ユニバーサル・ミュージアムをめざして20
霊長類学者がユニバーサルな事を考える理由−3
三谷 雅純(みたに まさずみ)
ゴリラのおばあさん。本当はまだ「おばあさん」というほどの歳ではありませんが、コドモが集団から独立したようなので、「おばあさん」と呼んでいました。コンゴ共和国のンドキの森で撮影
最後に、「高齢者が活きるユニバーサルな社会」の可能性について考えましょう。霊長類学の仮説に「おばあさん仮説」があります。「おばあさん(=お祖母さん)仮説」とは、「ヒトの女性が子どもを産まなくなった後も長く生きて、家族の一員としてとどまり続けるのはなぜだろう」という疑問に対する仮説です。「仮説」ですから仮の答えです。本当かどうかはわかりません。
年をまたいで何度もコドモを産む動物にも、「おばあさん」に当たるメスはいます。しかし、ヒトの「おばあさん」と同じではありません。「おばあさん」になってからも長く生きる動物はヒトだけです。地域によって違いますが、日本では、平均すれば女性の寿命は80歳を優に超えます。子どもを産まなくなるのは50代の事が多いので、ヒトは30年以上も「おばあさん」を続けるのです。なぜヒトにだけ「おばあさん」がいるのでしょう?
ヒトはもともと、2世代、3世代がいっしょに暮らすのが普通でした。夫婦と子どもだけしかいない核家族というのは、ごく最近になって生まれた習慣です。そんな家族では、「おばあさん」の助けがなければ娘の子育てがうまくいかないのです。たまたま娘だけでもうまく育つこともあるのですが、「『おばあさん』のいない娘の子育ては、うまくいかないことが多かった」といった意味です。別の言い方をすれば、「おばあさん」がいなければ、「同じ数を産んだとしても、おばあさんと協力した場合に比べて娘だけで育てた子どもの数は、誰が見ても少ない」という事になります。
つまり、ヒトが次世代を残すためには、「おばあさん」が不可欠だということになります。ヒトの進化史から考えても「おばあさん」は大切な存在だったのです。おろそかにしてよいはずはありません。
では、「おじいさん(=お祖父さん)仮説」は存在しないのでしょうか?
これは存在しません。「おばあさん仮説」はあるのに、「おじいさん仮説」がないなんて、不思議な気がします。なぜでしょうか?
それは「父親」という存在が文化的に作り出された約束であり、制度だからです。ほ乳類でいえば、「おばあさん仮説」の基になっている「母親」はあるコドモ(や子ども)を産み、育てたのですから、誰も「母親」であることは疑いようがありません。それに比べて、ヒトを含むほ乳類は父親がはっきりしません。前にも書きましたが、「父親」候補はたくさんいるのです。「誰が父親だ」とは決められません。ゴリラの集団は一頭のオスしかいない事が多いので、つい、そのオスを「お父さん」だと思ってしまいます。でも本当は、そのオスとコドモの遺伝子を調べてみないとわからないのです。「一頭のオス」だと思っていても、森には多くの若いオスが隠れているものです。
そもそもニホンジカのオスはメスのものと訪れて、コドモの顔を見ないままで去って行く存在でした。「父親」や「おじいさん」とは、家族があって、はじめて生まれるイメージです。だから、生物学的な「おじいさん仮説」は存在しないのです。けれども、現に人間には「お父さん」がいます。これが「(生物学的にではなく)文化的に決められた制度」だという意味です。
ゴリラの研究で有名な山極寿一さんは『家族の起源 父性の誕生』という本の中で「父親」について考えています。山極さんによれば、「父親に由来する親族の構造は、構成員の不断の努力によって守らねばならなかった」ものであり、「社会的規範は文化的存在である男の弱い立場を守るために作られた」ものだという事です (1)。
この本は1994年に出版されたものなので、お考えが少し変わっているかもしれません。その上、ことばが難しくて、とっつきにくい気がします。この文章をわたしなりに解釈(かいしゃく)してみます。
「お父さん」や「(お父さんがいる事によって作られた)家族」は、人間なら誰でも、なくてはならないものだと知っています。しかし、生物学的ではない「お父さん」という存在は、放っておけば消えてしまうでしょう。「お父さん」が消えるとしたら大変です。「(お父さんがいる事によって作られた)家族」までが消えてしまいます。そこでお母さんや子どもたちが、「この人がお父さんだ」と父親の存在を認めたのです。これは約束です。それはやがて「父親」という確かな制度になりました。これが人間――文化的背景があるので、生物学的なヒトではありません――にとっての父親の起源です。
