

 最後に「さわる」という行為とひとはく3階のはく製の展示について,わたしの意見を書きましょう.

 

 わたしは基本的に「はく製は,触るものではない」と認識しています.ハンズ・オンの展示ということで,はく製を出すことが決まったのですが,はく製はハンズ・オンには適当でないように思います.

 

 わたしが「はく製は触るものではない」と言うのは,決してはく製が傷むからではありません.はく製に触れた人が危険だからです.幸い,ひとはく3階の「森に生きる」に使っているはく製は,害になる防腐のための薬品は使っていません.ですから,たとえ子どもが触れたとしても,うるさく叱る必要はありません.しかし,昔,作られたはく製には,さわると害になるものが,現実にあるのです.そのことをていねいに教えるのがおとなの役割だと思います.ですから,はく製をハンズ・オンに使うのは反対なのです.

 

 はく製ではなく,はく製に代わる似たものを探してみましょう.動物の頭骨はどうでしょうか.これなら防腐をしてありません.さわっても安心です.それこそ「手学問」で,"優しく","ゆっくり"と骨との対話をしてみれば,見ただけではわからなかった発見がいろいろあるはずです.

 

 わたしは.生まれて初めてチンパンジーの頭骨を手にした時のことが忘れられません.それはガイコツなどではありませんでした.脳が入っていた穴を下からのぞき込むと,生きていた頃のチンパンジーの思念が,思わず立ちのぼるのを感じたのです.科学とは別のものが立ち上がった瞬間でした.

 

 

三谷 雅純(みたに まさずみ) 

兵庫県立大学 自然・環境科学研究所

/人と自然の博物館

 

『さわって楽しむ博物館――ユニバーサル・ミュージアムの可能性』

(広瀬浩二郎 編著,青弓社)

 

ユニバーサル・ミュージアムをめざして10

 

失語症者に助けてもらう−3

 

Picture7_544pic.jpg 

 活字を大きくして,漢字に直した,デイジー版『くんくんくん おいしそう』は,協力して下さった多くの失語症者にも理解していただけたようです.ただ,どうしても理解できない人がいました.どうしたのでしょう?

 

 失語症者に助けてもらう−1に,すでに書いた事ですが,わたしたちはたくさんの失語症者を前にすると,どうしても「失語症者」とひとくくりにしがちです.でも,障がいは人によって違います.<話せない>人や<書けない>人だけでなく,<聞いて理解できない>人も<読んで理解できない>人もいます.そんな人が、デイジー版の『くんくんくん おいしそう』を「分からない」と言っておられたのです.この困難をどう克服するかは,これからの課題です.

 

 聴覚失認の人 (1) にも,うまく聞いてもらう事ができませんでした.

 

聴覚失認の人は,耳では音を「聞いている」のですが,脳が音を認識できません.その上,話すことや書く事もうまくできません.そんな人は,普通の人のように,短時間で もの事を理解するのが大変なのです.このことは、失語症者友の会の代表の方からも、うかがっていました。それでも皆さん、知識を求めておられるのです。

 

わたしがデイジーで作った文章は,(わたしが付いていたとしても)機械で伝えるのですから,「相手が理解できた事を確かめて,次を読む・画面に表示する」ということはできません.できる事と言ったって,せいぜい <読む・画面に表示する> スピードを変える事ぐらいです.

 

 「機械で作った声」を聞いてもらったのも問題だったかもしれません.人間の声と機械の声は,同じように聞こえても微妙に違います.「『機械で作った声』は,どこか違う」と指摘した失語症の方もいらっしゃいました.

 

 人間の声と機械の声は微妙に違うから,朗読ボランティアという存在が必要なのです.でも,わたしの回りに朗読をして下さる方は,さしあたって見つかりませんでした.第一,これは研究なのですから,本当は朗読をして下さる方にアルバイト代をお払いして,読んでもらうべきなのです.しかし,残念ながら,そんなお金はありませんでした.ただ、DAISYを作ったり,<聞く・読む>ためのソフトは、無償で手に入ります (注2).最初のうちは,これで充分です.

 

 でも,こんな研究は,何だかすてきだと思いませんか?

 

 失語症者でも,症状の重い人は「保護を受けるだけの人」だと思われてきました――今でもそう思っている方が,障がい者の側にも,障がい者でない人にも,たくさんいらっしゃいます.ところがユニバーサル・ミュージアムの実現には,健常者には不可能な<独特の感じ方>が大切なのです.そんな特別な<独特の感じ方>をする人は,まだ,わたしたちが気づいていないだけで,世の中には,たくさん,いらっしゃることでしょう.それは何も障がい者に限った事ではありません.

 

 ある展示を見た時,健常者はガラスの中に展示されたものを普通に見,パネルに印刷された解説を,普通の事として読みます.しかし,視覚障がい者はガラスに囲まれた展示物など何もわかりませんし,コミュニケーション障がい者はパネルに何が書いてあるのかがわかりません.この研究では,コミュニケーション障がい者の代表として,失語症者が協力してくれたのです.

 

 前にもユニバーサル・ミュージアム:ことばの整理に書いたことがあります.ユニバーサル・ミュージアムというのは,ユニバーサル・デザイン――デザインは美しいに超した事はありませんから,インクルーシブ・デザイン――の考え方を取り込んだ博物館や美術館や図書館といった生涯学習施設(しょうがいがくしゅう・しせつ)のことです.みんなの知恵を集めれば,みんなでいっしょに使えるものになる.その「みんな」の中には,いろいろな障がい者もいれば,母語の違う(日本語がうまく話せない)人もいる.小さな子どももいれば,おじいさんや おばあさん もいるのです.そうした人が誰でも気がねなく集まって,学べる場所を作る.そんな場所を創造する.それが<ユニバーサル・ミュージアムを作る>という意味です.

 

 ユニバーサル社会という理想があります.それが実現したら,どんな社会ができるのか,わたしにはまだ,よくわかりません.しかし,ユニバーサル社会は創造していかなければなりません.そしてユニバーサル社会とは,働き盛りの,健康な人だけが作るのではありません.決して「保護を授(さず)ける社会」がユニバーサル社会ではないからです.それは多様な人――健常者や障がい者や母語の違う人や年齢の違う人やら――が力を合わせて作り出す,未来のあるべき社会です.そのひな形がユニバーサル・ミュージアムなのです.

 

 わたしは,ユニバーサル・ミュージアムというのは,ユニバーサル社会を実現するための社会実験だと思います.

 

 

Gorilla&Tree.jpg『くんくんくん おいしそう』(阿部知暁,1994)

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)

 

兵庫県立大学 自然・環境科学研究所

/ 人と自然の博物館

 

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 (注1) 医学的には,人のしゃべり声と,風の音や水の音のような環境音(かんきょう・おん)は別なのだそうです.人のしゃべり声が認識できないと純粋語聾(ご・ろう),環境音が聞こえないと(狭い意味の)聴覚失認(ちょうかく・しつにん)と呼ぶそうです.ですから,デイジー版の絵本の機械で作った「声」が聞こえないのなら,本当は語聾(ご・ろう)と言うべきかもしれません.ここでは音が認識できない人を,広い意味で「聴覚失認」と呼んでいます.その人は,大人(おとな)になってから失語症になったので,中途失聴者(ちゅうと・しっちょうしゃ)――普通に生活をしてきたのに,事故や病気で聞こえ方が悪くなった人――の立ち場に似ています.

 

 (注2) Microsoft Windows のパソコンに Word というワード・プロセッサが入っていれば,Word 2007Word 2003,またはWord XPの文書からなら,組み込みソフトSave as DAISY Translator2.1.1.0日本語版でデイジー文書が簡単に作れます.Save as DAISY Translator2.1.1.0日本語版は,()日本障害者リハビリテーション協会DAISY研究センターのウェブサイトから,無償でダウンロードできます.

 

DAISY Translator日本語版

 

 ただし,音声合成エンジンをインストールしていないとデイジーはできません.DAISY Translatorを使用して音声の入ったデイジー文書を作成するには,音声合成エンジンが必要なのです.マイクロソフトで,障害のある人向けに日本語音声合成エンジンを配ってくれます.無償です.ドキュメントトーカ日本語音声合成エンジン (クリエートシステム開発株式会社製) CD-ROM申し込み先は次の通りです.

 

日本語音声合成エンジンのご提供について

 

 デイジー文書の再生ソフトは,ATDOのウェブサイトから AMIS3.1日本語版が無償でダウンロードできます.

 

AMIS3.1.3 ファースト・ステップ・ガイド

ユニバーサル・ミュージアムをめざして9

 

失語症者に助けてもらう−2

 

 

Picture3K_enlarge.JPGのサムネール画像 デイジー,つまりDAISYというのは,Digital Accessible Information Systemの事です.デジタル情報を得るために、年齢や障がいがあってもなくても、誰でも使えるシステムを作ろうという、デジタル録音図書製作の国際規格です。本が好きな視覚障がい者や高齢者,さらに,難読症とか識字障がいとも呼ばれるディスレクシアやADHDの人でも,本が読めます.本や文章を声で記録したり,機械に読ませたりして,自由に再生して聞けるように工夫なのです。字が画面に映り,読んでいるところは背景の色が変わります.

