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『バリアフリー・コンフリクト』を読む-2

三谷 雅純(みたに まさずみ)


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 前回から『バリアフリー・コンフリクト』という本を読んだ感想を書いています。

 このようなコンフリクトは、何もバリアフリー技術が必要な人にだけ起こるのではありません。一番きびしい形で表れるのは「障がい者」と「健常者」、言い換えれば社会的マイノリティと普通に暮らしている人の間で起こるコンフリクトです。このコンフリクトは進学や就職の時に見られますし、もちろん就労してからも直面するでしょう。

☆   ☆

 最近は望んだ人なら誰でも(それ相当のお金を払いさえすればですが)大学などに入学できるようになりました。学校によっては(試験制度があるにもかかわらず)試験など受けず、学校説明会に参加して氏名と住所を書いただけで入学できるというところまであります。一方、難関大学の入学試験は、以前より、もっと厳しくなっているようです。

 ここで少し変なことを書きます。がまんして読んで下さい。

 入学試験では問題用紙に書いた文字を解読し、文章や数式を書き込んで答えます。また面接試験では話し言葉による応答のようすを調べます。字が認識できなければ、問題に何が書いてあるのかわからず、文章や数式を頭の中で構成できなければ、例え理解していても解答は示せません。何よりも鉛筆を持つ腕(比喩ではなく字義通り「腕」です)がなければ解答は書けません。入学試験は生物学的な意味で「健常者間の競争」の面が強い学校行事です。

 そのような入試制度は「障がい者」には不公平な気がします。そこで、その人に応じた形で不公平をなくすべきだと考えた人がいました。そうしなければ、せっかく類(たぐ)いまれな才能でも、その才能が活かされないからです。こうして入試のあり方にバラエティを持たせることになりました。ただし皆が同意できて、しかも、あまりお金もかからない範囲でなければなりません。このような配慮をすることにした大学が、今日ではたくさん出てきました。

 配慮の例をあげましょう。例えば文章をうまく読めないディスレクシアや視覚で世界を認識しない人には、画面を合成音で読み上げるスクリーン・リーダーというソフトを搭載したコンピュータを用意します。このコンピュータでなら才能を的確に示せるかもしれません。

 ただし、通常、自分で文章を読めない学生がコンピュータに読んでもらったからと言って、スムーズに理解し、解答を構成できるとはかぎりません。そこで、受験生にもよりますが、回答する時間にも配慮を設けました。大体、通常の1.5時間ほどの時間が許されているようです。

 しかし、これではまともな競争にはならないという不満が出ます。かえって不公平だという意見が必ず出てきます。批判が起きて当然でしょう。

 もっとも強い批判は、今、まさに競争にさらされている受験生からのものです。受験生であれば、自分たちは過酷な受験競争に耐えているのに、その競争を「免除」されている者がいると主張するかもしれません。

 社会人になって働いている人はどうでしょう。その人たちは次のように言うかもしれません。競争では障がい者が不利な立場に置かれているのは理解できる。その不利益を是正するのが正義だと思う。しかし、社会に出て働く時には、企業の競争の論理に従うという前提がある。それに社会はきれい事だけで動いているわけではない。言葉にはしないが〈暗黙の了解〉は山のようにある。それをあからさまにバリアフリー・コンフリクトだと言い立てるのは精神構造が未熟だと思う。子どもっぽい気がする。〈正義〉は確かに必要だが、同時に社会には〈競争の論理〉も必要だ。

 多くの方が肯ける主張のはずです。こういう主張は、どこか変でしょうか?

☆   ☆

 日本は資本主義経済の社会です。民主主義、つまり市民(=国民、県民、納税をしている外国籍の人など)が異なる意見をぶつけ合い、合意を得て生活をしていく制度であることに間違いはありませんが、それとともに資本主義という経済システムは力が強い。圧倒的です。いきおい資本主義の覇者(つまりお金持ち)が社会の主流になることは当然なのです。

 企業はお金で測る利益を最大化することが使命です。それが企業の存在意義です。市場(しじょう)の動きに合わせて機敏に反応し、自在に商売の仕方を変えていく。ただし商道徳は守らなければなりません。商道徳と法律や、今日なら国際的な約束事を守りさえすれば、それは「健全な競争」なのですから、どんどんやるべきです。競争に負けるのは、負けるだけの理由(=怠け者であった、先見の明がなかった、etc.)があったからです。

 しかし、この論理でモノを開発し続けるとしたら、もっとも多数をしめる購買者の好むモノばかりが世に溢れることになりそうです。その結果、社会的マイノリティしか買わないモノは市場に出回らなくなります。あるいは、とんでもなく高いものになってしまいます。電動義手の値段や要約筆記者とか手話通訳者の労賃がそうだと思います(ちゃんと確かめたわけではないので、間違っていたら、ごめんなさい)。これでは社会的マイノリティの立場は不利なままです(し要約筆記者や手話通訳者も、せっかく高い技術を身に付けているのに、社会的な立場は不安定なままです)。

 先ほどの入学試験の配慮に対して批判した人のご意見は、どこが変なのでしょう?