チンパンジーのメスは、栄養がよければ高齢になってもコドモを産み続けます (2)。しかし、ヒトは違います。栄養がよくても、一定の年齢になれば子どもを産む事はやめて、孫をかわいがるのです。そして何万年か、何十万年か前には、より良く生活するための方策であった「お父さん」や「家族」という社会の仕組みが、「結婚」や「家庭」といった制度にまでなりました。そして「確かな制度」は文化的な事実となりました。今日的(こんにち・てき)に言うと、赤ん坊に始まり、おばあさんにいたる女性のライフ・ステージを男性にも当てはめ、男女を問わず、すべてのライフ・ステージに生きる人びとの価値を見つけたということです。それが霊長類学を通して示されたのだと思います。
☆ ☆
霊長類学でヒトの実像を考えるなら、「家族」や「父親」といった文化的なことも考えなければなりません。霊長類学は自然科学ですが、おのずと文化的多様性というものも考えなければ、ヒトの社会とか行動とかいった現象がわからないのです。この事を通して、霊長類学者は多様なヒトの価値(という、今はまだ実現していない理想)を知ってしまったのだと言えるのです。すべてのヒト(そして人)が活きる社会は、理想的なユニバーサル社会です。そのユニバーサル社会の理想は、女性や男性の事ばかりでなく、その他のさまざまなヒト(そして人)のあり方、生き方に広げていくべきだと思います。
山極寿一さんは、別の『オトコの進化論 ―男らしさの起源を求めて』という本の中で次のように書いています (3)。少し長くなりますが、この文章と同じテーマなので引用してみます。
「現代の要請は、多様な人びとと多様な価値を認められる社会をつくるということである。これはなかなかむずかしい。今まで人間は半ば閉じこめられた共同体の中で、顔見知りの仲間と固有の価値観を共有して生きてきたからである。異質な人間を受け入れる事にも、別の価値を認める事にも慣れていない。」
山極さんはこの文章に続けて
「そのような閉鎖的な社会は、人間の歴史からすればつい最近つくられたのである。過去の人類は熱帯林やサバンナで、多様な動物たちと共存して暮らしていた。何万年、何十万年という長い間、異種の人間が同じ場所で共存していたことも明らかになっている。人類に近縁なゴリラとチンパンジーは、アフリカの熱帯林で今でも同じ場所に共存して暮らしている。現代人はすべてホモ・サピエンスという同一種に分類される。身体能力も同じでコミュニケーションも可能な人間が共存できないはずはないのである。」
と述べています。ここは、わたしと山極さんの意見が分かれる所です。どこが分かれるのかというと、わざわざ「他種との共存」を持ち出さなくても、ヒト(そして人)にはさまざまな遺伝的多様性があり、さまざまな文化的多様性があるのです。そのよい例は、社会が「障がい者」と呼ぶ人びとに見つかります。「障がい者」は多数者(=定型発達者、健常者、健聴者、晴眼者などなど)とは「異なる文化」に生きているのです。その人びとの価値を偏見なく認めることが、ユニバーサルな社会を創るために、まず必要な事だと思います。
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(1) 山極寿一(1994)『家族の起源 父性の誕生』(東京大学出版会)の175ページにあります。山極さんは2012年に、同じく東京大学出版会から『家族進化論』(http://www.utp.or.jp/bd/978-4-13-063332-1.html)という本を出しておられます。こちらは、今、読んでいるところです。
(2) 2011年1月2日付けの YOMIURI online によれば、ギニアの村近くに住む54歳のお祖母さんチンパンジーは、3歳の孫を背負う姿が見られたそうです。チンパンジーの54歳は、ヒトでは70歳に当たるそうです。京都大学霊長類研究所の松沢哲郎さんの提供したニュースでした。
(3) 山極寿一(2003)『オトコの進化論 ―男らしさの起源を求めて』(ちくま新書 424)(http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480061249/)の228ページから230ページにあります。
三谷 雅純(みたに まさずみ)
兵庫県立大学 自然・環境科学研究所
/人と自然の博物館