 

 マルチメディア・デイジーというのもあって,これだと絵や写真が入れられます.絵や写真なんて,あっても,なくても,視覚障がい者には関係がないかもしれません.でも高齢者やデスレクシアの人がデイジーを使う時には,なくてはならないのです.絵や写真があるかないかでイメージは大きく変わります.イメージが豊かに脹(ふく)らむのです.これを読んでいるあなたは健常であっても,絵や写真でイメージが脹(ふく)らむことは同じでしょう.そうではないですか?

 

 このひとはくブログで「失語症者に助けてもらう−1」を書いた後,しばらくして,「『デイジー』とか"DAISY"とか言ったって,いったい何の事かわからない」と,何人かの人から文句を言われました.もっともです.

 

 特定非営利活動法人 支援技術開発機構のホームページ「DAISYについて」を見て下さい.わたしが言っている事の意味が,よくわかると思います.

 

 さらに詳(くわ)しく知りたい方は,障害保健福祉研究情報システムの数多くの文献を参考にして下さい.

 

 もともとデイジーは視覚障がい者が読書をするために開発された技術です.わたしは,それを,博物館や美術館の展示解説に利用できないかと考えたのです.利用できるかどうかを確かめてみるには,何か展示解説の文章をデイジーで作ってみて,コミュニケーション障がい者に試しに読んでもらうのが早道です.でも,本物の展示なしに解説だけを読んでほしいと言ったって,それは無理でしょう.

 

 そこで,デイジー版の『くんくんくん おいしそう』を作って,見てもらう事にしました.作ったのが次のものです.

 

Picture1_original.JPG

もともとの『くんくんくん おいしそう』のはじまり

 

 

 実際には,この絵本を機械が読んで,読んでいるところの文章が,順番に一行,黄色い色がつきます.でも,これだと字が小さいですね.字は大きい方が見やすいかもしれません.

 

Picture1_original+enlarge.JPGひらがなのまま、少し字を大きくした『くんくんくん おいしそう』

 

 

 大分,見やすくなったのではありませんか? でも,文章が,「ひらがな」と「カタカナ」ばかりです.皆さんは不思議に思われるかもしれませんが,コミュニケーション障がい者には,「ひらがな」と「カタカナ」ばかりだと,かえって読みにくい人がいるのです.失語症者は,特にそうです.

 

 そこで,わざと子ども用に書いた『くんくんくん おいしそう』の原文を,いったん漢字に直す事にしました.分かち書きはそのままです.

 

Picture1K_enlarge.JPG

字を大きくして、漢字に直した『くんくんくん おいしそう』

 

 

 デイジーですから,漢字に直しても機械が読んでくれます.いかがでしょうか?

 

 『くんくんくん おいしそう』の本の紹介も,しておきましょう.それは,こんなお話です.

  Lefini_961101_Masisa_eats_fruits.jpgのサムネール画像

 アフリカのンドキの森にいるゴリラと,チンパンジーと,アフリカゾウが,果物(くだもの)の甘い匂いに誘われて,1本の木にやって来ます.みんなは,おいしい果物(くだもの)を食べて,満足して帰っていきます.その帰り道,ゴリラも,チンパンジーも,アフリカゾウも,お腹がいっぱいになったので,ウンチをしながら帰ります.そして,何日も何日も雨が降ります.ゴリラが気がつくと,ゴリラのウンチからは,あの果物(くだもの)の芽が出ていました.チンパンジーやアフリカゾウのウンチからも,芽が出ている事でしょう.その芽が,やがて若木に育ちました.ゴリラはそれを見て,それが果物(くだもの)を実らせる木だと気がつき,うれしくなりました.

 

 

 このお話は,基本的に事実です.ゴリラも,チンパンジーも,アフリカゾウも,だいたい同じ種類の果物(くだもの)を食べます.そして,ゴリラも,チンパンジーも,アフリカゾウも,ウンチには,生きた種が入っています.やがてその種(たね)は,ウンチからいっせいに芽を出し,その内の1本が生き残って,次の世代の森を作るのです.

 

 果物(くだもの)の木はゴリラや,チンパンジーや,アフリカゾウに種(たね)を運んでもらい,ゴリラや,チンパンジーや,アフリカゾウは,果物(くだもの)を食べる事で次の世代の森を作ります.持ちつ持たれつの関係です.

 

 ゴリラのウンチを見つけると,わたしは大喜びで拾い,水で洗って,ゴリラが食べているものを確かめたものですが,ある日,わざとゴリラのウンチを,そのまま放っておいた事があります.どうなったかというと,ウンチからは,ゴリラの食べた果物(くだもの)の種(たね)が,本当に,いっせいに芽吹いたのです(写真).

 

Sprouting_GorillaDung.jpg 

 字を大きくし,漢字に直したデイジー版『くんくんくん おいしそう』は,協力して下さった多くの失語症者には,理解できたようです.ただ,どうしても理解できない人もいました.どうしたのでしょう? 何か,まだ足りない事があるのでしょうか?

 

 つづきは次に書きます.

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)

 

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 障害保健福祉研究情報システムの数多くの文献から,ここではDAISYEPUBは読書のユニバーサルデザインをどう実現するのかという,河村 宏さんというデイジーの開発に深く関わってこられた方の講演内容を,ごく簡単に紹介しておきます.

 

 DAISY(デイジー)というのは,さまざまな社会的に弱い立場の人が本を読めるようにしようというデジタル録音図書製作の国際規格です.それとは別に,EPUB(イーパブ:EpubePubと書く事もあります)と呼ばれる規格があります.今,はやりの電子出版のひとつで,将来的には標準形式になるかもしれません.河村さんによると,DAISY(デイジー)とEPUB(イーパブ)は兄弟や姉妹のような関係にあり,近い内に,互いに互いの形式に代われるようになるそうです.

 

 つまり,電子出版で出ている本をEPUB(イーパブ)で取っておけば,簡単にDAISY(デイジー)に変換できるし,反対も簡単になりそうだと言うのです.

 

 DAISY(デイジー)とEPUB(イーパブ)を調べてみると,どちらもXHTMLという言葉で表した形式で,もともと近いものだったようです.そう言えば,このひとはくブログもHTMLという言葉で表したものですね.HTMLで表しておくと,どんなコンピュータでも再生できて,便利なのだそうです.

ユニバーサル・ミュージアムをめざして8

 

失語症者に助けてもらう−1

 

AbeChisato_book.jpgのサムネール画像阿部知暁さんの絵本『くんくんくん おいしそう』の表紙

 

 

 失語症(しつご・しょう)というのは、脳の言語中枢(げんご・ちゅうすう)にダメージを負って、<ことば>が思うように出なくなることです。<ことば>は、人間にとってとても大切なものです。現代では、脳に栄養を送る血管が傷ついて起こる脳梗塞(のう・こうそく)が原因でなる人が多いのですが、事故で脳が傷ついたり、脳梗塞以外の病気でも起こります。どのような原因であったとしても、脳の言語中枢がダメージを負えば起こるのです。

 

 失語症は、人によって症状が大きく変わります。複雑な言語中枢のどこが傷ついたかで変わるのです。人によって、<話せない>とか<書けない>という人もいますし、<聞いて理解できない>という人や<読んで理解できない>人もいます。

 

 一般の人に分かりにくいのは、<読んで理解できない>人のうち、「ひらがな」が理解しにくくなった人のことです。「『ひらがな』なんて小学校で最初に習うのに、それを理解しにくくなる理由がわからない」と思われた方が多いでしょう。しかし、現実に「ひらがな」を読んでも、うまく理解できない人は多いのです。そのような人は「〜は」とか「〜が」とかの格助詞もうまく使えないような気がします。少なくとも、わたしが接した経験では、多くの人がそうでした。

 

 わたし(三谷雅純)も、脳塞栓症(のう・そくせん・しょう)という脳梗塞(のう・こうそく)の一種で失語症になったのですが、わたしの場合は、うまく<話せない>ことはあっても、<書けない>とか<聞いて理解できない>、あるいは<読んで理解できない>ということはありませんでした。それでこのようなブログも書いています――話し声しか伝わらないので、失語症者は電話が苦手です。わたし(三谷雅純)も苦手です。その代わり、現代では電子メールがあります。電子メールなら<書く>とか<読む>とかですので、わたしの場合は問題がありません。

 

 コミュニケーションの機会が奪われていることは、別の機会も奪います。若い失語症者には学校教育もそうですが、多くの失語症者では、生涯学習の機会が奪われているのです。

 