 わたしは〈暗黙の了解〉や〈競争の論理〉のルールが、多数者の意見だけで決められている点だと思います。マイノリティの意見は、聞き慣れていないだけに珍奇に聞こえるでしょう。しかし、珍奇に聞こえるからと言って真実でないわけではありません。

 広く市場に認められた技術が「珍奇な障害者支援技術」に転化されている例を紹介しましょう。それは携帯電話です。スマートフォンではありません。プッシュ・ボタンがデコボコの、昔ながらの携帯電話です。スマートフォンは液晶画面でデコボコがないために、視覚を使わない人には使えません。また片手で操作はできたとしても、「できる」というだけで実用的ではありません。そのために左手だけで操作するわたしのような者には、片手にすっぽりと収まらないサイズのものは使えません。

 開発の分野では「リープ・フロッグ」(蛙飛び)という用語が使われているそうです(「役立つはずなのに使われない......」,p. 39)。発展途上国で顕著です。街もない、電気もない、水道も通っていないという村で、携帯電話だけが普及している不思議な場所が、地球上には案外多くあるそうです。そんなところでは家族や地域の人と共有で携帯電話を持ち、100円ほど払って取得した個人のSMSアカウントを利用する。携帯電話は便利です。遠く離れた村の人とでも、家畜の買い付けが交渉できます。バッテリーは「充電屋」にお金を払って充電してもらうのだそうです。

 この「リープ・フロッグ」は、もちろん障がい者にも当てはまります。携帯電話は広く認められた技術です。それが「珍奇な障害者支援技術」にも転化されています。例えばわたしは失語が出る時にも、携帯メールでなら安心してコミュニケーションができますし、視覚を使わない人は電話として普通に使っています。

☆   ☆

 ここまでは障がい者などの社会的マイノリティと普通の人の区別は明白だという前提で書いてきました。ところが現実の我われは、障がい者/非障がい者の境界を、いとも簡単に超えてしまうのです。

 どういうことか説明しましょう。飯野由里子さんは「障害者への割引サービスをずるいと感じるあなたへ」(129ページから146ページ)の中で、こう述べています:


「それまで自分とは歴然と異なる他者として捉えていた障害者が、実は自分と同じかもしれないという可能性に気付いた時、非障害者のなかにはどのような感情がわき上がってくるのだろうか。また、ヤングが指摘しているように、もしそうした感情が障害者に対する不満や敵意として表出され、両者の間に深刻なコンフリクトを生み出していく可能性があるのだとしたら、社会のバリアフリー化を支持するわたしたちの取り組みには今後どのような修正が加えられるべきだろうか。」(143ページ)



 ヤングというのはイギリスの社会学者ジョック・ヤングのことです (1)。彼は、安全な場所にいると思い込んでいる人が何かを不当に奪われていると感じたら、「福祉に依存している者」とか「働けるのに働こうとしない者」といった、(本当はそんなことはないのに)ステレオタイプ化されて描かれがちなマイノリティ(ヤングの元の文章では「貧困者」)に対して、理由なく敵意を抱く(142ページ)と述べています。

 これを読んだ時、わたしは震え上がりました。

 わたしの認識では、特に発達障がいでは定型発達者(つまり普通の人)と「発達障がい者」の間に明白な境界はなく、誰しもが大なり小なり発達のデコボコは抱えているものです。「自閉症スペクトラム」という、最近ではよく聞くようになった言い方はこの認識に立っています。このことを言い直せば「自分は健常だと自負していても、社会のシステムと競争のルールが少し変わっただけで、たちまち『障がい者』に落ちてしまう」人は、案外多いということです。社会システムや競争のルールを変えようなどと言っていると、とんでもない目に遭う。ヤングはそう忠告しているくれているのです。

 次に続きます。

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(1) ヤング,J.C., 木下ちがや・中邑好孝・丸山真央訳 (2008) 『後期近代の眩暈(めまい)――排除から過剰包摂へ』 青土社.
http://www.seidosha.co.jp/index.php?%B8%E5%B4%FC%B6%E1%C2%E5%A4%CE%E2%C1%DA%F4



三谷 雅純(みたに まさずみ)
兵庫県立大学 自然・環境科学研究所
/人と自然の博物館

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