 失語症者の多くは、豊かな人間性や知性、物を知りたいとか、学びたいという意欲を持っています。脳梗塞(のう・こうそく)のために意欲がなくなった失語症者もいますが、そのような人は、<ことば>が通じないことで二次的に「うつ」になったり、認知症になった人が多いのではないでしょうか? 他のコミュニケーション障がい者も同じだと思います。そのような失語症者をはじめとするコミュニケーション障がい者は、知らず知らずの内に生涯学習施設から排除されがちです。なぜなら、生涯学習施設――人と自然の博物館がそうですが、美術館や図書館といった多くの生涯学習施設――で、学習のためにもっとも基本となる<ことば>への工夫がないからです。何だか理不尽ですね。

 

 生涯学習施設は、建前(たてまえ)の上では、老若男女(ろうにゃく・なんにょ)、あらゆる人に開かれた学習を提供する場のはずです。ただ建前ではそうなのですが、現実に多くの生涯学習施設は、障がい者には近づきにくい施設でもあるのですたとえば視覚障がい者です。全盲の人にとってガラスの囲まれた展示などは何の意味もありません。誰も「ガラスが触りたくて」博物館に来る人はいません。同じように発達障がい者、中でもデスレクシア――難読症とか読字障がいとかとも呼ばれます――の人は、展示解説を読んでも正確にはわかりません。それに失語症者や認知症者もです。何とかしたいですね。

 

 今、わたし(三谷雅純)は、失語症やデスレクシアなどのコミュニケーション障がい者にも読んでもらえるようにと思って、(さしあたっては)展示解説の工夫を考えています。ただし、普通の人に違和感が残るような文章ではいけません。どのような工夫かというと、展示解説をデイジー形式でできないかと思ったのです。

 

YoungGorilla_Ndoki.jpgのサムネール画像 

 デイジー、つまり DAISYDigital Accessible Information System =デジタル情報を得るために、年齢や障がいの有無に関係なく、誰でも使えるシステム)というのは、デジタル録音図書製作のための国際規格です。本や文章を声で記録して、自由に再生するための規格です。日本ではおもに視覚障がい者に利用されています。視覚障がい者にも読書の楽しみを知ってもらおうと、点字図書館や視覚障害者情報センターが中心になって、全国のあちこちで印刷した書籍を、点字とともにデイジーに直そうと取り組んでいるのです。わたし(三谷)の知っている方も朗読ボランティアに参加していらっしゃいます。人の声なら自然な印象を与えるからです。しかし、機械に朗読してもらうこともできます。DAISYで作成した本や文章には専用の再生機があり、普通のパソコンでも再生できます。

 

 さらに最新のマルチメディア・デイジーでは、コンピュータが読み上げると同時に、読み上げたところの色が変わります。文章と共に絵や写真まで参照できるのです。視覚障がい者だけなら、あってもなくてもいい機能のようですが、ディスレクシアの人は「読み上げたところの色が変わる」ことが大切です。どこまで読んだのかが、わかるからです。失語症者にとっては、声に出して読んでくれることや読んでいるところの文字の色が変わることで、失語症者にも理解しやすい「漢字とかなのルビや併記」とか「分かち書き」と同じ効果が期待できます。

 

 機械に読ませるのなら、デイジーで本を作ると言っても、そう難しいことではありません。テキスト・ファイルにしたデジタル情報があればいいからです。しかし、その前に、まずは失語症者をはじめとするコミュニケーション障がい者が興味を持ってくれるような本を選ばなければいけません。また、失語症者には<聞いて理解できない>人や<読んで理解できない>人がいますが、どの人にも「読んでもらう」ためには、あまりに長いものはいけません。集中できないからです。まずは適した長さのものを選ぶことが大切です。

 

 わたしは、『くんくんくん おいしそう』という絵本を、デイジー形式に直してみました。昔、わたし自身が調査をしていたコンゴ共和国の「ンドキの森」の、ゴリラやチンパンジー、アフリカゾウのことを描いたお話です。『くんくんくん おいしそう』は、画家の阿部 知暁(あべ ちさと)さんが、1994年に福音館書店からだされた絵本です阿部さんや福音館書店の担当者には、デイジー形式にすることを了解していただきました。

 

AMIS_AbeChisato_book.JPG

デイジーに直した絵本の1ページ

 

 続きは次に書きます。

 

三谷雅純(みたに まさずみ)

ユニバーサル・ミュージアムをめざして7

 

さまざまな色覚−2

 

 


 今回書くことは、クラスでプリントを配ったり、色チョークを使ったりする学校の先生にも、きっと役立つはずです。先生が配色を考慮してくれたら、しなくてよい苦労をせずにすむ生徒は、どこのクラスにもいるのです。前回から書いていることは、博物館に関係した方だけでなく、まだ色覚のことにくわしくない学校の先生にも、読んでいただきたいのです。

 

 

 さて、

 

 インドネシア、ジャワ島のパンガンダランという海岸近くの森に住むカニクイザルは、たいていは3色型色覚ですが、たまに2色型色覚のオスがいます。2色型色覚では、光の具合によって赤と緑の区別が難しいのです。皆さんは、そんなカニクイザルは、さぞかし緑の木の葉の中からでは赤い実を見つけるのに苦労していると思ったことでしょう。ところがそのカニクイザルは、3色型色覚のカニクイザルと同じように、何の不自由もなく、赤いおいしい実をじょうずに選んで食べていたそうです。2色型の色覚は、森で生きていくのに、たいして問題にはならないのでしょうか?

 

male97Jan31.jpg 

 ヒトの色覚は遺伝的な多様性を示します。血液型と同じことです。ヒトは霊長類ですが、カニクイザルをはじめ多くの霊長類の仲間でも基本は同じです。多くの3色型色覚の個体がいて、少しだけ2色型の個体がいる。ヒトの2色型色覚は男に多く、女には少ないのですが、それも同じだと思います。この色覚の多様性は、自然の中では問題になりません。

 

 ヒトは、長い間、狩猟採集生活をしてきました。その生活は、何万年か、何十万年か、ことによると、何百万年よりももっと長い間続けてきたのかもしれません。チンパンジーはさまざまな動物を捕(つか)まえて食べてしまいますが、チンパンジーの〈狩り〉を「狩猟」と呼ぶのなら、ヒトの狩猟もチンパンジーの時代から続いてきた事になるからです。そんな長い時間を、ヒトは色覚を意識せずに暮らしてきました。農耕が起こってからも同じです。

 

 くわしく説明しましょう。ものごとの性質は色だけで決まるわけではありません。つややかな光沢や新鮮な匂い、触った時の張りのある感触でも、おいしいか、おいしくないかがわかります。役に立つか、立たないかがわかるのです。ヒト本来の狩猟採集生活や農耕生活では、このような色以外の手がかりがあって、3色型色覚であるとか、2色型色覚であるとかに関わりなく、生活ができたのです。

 

 それではなぜ、現代に生きる人は2色型色覚を問題にするのでしょうか? それは、印刷したりテレビやコンピュータの画面に映ったものには、色以外の手がかりがないからです。

 

 いくらおいしそうに印刷してあっても、印刷物は実物とは違います。料理をテレビやコンピュータの画面に映しても、おいしそうな匂いまでは再現できないのです。

 

 わたしたちの回りには、印刷したものや画像があふれています。人と自然の博物館も同じです。パンフレットや展示解説にしても、情報端末(じょうほう・たんまつ)と呼ばれるコンピュータの画面にしても、2色型色覚を意識しなければ、きっと見にくい来館者がいるのです。そしてそんな人は、多数者が想像する以上に多いのです。

 

 3色型色覚の人が2色型色覚の人の見え方を体験する事は可能でしょうか? 3色型色覚の人用に2色型色覚の人の見え方を、擬似的(ぎじてき)に体験できるコンピュータ・ソフトがあります。わたしがよく使っているのは、Windowsで使えるカラードクターというソフトです。

 

カラードクター 2.1 for Windows

 

 これ以外にも、さまざまな色覚シミュレーション・ソフトが公開されています。有料のものや無料のものがあります。お好きなものをお使い下さい。

 

いろいろな色覚シミュレーション・ソフト

 

 ためしに、わたしが撮った博物館での野外活動のようすを、色覚を変えて見てみましょう。写真の左側が3色型色覚の人が見た時のようす、右側が2色型色覚の人が見た時のようすです。

 

comparison_Color vision.JPG 厳密には、2色型色覚といっても、びみょうに異なる色覚があるのでますが、ここでは代表的な色覚を取り上げました。くわしくは、カラー・ユニバーサルデザインの解説を見て下さい。

 

カラーユニバーサルデザインとは?

 

 このふたつの図の比較で、2色型色覚の人は、(1)赤が黒っぽくなって目立たないこと、(2)緑の葉は黄色く見える事、一方、(3)中央の青いブラウスの色はそのまま見えているがわかります。つまり、赤と緑は区別しにくいが、黄と青は見やすいのです。

 

 この色の特性を考えて、色づかいのユニバーサルデザイン、つまりカラー・ユニバーサルデザインでは、どういう色を使えば多くの人に見やすくなるかが岡部正隆さんと伊藤啓さんの書かれた論文(岡部・伊藤,2002 細胞工学 21)に載っていました。紹介します。

 

岡部・伊藤,2002 細胞工学 21: 1080-1140

 

 実際、どう見えるのかは2色型色覚の方に聞いてみるのが一番ですが、要は、色づかいでは、赤や紅色は避ける。使う場合はオレンジや赤紫をつかう。緑は避けて、使いたい場合は青や水色をつかう。青緑は灰色と混同しがちなので、青にしてしまう、といった事がポイントとして載っています。

 

color_Barrier free.JPG 

Barrier free.JPG わたしはこのような注意点だけでは不安なので、念のために色覚シミュレーション・ソフトを使っています。色のついたプリントを配るのなら、皆さんもシミュレーション・ソフトを使って、自分とは違う色覚の人がどのように見えているのかを確かめてみるといいと思います。

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)

ユニバーサル・ミュージアムをめざして6

 

さまざまな色覚−1 

 

 

 もともと地球上のいくつかの動物では、4色型色覚とか、それ以上の色覚を持っている(今井啓雄,2012: 『新・霊長類学のすすめ』(丸善)という本の中の「ポストゲノム霊長類学」に載っています)のが普通だそうです。たとえばモンシロチョウの羽根は、われわれヒトが見ても白いだけですが、モンシロチョウ自身が見ると色が付いているのだそうです。ミツバチが紫外線を色として感じるというのも同じです。

 

 ところがほ乳類になると、大部分は2色型色覚になってしまいました。ゲノム解析という技術が進歩して、そんなことまでわかるようになりました。昔、イヌやネコは色覚のない、白黒の世界に生きていると信じている人がいたのですが、そうではありませんでした。

 

 別に言い方をすると、「昆虫は目に頼った生活をするものがいる」ということになります。でも、コオロギやスズムシやセミなどはよく鳴きます。「目に頼った生活をするもの」とは違うようです。視覚重視の生活をするモンシロチョウやミツバチと、聴覚重視と考えられるコオロギやスズムシやセミは、いったいどこが違うのでしょう?

 

 ひとつの違いは昼行性と夜行性ではないでしょうか? 昼間、やかましく鳴くセミは別ですが、視覚重視の昆虫は昼行性、聴覚重視の昆虫は夜行性と分けられるのかもしれません。それに、昼行性のモンシロチョウやミツバチは鳴きませんが、夜行性のコオロギやスズムシはよく鳴きます。鳴くものと鳴かないものとで分けられそうです。

 

 それでは、どうしてほ乳類は2色型色覚になってしまったのでしょう? それはたぶん、ほ乳類も夜行性が関係していそうです。夜、恐竜の足もとをすばやく動き回る生活です。鳴き声もあまり多くはありません。第一、夜はあまり色が見分けられないでしょう? 色の情報はあまり必要なかったようです。それよりも、匂いをかいで食物を探し、恐ろしい動物が忍び寄るのを聞きわけられるような敏感な耳が大切だったのではないでしょうか?

 

 でも、それなら、昼間活動するウシやウマは、どうして2色型色覚のままなのでしょう? ウシやウマは草の新芽や若葉が大好きです。草や葉なら、色は見えなくても、舌で触ったり、匂いをかいだりすればおいしい食べ物かどうかがわかります。肉食獣のヒョウやライオンも、さほど色に頼った生活はしてなさそうです。ほ乳類の生活 には、2色型色覚でじゅうぶんだったのかもしれません。

 

 その色覚が、霊長類になって3色型色覚になりました。中南米にいる新世界ザルは、オスとメスで色覚の異なる種類がいるので事情がちょっと複雑ですが、アジアやアフリカに住む旧世界ザルと類人猿――チンパンジーやゴリラ、オランウータンなどがいます――は、ヒトと同じ色覚です。ですから、人と自然の博物館の4階にある、フロア・スタッフの方がいるコーナーのそばにある京都大学霊長類研究所のチンパンジー・アイの描いた絵は、何となくヒトが描いた絵と同じに見えます。どうでしょうか?

 

ai_picture.jpgのサムネール画像 どうして霊長類だけが3色型色覚になったのでしょうか? わたしは果実が好きな霊長類だから、緑の葉っぱの中で赤い実がよく見えるように3色型色覚になったのだと信じていました。つまり、サルやホミニッド――類人猿とヒトを合わせたグループのことです――は、鳥のまねをして、赤い木の実がよく見えるように3色型色覚になったのだと思っていました。でも、本当でしょうか?

 

 

map_pangandaran.GIF Macaca_fascicularis.jpg 

 インドネシア、ジャワ島のパンガンダランというところに住むカニクイザルに、2色型色覚のオスが見つかりました。ヒトの血液型にA型やB型があるように、カニクイザルには3色型色覚が多いのですが、当然、2色型色覚もあります。色覚は「○○は○型色覚」という言い方をしてきましたが、正確には遺伝的な多型なのです。チンパンジーやヒトも同じです。このカニクイザルは赤い実を探すことができないのでしょうか? 実は、何の不自由もなく赤い実を取って食べているそうです。続きは、また今度書きます。(つづく)

 

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)

ユニバーサル・ミュージアムをめざして5

 

 

博物館の基礎科学と応用科学

 

 

 人と自然の博物館の研究者が取り組んでいる学問には、いろいろなものあります。その幅があまりに広いので、ひとことで説明するのは難しいくらいです。

 

 わたしが長くやって来たのは霊長類学(れいちょうるい・がく)という学問です。霊長類というのは、サルや類人猿やヒトの事です。でも、霊長類学は「サルの動物学」ではありません。化石に残らない、ヒト(とヒト以外の霊長類)の行動や社会を科学する学問です。霊長類学は理学の一種ですから、基礎科学ということになります。しかし、人と自然の博物館では、「わたしのやっている霊長類学は基礎科学です」といって、すましているわけにはいきません。学問を求める人には、さまざまな立場の人がいらっしゃるのですから、その人、一人ひとりに合った、わかりやすい展示やセミナーを工夫していかないといけないからです。

 

 

 たとえば、次の文章はどうでしょう? 

 

「マカクの脳の下前頭回(F5領域)と下頭頂葉では、自分で行動する時と、他の個体が同じ行動するのを見ている時で、同じ活動電位が発生する」

 

こう書いてしまったのでは、何だかひどく難しく感じてしまいます。なぜなら、これでは専門家を相手にした時の説明の仕方だからです。

 

 

 それでは、向学心のある市民――博物館を訪れる可能性のある多くの方――には、どんな説明をするべきなのでしょうか? わたしなりに書いてみます。たぶん

 

「ブタオザルやアカゲザルは、あることをするのを見ただけで、脳の一部が自分がやっている時と同じように反応してしまう」

 

と書く方が、ずっとわかりやすくなると思います。いかがでしょう? まだ、わかりにくいですか?

 

 

 さらに、

 

「その『脳の一部』というのは、失語症に関係の深い、ヒトの言語中枢(ブローカ野)に進化した可能性が高い」

 

と聞くと、失語症者はもちろんですが、ご家族に失語症者がいる方も興味を持ってくれるでしょう。また、この脳の一部は「共感」とも関連が深いと想像されていることを説明すると、ご家族に自閉症者がいる方の興味をひくかもしれません。

 

自閉症の方は、「共感」、つまり理解したくても、他人の気持ちを理解する能力が低いと言われているのです。

 

 

 絵や写真も大切です。小さな子どもには、ことばの説明そのものはわからないかもしれません。そんな時は、「サルの赤ちゃんが人のまねをして舌をつき出している写真」を見てもらえば、理屈はわからなくても、伝えたいことはわかってもらえると思います。

 

ちなみに、この写真のような物まねは、サルでは起こらないと考えられていました。しかし、最近の研究では、生まれたてのサルにかぎって起こることがわかりました。まだ脳のどこが働いて、サルの赤ちゃんが物まねをするのかはわかっていませんが、ミラーニューロンという場所があやしそうです。そのため、サルのF5領域は、「物まね細胞」とか、「ミラーニューロン・システム(=まるでカガミに映ったかのように、動作をまねする時に使う神経システム)」と呼ばれることがあるのです。 

 

1280px-Makak_neonatal_imitation.jpgのサムネール画像のサムネール画像Evolution of Neonatal Imitation  Gross (2006), PLoS Biology 4: 1484-1485

 

 

 応用科学や教育を経験してきた方は、わかりやすい説明の大切さがわかっています。しかし、基礎科学しか経験してこなかった人は、なかなかわかりません。わたしがそうでした。わたしは脳塞栓症(のう・そくせん・しょう)の後遺症で、今でも少し失語が出るのですが、失語症になる前は、文を読んでも理解できない人がいることに、(知識としては知っていたのですが、心の底では)納得できませんでした。ましてや、自分自身が失語症がなるなんて、夢にも思いませんでした。

 

 「一人ひとりにわかりやすい展示やセミナー」は、博物館員であれば、やって当たり前の工夫です。しかし、それをユニバーサル・デザインとか、特に博物館や美術館、図書館などの生涯学習施設ではユニバーサル・ミュージアムと呼ぶ事があります。ユニバーサル・デザインとかユニバーサル・ミュージアムと呼ぶと、特殊なことに聞こえます。何だか大げさに聞こえるのです。しかし、それは、やってごく当たり前のことなのです。

 

 どうしてもできない人がいるとしたら、それは、かつてもわたしのように、人やヒトに対する想像力が不足しているのかもしれません。でも、不足しているのなら話は簡単です。補えばそれですむように思います。

 

三谷 雅純(みたに まさずみ)

ユニバーサル・ミュージアムをめざして4

 

ことばの整理

 

 

 バリアフリー・デザイン、ユニバーサル・デザイン、そしてユニバーサル・ミュージアムです。似たことばが飛び交っています。中には「インクルーシブ・デザイン」という聞き慣れないことばが使われることもあります。なれない「ことばの海」にアップアップしているのは、わたしだけではないしょう。

 

 そこで、このよく似たことばを、わたしなりに整理しておこうと思いました。まずはバリアフリー・デザインから。

 

 

◎ バリアフリー・デザイン

 

 日本には、いわゆる「バリアフリー新法」という法律があります。もともとは、道路や公共の建物などをきちんと整備して、高齢者や障がい者が使いやすく、安心できるようにするくふうの事です。ひとはくも公共の博物館ですから、バリアフリー・デザインでなければいけません。ですから、ひとはくの床には段差がなく、エントランスホールには視覚障がい者のための触地図があるのです(さわれなければ意味がありません。触地図の前には、視覚障がい者のじゃまになるものを置かないようにしましょう)。基本的にバリアフリー・デザインというのは、「高齢者や障がい者が通行や居住がスムーズにできるように、障害となっているものを取り除く」ということです。

 

 

◎ ユニバーサル・デザイン

 

 バリアフリー・デザインも高齢者や障がい者が使いやすく、安心できるようにするくふうなのですが、バリアフリー・デザインには批判があります。それは、「高齢者にせよ、障がい者にせよ、特定の人に使いやすいデザインであっても、まわりの人にはかえって使いにくいことがある」というものです。たとえば、わたし(三谷)が作ったひとはくブログのページ:

 

http://hitohaku.jp/blog/2010/06/post_754/

 

は、コミュニケーション障がい者には読みやすいだろうが、普通の人には読みにくいという批判をいただいています(どんな批判だったかは、

 

http://hitohaku.jp/research_collections/no22pdf/HN22_06_43_51.pdf

 

の表2にくわしく書いてあります)。それを防ぐため、障がい者に限らず、みんなが使いやすくしようと計画したのがユニバーサル・デザインです。

 

 自分自身が身体障がい者であったアメリカ人のロナルド・メイスという大学の教員で建築家が、「できるだけ多くの人が利用可能であるように製品、建物、空間をデザインすること」をユニバーサル・デザインと呼んだのです。ユニバーサル・デザインは、障害がある人やない人、年齢、性別、民族や母語はどうか、人種はどうかなどにかかわらず、さまざまな人がいっしょになって、快適に使えるようにしようという考え方です。

 

 

◎ インクルーシブ・デザイン

 

 インクルーシブ・デザインは、いちばん新しい概念だと思います。発祥の地かどうかはわかりませんが、現在ではイギリスで広がっている運動のようです。「いろいろな人が使いやすいように」というのはユニバーサル・デザインと同じですが、ユニバーサル・デザインでは「いろいろな人が使いやすいように」するために、美的には劣るものになっていたり、自分は使いたくない・行きたくないと感じる場合があります。それを防ぐために、作り始めから高齢者や障がい者などいろいろな立場の人が、デザイナーなどといっしょになって計画し、みんなが美しい、あるいは、みんなが使いたいとか、行ってみたいと思うようなデザインを創造するという理念です。

 

 ユニバーサル・デザインはユニバーサルデザインの7原則に固執するあまり、「美的には劣るものになっていたり、自分は使いたくない・行きたくないと感じるものになっている」場合があるという批判です。ユニバーサルであっても、きれいなものやかっこいいものの方がいいですものね。

 

 ユニバーサル・デザインとインクルーシブ・デザインは、求めているものは同じですが、求め方には、少し違いがあるようです。

 

 

*「ユニバーサル・デザインの7原則」

 

どんな人でも公平に使えること

使う上で自由度が高いこと

使い方が簡単で、すぐに分かること

必要な情報がすぐに分かること

うっかりミスが危険につながらないこと

身体への負担がかかりづらいこと(弱い力でも使えること)

接近や利用するための十分な大きさと空間を確保すること

 

 

◎ ユニバーサル・ミュージアム

 

 そして、ユニバーサル・ミュージアムです。ユニバーサル・ミュージアムという言葉は、ユニバーサル・デザインから生まれました。元神奈川県立生命の星・地球博物館研究員の奥野花代子さんによると、それまでは展示ケースのガラスや車いすの視線位置などをまったく考慮してこなかった博物館だが、障がい者をはじめ、いろいろな人の使いやすさを考えて、生命の星・地球博物館ができたそうです。

 

 これとは別に、初代館長が視覚障がい者の梅棹忠夫さんが基礎を築かれた国立民族学博物館でも、障がい者、異なる民族、無国籍の人など、さまざまな人が研究者として在籍しています。たとえば座頭市流フィールドワーカーとして有名な広瀬浩二郎さんは、全盲の民族学者です。国立民族学博物館は、もともと異文化には理解があったでしょうが、館長が障がい者だと、館員の障がい者に対する理解も、こなれたものになっているのでしょうね。(わたしをはじめ)障がい者は、ある意味で「異民族」です。

 

 現在は「ユニバーサル・ミュージアム」を標榜する博物館(や美術館、図書館)が、あちこちにできました。人と自然の博物館は、今はまだ「ユニバーサル・ミュージアムをめざして」いるのですから、道半ばと言えそうです。いろいろな来館者が訪れる博物館や美術館では、ユニバーサル・デザイン(やインクルーシブ・デザイン)が求められています。

 

 それに博物館には展示や展示の説明、印刷物、ネット情報などの、あれやこれやがありますが、人と自然の博物館ではこれらのユニバーサル化を考えなければなりません。

 

 わたしが、「ユニバーサル・デザイン(とかインクルーシブ・デザイン)」という言葉ではなく、あえて「ユニバーサル・ミュージアム」という、あまり聞き慣れない言葉を使ったのは、博物館に「ユニバーサル・デザインを考慮した道路や建物」と同じ扱いをしたのでは、(来館者はもちろんのことですが、館員も)あまり居心地がよくないと思うからです。

 

三谷 雅純

みたに まさずみ

ユニバーサル・ミュージアムをめざして(3)

 

 

 この文章は失語症以外の方を想定して書きました。失語症の方で読みにくい場合は、介助者とともに読んでください。失語症者の作業所「トークゆうゆう」(三田市)、失語症友の会「むつみ会」(明石市)、三田市に在住する小学生や中学生、市民団体「サイエンス・サロン」(兵庫県)のそれぞれの皆さんには、文章作成にあたって貴重な意見をいただきました。ありがとうございます。

 

 

 

平成22年から23年にかけてのミニ企画展 「ウサギさんようこそ!」の内、「ウサギってどんな動物?」「神話(しんわ)や説話(せつわ)に登場するウサギ」の展示は、文章が変だと思われましたか? おみやげ用に持って帰っていただく展示の前の印刷物は、なぜあのような文章にする必要があるのでしょうか? そのホーム・ページ

 

http://hitohaku.jp/exhibits/temporary_old/2010/2011usagi.html

 

は、なぜ、あのようなファイルが並んでいるのでしょう? いぶかしく思った方がいらっしゃると思います。その理由を説明しましょう。

 

 

人と自然の博物館のホーム・ページにある「神話(しんわ)や説話(せつわ)に登場するウサギ」は、もうお読みいただけましたか?

 

 ファイルは、

 

(1) 石原和三郎作詞・田村虎蔵 作曲 尋常小学唱歌「大黒様」原文(子ども向け)、『尋常小学唱歌 第二学年 中』[明治38年(1905年)]

(2) 南方熊楠(みなかたくまぐす)作 「兎と亀との話」 『牟婁新報』(大正4年1月1日)

(3) 山口昌男『アフリカの神話的世界』岩波新書F67より、「いたずら者の野兎の話」(エチオピア・スーダン国境の近くに住むアニュアック族の民話)

 

からできています。自分では、なかなか読んでみようとは思わない、ややこしい文章です。そこで、それぞれに

 

      原文

      子どもなどのために、やさしく書き直した文章

      漢字、あるいは、ひらがなが読みにくい人のために書き直した文章

 

を作り、さらに「原文」と「子どもなどにやさしく書き直した文章」のふたつをテキスト・ファイルにしました。ただし、尋常小学唱歌「大黒様」は、原文が、明治時代の子どもを対象に書かれたものでしたので、あらためて、やさしく書き直しはせず、原文をそのままテキスト・ファイルにしました。 

daikoku_sama_a4_original.JPG daikoku_sama_a4_translated.JPG上がオリジナルの子ども向け「大黒様」、下は漢字を多くし、カッコ付きのルビをふった「大黒様」です。失語症者からは、よこ書きが読みやすいと言っていただいたのですが、右の「大黒様」はたて書きのままです。この文章は、四角くまとまっているので、たて書きでもわかりやすいのだそうです。

 

 

 読んでみると、もともと子ども向けだった「大黒様」を、漢字を多くしておとな向けにし、しかも、大きな文字でルビを振っています。その上、ルビの振り方は変です。ルビがカッコに入っています。

 

 これは、ひらがなの多かった子ども向けの「大黒様」を、ひらがなが苦手な人でも読みやすいように、わざと漢字を多くしたのです。大きな字でルビを振ったのは、弱視や老眼の人でも読みやすいようにという配慮です。

 

 

わざわざカッコに入れたのはなぜでしょう? 

 

高次脳機能障がいのひとつである失語症の方では、文章の行(ぎょう)を追って読んでいくのがむずかしいことがあるのです。そんな時には、「大きなルビが本文といっしょになって、よくわからなくなる。しかし、カッコに入れておけば、ルビだとはっきりわかる」という意見をいただいたからです。

 

絵や写真をつかって、文章のふんいきや意味を伝えることも大切だというご指摘も、失語症当事者からありました。そのために、できるだけ絵や写真を入れるようにしました。でも、失語症者以外にも、漢字、あるいは、ひらがなが読みにくい人がいますので、全面的にその意向に添うことはできませんでした。この点は、もっと工夫してみる価値がありそうです。

 

失語症者以外の「漢字や、ひらがなが読みにくい人」というのは、たとえば、在日外国人がそうです。たとえば、南アメリカから来てまだ間がない人は、ローマ字とともに、ひらがなが読みやすいでしょうし、中国や台湾、香港からやって来た人ならば、もともと漢字を使っておられたでしょうから、漢字が読みやすいかもしれません。

 

 

南方熊楠の「兎と亀との話」や、アフリカの民話「いたずら者の野兎の話」も同じです。このふたつは、原文が読みにくいので、子ども向けの読みやすいものを作り、それを漢字、あるいは、ひらがなが読みにくい人向けにルビを振ったものを作りました。

 

 

minakata_original.JPG minakata_translated_kids_a3.JPG minakata_translated_adults_a3.JPG上から順に、南方熊楠「兎と亀との話」のオリジナル、子どもなどを対象にやさしく書きなおした「うさぎと かめとの話」、漢字、あるいは、ひらがなが読みにくい人に書きなおした「うさぎ(兎)と かめ(亀)との 話(はなし)」(よこ書き・たて長)

 

 

african_mythology.JPG african_mythology_translated_kids_a3.JPG african_mythology_translated_a3.JPG上から順に、アフリカの民話「いたずら者の野兎の話」のオリジナル、子どもなどを対象にやさしく書きなおした「いたずら者の のうさぎの話」、漢字、あるいは、ひらがなが読みにくい人に書きなおした「いたずら者(もの)の野兎(のうさぎ)の 話(はなし)」(よこ書き・たて長) 

 

 

「兎と亀との話」と「いたずら者の野兎の話」は、子どもなどを対象にしたものち、漢字、あるいは、ひらがなが読みにくい人向けに作った文章はA3の大きな紙に印刷しました。これは、多くの絵や写真をつかい、行間をじゅうぶんにとって、大きな字であらわすためにそうしたのです。小学校の教科書がそうなっていますし、子どもは、裏にいたずら書きができそうです。

 

 漢字、あるいは、ひらがなが読みにくい人向けに作った文章やよこ書き・たて長の作りは、失語症者の作業所「トークゆうゆう」(三田市)や失語症者の友の会「むつみ会」(明石市)の皆さんが、いっしょに考えてくれました。皆さんが「読みやすい」、「読みにくい」と意見を出し、それを聞いて、修正していくという作業をくり返したのです。文章作成のポイントは:

 

(1)     ルビは大きく、文章に並べて、カッコに入れて書く。

(2)    漢字と、ひらがなが読みにくい人は、それぞれ違うので、ふつうの「ひらがなのルビ」だけでなく、文章によっては「漢字のルビ」も、あえて書く。たとえば、「うさぎ(兎)や かめ(亀)」、あるいは「彼(かれ)の せなか(背中)」がそうです。

(3)  「うさぎ(兎)や かめ(亀)」、あるいは「棘(とげ)つきの 魚(さかな)」といったように、意味の切れ目で、わざと一字空けてあります。空けることによって、意味が把握しやすくなるというご意見がありました。

(4)     日本語の文章はたて書きがふつうだが、失語症者には、たて書きは読みにくく、よこ書きは読みやすい。そのため、よこ書き・たて長のA3用紙をつかう。

 

という「ルール」ができあがりました。もちろん、このルールを作る時には、少数の失語症者に意見をうかがっただけです。本当の<ルール>にしていくためには、さらに多くの人の協力が必要です。しかし、さしあたっては、この「ルール」を採用することにしました。

 

 つまり、漢字、あるいはひらがなが読みにくい人に読んでもらうには、ときに「漢字でルビを書く」という、普通にはない書き方をしなければならなかったり、特に失語症者にですが、よこ書き・たて長の印刷物が好まれるということです。

 

 

 視覚障がい者など、スクリーン・リーダーをお使いの方のためには、少しむずかしい原文と、子どもなどを対象にやさしく書き直した文章のテキスト文を用意しました。スクリーン・リーダーとは、コンピュータの画面にある文章を、音声で読み上げるためのソフトです。普段から、ご自分用につかっていらっしゃるスクリーン・リーダーの使用を前提としたものです。

 

一般の晴眼者にはPDFファイルがよく利用されていますが、スクリーン・リーダーではPDFファイルを読み上げることはできないようなので(少なくとも、わたしが使っているスクリーン・リーダーでは、PDFファイルの読み上げができませんでした)、利用者の操作がかんたんなテキスト・ファイルを作成しました。

 

スクリーン・リーダーは、視覚障がい者だけではなく、多くの人に利用されています。

 

 スクリーン・リーダーをお使いの方のためのテキスト・ファイルには、漢字、あるいはひらがなが読みにくい人向けに作った文章が含まれていません。これは、ルビを文章に並べて、カッコに入れて書いてあるので、スクリーン・リーダーを使った時、本文とカッコに入れたルビを二重に読んでしまうことがあるからです。

 

 

 明治時代の唱歌や大正時代の文章も、のせました。今の子どもは、昔のものを知らないでしょう。でも、おじいさんや おばあさんなら 知っているかもしれません。ご家族でお楽しみ下さい。

 

 

兵庫県立大学 自然・環境科学研究所

(ひょうごけんりつだいがく しぜん・かんきょうかがく けんきゅうじょ)

/ 兵庫県立人と自然の博物館

/ ひょうごけんりつひととしぜんの はくぶつかん)

三谷 雅純

(みたに まさずみ)

 

 

※このブログで 掲載(けいさい)している文章(ぶんしょう)を 転用(てんよう)・ 転載(てんさい)されます 場合(ばあい)は、三谷 雅純(みたに まさずみ)まで ご連絡(ご・れんらく)ください。(mitani(アット)hitohaku.jp)

 

 

 

2010.1214

 今回は、いつも博物館のセミナーなどでお世話になっております清水文美さんと一緒に山梨大学付属病院に授業に行って参りました。そのときのレポートを清水さんが作成してくださりましたので、掲載いたします。いつもありがとうございます(感謝!)。・・・・・・・・・(みつはしより)

jyugyounoyousu1.jpg yamanashi2.jpg yamanashi3.jpg

病院で長期間、病気と闘っている子どもたちに「自然の神秘」をほんの少しでも感じてもらえることができたら〜という試みがはじまっています。
     
院内学級というので 殺菌対策とか こちらの健康状態や服装とか・・・いろいろ考え、緊張しました。が、今回おじゃました山梨大学付属病院小児科病棟の院内学級はほぼ通常の子どもたちと同じような感じでした☆^∇゜) ニコ♪そしてみんなとなかよくお話しながら、三橋先生のプラスティック標本を使って「森からのおくりもの」を先生のお話とスライドを見ながら、『みんなと森へ 川へ出かけていくような時空』を共有してきました。

hyouhon_pla_yamanasi.jpg 
反省すべきことは、子どもたちの多くは点滴をつけていて、電源が必要なため教室内を自由に動きにくいということ。実際に自由にプラスチック標本をさわってもらおう〜と思っていたのが、車いすのために思うように動きづらかったようです〜。
そしてもうひとつ。これは院内学級ということではなく、それぞれの地域性の問題だと思いますが、三橋先生が子どもたちに「川の始まりはどこだろ?」と投げかけると子どもたちは「山の中」「森のなか〜」という具合に反応してくれましたが、「では川の終わりは?」というと「。。。」「川の終わりはおわり〜^^」という感じになりました。なるほど、子どもたちは「海」を知らないわけではないのですが、日常的に「海」を感じることがなかったようです。地域性は事前準備の一つとして不可欠でした。
 これがきっかけとなって、少しずつ自然の不思議を感じてくれるような院内学級への協働、また学級の来れなかった子どもたちのために院内キャラバンへ〜とつながっていくようになれば 素敵だな〜と思いつつ岐路につきました。
今回も 博物館のネットワークにより多くの素敵な方々とめぐり会い、つながりができたので、この新しい試みもきっと成功するのではと期待しています♪山梨大学医学部小児科の犬飼岳史先生はじめ院内学級の長田先生がた多くのバックアップで大変貴重な経験をすることができました。
ありがとうございました!
詳細は山梨大学付属病院小児科のHPでも紹介されるそうです。

(清水文美)

ユニバーサル・ミュージアムをめざして

 

なぜ、「全国(ぜんこく)の失語症(しつごしょう)の皆(みな)さんとご家族(ご・かぞく)が人と自然の博物館(ひととしぜんのはくぶつかん)にお見え(お・み・え)になりました」を、あのような文章にしたのか

 

 

 この文章は失語症ではない方を想定して書きました。失語症の方で、読みにくい場合は、介助者とともに読んでください。また、以下の文章では、題を簡単に「失語症の皆さんがお見えになりました」にすることにします。

 

さて、「失語症の皆さんがお見えになりました」は、もうお読みいただけましたか?

 

 読んでみると、奇妙に思えるところがあったでしょう。たとえば漢字で書いた後に、わざわざ ひらがな で同じことを書いてあります。こういう場合、ふつうは「ルビを振る」といって、ひらがな を小さくし、横書きなら漢字の上や、縦書きの時は右どなりに書くものです。

 

 また漢字も ひらがな もずいぶん大きな字をつかいました。ポイントでいうと、表題「全国(ぜんこく)の......」は16ポイント、本文は12ポイントをつかいました。ふつうはもっと小さく、10.5ポイントから12ポイントです。

 

 漢字と ひらがな は、黒と青で書いています。文章の中に赤や緑はつかっていません。重要なこと、強調したいことは、赤で書くものではないのでしょうか?

 

 

原稿は、失語症者にとって、より理解しやすい文章をめざして、失語症当事者の小規模作業所「トークゆうゆう」の皆さんと共に作成したものです。「トークゆうゆう」の皆さんに意見をうかがうと、

 

◎ルビは漢字全部に、大きく振ってある方がよい。

◎文章の長いものは理解しにくい。

◎文章を読むのはむずかしいが、音声にすると理解できる方がいる。

◎文章は短く、3、4行にしておく。

 

ということでした。ここで、失語症というものを説明しておきましょう。

 

図1 失語症は言語障害のひとつ

図1 失語症は言語障がいのひとつ  全国失語症友の会連合会(編)『易(やさ)しい失語症(しつごしょう)の本(ほん)第2版』(「言葉の海」臨時増刊94 2009年1月刊)より

 

 図1を見ると、失語症は言語障がいのひとつとされていることがわかります。失語症によく似た障がいには、構音障がいや失声症、認知症があることがわかります。

 

 失語症には、普通の失語症以外に、幼い子どもがかかる小児失語症があります。認知症にも、青年期や中年期の人がかかる若年性認知症があります。

 

 構音障がいは、舌や口がマヒをしてろれつが回らなくなる障がいです。失声症は、声帯の障がいやストレスで声が出なくなった状態です。

 

 

失語症になると、脳のどこにダメージを受けたかで、人によっていろいろな症状があらわれます。よく見られるのは<話せない>とか、<書けない>という表現することがむずかしい症状です。

 

 <話せない>人のなかには、「言葉が思い出せない」、「わかっているけど、うまく言えない」、「思っていることと違う音や言葉になる」、「まとまったことをじょうずに話せない」ことがむずかしい人がいます。

 

 <書けない>人のなかには、「名前や住所(=固有名詞)が書けない」、「ひらがな を書くのがむずかしい」、「漢字で書くのがむずかしい」、「長い文章が書けない」などで困っている人がいます。

 

 

理解することがむずかしい人もいます。<聞いて理解することがむずかしい>人や、<読んで理解することがむずかしい>人です。

 

 <聞いて理解することがむずかしい>人は、「早口で話されるとわからない」、「一度にたくさん話されるとわからない」、「話の内容を覚えていられない」といったむずかしさのある人です。

 

 <読んで理解することがむずかしい>人は、「ひらがな がうまく読めない」、「漢字がうまく読めない」、「新聞や雑誌がわからない」、「説明書などがわからない」といったむずかしさのある人です。

 

ちなみに、わたしは脳塞栓症(のう・そくせん・しょう)の後遺症があり、構音(こうおん)障がいが主な障がいですが、疲れてくると「言葉が思い出せない」、「わかっているけど、うまく言えない」といった失語症の症状も出ます。他の方も、図1の症状の内、どれかだけという方は少ないと思います。

 

 

「トークゆうゆう」の皆さんに意見をうかがうと、「◎ルビは漢字全部に、大きく振ってある方がよい。」というのは、「ひらがな がうまく読めない」とか、「漢字がうまく読めない」といったむずかしさがある人には、「漢字(ひらがな)」と両方、どちらからでも意味がわかるようにしておく必要があることがわかります。小さなルビを振らなかったのは、高齢者で、老眼のために小さな字がわかりにくい人がいるためです。

 

 「ひらがな がうまく読めない」という症状は、健常者にはわかりにくいことかもしれませんが、失語症者にはよくいらっしゃいます。「ひらがな がうまく読めない」人でも、漢字ならふつうに読めます。これは、ひらがな と漢字が、脳の中の異なった場所で認識されるためです。

 

 漢字と ひらがな の色を変え、黒と青を使ったのはルビを本文と分けて文章としてわかりやすくしたかったのと、失語症者に限らず、よくいらっしゃる二色型色覚の人に配慮したものです。二色型色覚の人は、赤と緑と系統が混乱することがよくあります。

 

 「◎文章の長いものは理解しにくい。」とか、「◎文章は短く、3、4行にしておく。」というのは、文章が長いとゴチャゴチャしてわかりにくくなったり、短期記憶という、短い時間だけ記憶しておく機能がダメージを受けている人がいるためです。

 

 「◎文章を読むのはむずかしいが、音声にすると理解できる方がいる。」という意見は、ひらがな や漢字が読みにくかったり、読んで記憶しておくのはむずかしいが、音を聞くことは普通にできるような方の場合です。

 

 反対に、音が聞くことがむずかしい中途失聴者は、失語症者によくいらっしゃいます。

 

 ちなみに、失語症者に多い脳血管障がいのある人で、脳出血などを起こした場合は視覚障がいのある方がいらっしゃいます。

 

 

以上をまとめると、失語症者には:

 

1.漢字と ひらがな をあわせて書く。ひらがな のルビを振る場合は、小さくなりすぎないように気をつける。

2.文章は短くする。2,3行までにまとめる。

 

といった注意が必要でしょう。また、

 

3.失語症者に限らないが、安易に赤や緑を多用しない。

 

ということも、ユニバーサル・ミュージアムで使うテキストやホームページの文章には、配慮が必要だと思います。

 

 

全国失語症友の会連合会(編)『易(やさ)しい失語症(しつごしょう)の本(ほん) 第2版』(「言葉の海」臨時増刊94 2009年1月刊)を参考にさせていただきました。

 

 

兵庫県立大学 自然・環境科学研究所

(ひょうごけんりつだいがく しぜん・かんきょうかがく けんきゅうじょ)

/ 兵庫県立人と自然の博物館

/ ひょうごけんりつひととしぜんの はくぶつかん)

三谷 雅純

(みたに まさずみ)

 

 

※このブログで 掲載(けいさい)している文章(ぶんしょう)を 転用(てんよう)・ 転載(てんさい)されます 場合(ばあい)は、三谷 雅純(みたに まさずみ)まで ご連絡(ご・れんらく)ください。(mitani(アット)hitohaku.jp)

 

 

 

2010.0713

ユニバーサル・ミュージアムをめざして

 

 

全国(ぜんこく)の 失語症(しつごしょう)

(みな)さんと ご家族(ご・かぞく)

人と自然の博物館(ひととしぜんのはくぶつかん)

お見え(お・み・え)になりました。

 

 

この原稿(げんこう)は、失語症者(しつごしょうしゃ)にとって 理解(りかい)しやすい 文章(ぶんしょう)を めざして、兵庫県(ひょうご けん) 三田市(さんだ し)にある 失語症(しつごしょう) 当事者(とうじしゃ)の 小規模(しょうきぼ)作業所(さぎょうしょ) 「トークゆうゆう」の 皆(みな)さんと 共(とも)に、三谷 雅純(みたに まさずみ)が 作成(さくせい)したものです。文責(ぶんせき)は 三谷(みたに)にあります。

 

100612_museum01.jpg外出介助(がいしゅつ かいじょ)ボランティア「かけはし」

前田 隆(まえだ たかし)さん撮影(さつえい)

 

 全国(ぜんこく)の 失語症(しつごしょう)の 皆(みな)さんが、6月(がつ)12日(にち)に 人と自然の博物館(ひととしぜんのはくぶつかん)が 展示(てんじ)している ティタノサウルス形類(−・けいるい)と 呼(よ)ばれる 首(くび)の長(なが)い 恐竜(きょうりゅう)の 化石(かせき)を 見(み)に来(こ)られました。

 

三田市(さんだ し)で6月(がつ)13日(にち)におこなわれた 「第4回(だい4かい) 言語(げんご)リハビリ 交流(こうりゅう)の つどい イン 兵庫(ひょうご)」に 参加(さんか)されるために 来(こ)られたのですが、12日(にち)は 三田市(さんだ し)のようすを 見学(けんがく)して 回(まわ)られたのです。

 

 失語症(しつごしょう)というのは、脳(のう)の 血管(けっかん)の 病気(びょうき)や、交通事故(こうつう じこ)などで、脳(のう)の 中(なか)の 言語中枢(げんご ちゅうすう)に ダメージをおってしまい、それまでは 普通(ふつう)に しゃべっていたのに、突然(とつぜん) しゃべれなくなるという 障がい(しょうがい)です。高次脳機能障がい(こうじ のうきのう しょうがい)の 一種(いっしゅ)で、「聞く(きく)」 「話す(はなす)」 「読む(よむ)」 「書く(かく)」といった 大切(たいせつ)な 機能(きのう)のどれか、人(ひと)によっては、その内(うち)の 複数(ふくすう)の 機能(きのう)が 障がい(しょうがい)を うけるものです。

 

 同時(どうじ)に、言語中枢(げんご ちゅうすう)だけでなく、聴覚中枢(ちょうかく ちゅうすう)や、視覚中枢(しかく ちゅうすう)が ダメージをおったため、耳(みみ)が 聞(き)こえなくなったり、目(め)が 見(み)えなくなっている 人(ひと)も いらっしゃいます。

 

 

1) 耳(みみ)から つたわった 音(おと)を 認識(にんしき)したり、理解(りかい)したりする 脳(のう)の 部位(ぶい)

2) 目(め)から つたわった 像(ぞう)を 認識(にんしき)したり、理解(りかい)したりする 脳(のう)の 部位(ぶい)

 

 

☆   ☆

 

 わたし(三谷雅純 みたに まさずみ)と 生涯学習課(しょうがい がくしゅう か)の 平松紳一(ひらまつ しんいち)が 対応(たいおう)しました。展示(てんじ)は、平松(ひらまつ)が 説明(せつめい)しました。

 

 失語症(しつごしょう)の 皆(みな)さんには、脳梗塞(のう こうそく)や脳出血(のう しゅっけつ)を おこした方(かた)が 多(おお)いので、マヒのある方(かた)や 車いす(くるま・いす)を ご利用(ご・りよう)に なる方(かた)が 多(おお)くいらっしゃいます。

 

 人と自然の博物館(ひととしぜんのはくぶつかん)は、普通(ふつう)に 入(はい)ると、最初(さいしょ)に 長(なが)い 階段(かいだん)を おりなければ いけません。そのために、できるだけ 階段(かいだん)など 段差(だんさ)の ない出入り口(でいりぐち)から ご案内(ご・あんない)する ことにしました。

 

階段(かいだん)を下(お)りなくてもいい 出入り口(でいりぐち)は、通常(つうじょう)の 出入り口(でいりぐち)の 上(うえ)に あるのですが、少(すこ)し、見(み)にくいようです。

 

100618museum03.jpg段差(だんさ)のない 出入り口(でいりぐち)は、通常(つうじょう)の 出入り口(でいりぐち)の 一階(いっかい) 上(うえ)のあります。(撮影 三谷 さつえい みたに

 

100618museum04.jpg段差(だんさ)のない 出入り口(でいりぐち)です。

(撮影 三谷 さつえい みたに

 

 「ひとはく 恐竜(きょうりゅう) ラボ」は スロープで 上(あ)がれるのですが、下(お)りる 時(とき)には、少(すこ)し スロープが 急(きゅう)です。ガラス越(ご)しにですが、恐竜化石(きょうりゅう かせき)の クリーニング作業(さぎょう)を 見学(けんがく)できます。まず、はじめは 「ひとはく恐竜(きょうりゅう)ラボ」を 見学(けんがく)して いただきました。

 

100618museum02.jpg正面(しょうめん)から 見(み)

「ひとはく恐竜(きょうりゅう)ラボ」

(撮影 三谷 さつえい みたに

 

100618museum01.jpg「ひとはく恐竜(きょうりゅう)ラボ」には

スロープが付(つ)いています。

(撮影 三谷 さつえい みたに

 

100612_museum00.jpg外出介助(がいしゅつ かいじょ)ボランティア「かけはし」

前田 隆(まえだ たかし)さん撮影(さつえい)

 

 段差(だんさ)のない 出入り口(でいりぐち)から はいってすぐの 部屋(へや)を、とっておきました。部屋(へや)のむかいが トイレです。疲(つか)れた 方(かた)は、見学(けんがく)の 間中(あいだじゅう)、いつでも 休(やす)めるように しておきました。しかし、休(やす)まれる 方(かた) いらっしゃらないようでした。

 

☆   ☆

 

 恐竜(きょうりゅう) コーナーの 展示(てんじ)は 出入り口(でいりぐち)から 一階(いっかい) (お)りた フロアに あります。「丹波の 恐竜 化石(たんばの きょうりゅう かせき)」です。みなさん、このコーナーを 楽(たの)しまれたようです。

 

100612_museum02.jpg 100612_museum03.jpg写真(しゃしん)は いずれも

外出介助(がいしゅつ かいじょ)ボランティア「かけはし」

前田 隆(まえだ たかし)さん 撮影(さつえい)

 

残念(ざんねん)なことがふたつ ありました。それは、

 

◎ 失語症(しつごしょう)の 方(かた)の 中(なか)には、聴覚障がい(ちょうかく しょうがい)の 方(かた)が おられます。今回(こんかい)も おられました。説明(せつめい)は 音声(おんせい)だけ でしたので、聴覚障がい(ちょうかく しょうがい)のある 失語症者(しつごしょう しゃ)には、説明(せつめい)が わからなかったようです。説明用(せつめい よう)の プリントなどを 用意(ようい)してあれば よかったですね。後(あと)で 気(き)がつきました。すいませんでした。

 

◎ 今回(こんかい)は いらっしゃいませんでしたが、失語症(しつごしょう)の 方(かた)の 中(なか)には、視覚障がい(しかく しょうがい)の ある方(かた)も おられます。「丹波の 恐竜 化石(たんばの きょうりゅう かせき)」の 展示(てんじ)は、ほとんど ガラス・ケースに はいっているため、視覚障がい者(しかく しょうがい しゃ)には 「何(なに)もわからない」と いったことがあります。触(さわ)っていただけるような 展示(てんじ)であれば よかったのにと 思(おも)いました。

 

☆   ☆

 

 帰(かえ)りは、もう一度(いちど)、最初(さいしょ)の 出入口(でいりぐち)に もどって、迎(むか)えのバスや、失語症(しつごしょう)の 小規模(しょうきぼ)作業所(さぎょうしょ)「トークゆうゆう」の 介護用(かいご よう) 乗用車(じょうようしゃ)に 乗(の)られて 博物館(はくぶつかん)を 後(あと)にされました。

 

 なお、わたしも 脳梗塞(のう こうそく)の 後遺症(こういしょう)で、右半身(みぎ はんしん)に マヒが残(のこ)り、少(すこ)し 構音障がい(こうおん しょうがい)(=発声器官〔はっせい きかん〕のマヒ)が あります。行(い)きとどかぬところも あったと 思(おも)います。そんな時(とき)は、ぜひ おっしゃってください。ありがとうございました。

 

 

兵庫県立大学 自然・環境科学研究所

(ひょうごけんりつだいがく しぜん・かんきょうかがく けんきゅうじょ)

/ 兵庫県立人と自然の博物館

/ ひょうごけんりつひととしぜんの はくぶつかん)

三谷 雅純

(みたに まさずみ)

 

 

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2010.06.23

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