ユニバーサル・ミュージアムをめざして75
『バリアフリー・コンフリクト』を読む-1
三谷 雅純(みたに まさずみ)
『バリアフリー・コンフリクト 争われる身体と共生のゆくえ』 (1) という本を読みました。
ありきたりの意見が載った本だと、軽く考えて読み始めました。しかし、この本には類書とはまったく異なる論理があり、考察がありました。しかもその論理には説得力があります。いつもこのブログには、値段の安い、手頃な本を紹介するように気を付けているのですが、この本は値段に関係なく読む価値がありました。
中邑賢龍さんと福島 智さん (2) が編者となって、多くの研究者や教員、当事者の言葉を集めて一冊にまとめた本です。立場はいろいろであり、意見もいろいろです。おのおのの著者が自分の頭で考えて書いたのですから当然です。ただし、どの著者の論点も、「バリアフリー・コンフリクトという新しい争いは、どう乗り越えたらいいのだろう」という一点に集約します。そこには経験の反映があり、さまざまな出合いからの思いがあり、実践から得た智恵がありました。決して「どうすれば乗り越えられるのか」という難問に、安心できる解答が提示してあるわけではありません。言ってみれば、この本は自分で考えていくための道しるべなのです。そこに読む価値があると思いました。
紹介します。
バリアフリーやユニバーサル、インクルーシブという言葉は、今や常識に近いものになっています。わたしがこのブログを書き始めた頃は、「ユニバーサル・ミュージアム? 何それ?」とか、「インクルーシブ・デザインって流行っているの?」という反応が、博物館人の中からも、現実にありました。それが(自分ではそれらの必要性が実感できなくても)そのような言葉を口に出すことが、ためらわれるようになりました。この数年のことだと思います。
これはこれでいいのです。ところが、バリアフリーが浸透しても、それによって全てがうまく行くかと言うと、どうもそうではないらしい。バリアフリーが浸透したはずの社会のあちこちで、二次的なバリアー、つまり新たな障壁が目立っているのです。そのバリアーにはどう対処したらいいのだろうと考えて書いたのが、この『バリアフリー・コンフリクト』です。
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バリアフリー・コンフリクトの例を二つ挙げます。
視覚で世界を認識しない人が街を歩く時、点字ブロックは欠かせません。多くの点字ブロックは弱視でも確認しやすいように黄色の素材でできており、盲人が使う白杖(はくじょう)でもわかりやすいように、野球のベースより少し小さいぐらいの大きさがあります。しかし、点字ブロックはツルツルしていて、特に車イス利用者にとっては「キャスターの向きが変わって進行方向が定まらない」のです。またデコボコしているために車イスで乗り上げると「振動で体位が安定しない」、さらには「雨天の時は滑りやすい」といった今までなかったバリアーが生まれました(24ページから26ページの「コラム1 〈点字ブロックに見るバリアフリー・コンフリクト〉)。
ここで「デコボコしているために『振動で体位が安定しない』」という訴えは、当事者でなければイメージしにくいかもしれません。蛇足ですが説明しておきます。体幹を支える筋肉が弱い人や体幹が曲がりがちで真っ直ぐに座れない人がいます。脳性マヒの人はそうです。そのような人が点字ブロックの上を車イスで通ると、姿勢が不安定になって恐いとおっしゃっている、ということです。蛇足でした。
ちなみに、わたしは歩くとき、車イスはおろか杖(つえ)も使いませんが、それでも雨が降って濡れていると、点字ブロックは滑りそうな気がします。そのために恐る恐る歩いています。あるいは、わざと点字ブロックを避けて歩きます。
これがバリアフリー・コンフリクト、つまり「バリアフリーの葛藤」の具体的な例です。視覚で世界を認識しない人にとって点字ブロックは、ぜひとも必要な道しるべです。街からなくなれば、この先は危ないのか、行って安全なのかがわからなくなります。しかし、車イスを利用する人にとっては点字ブロックの恐い人がいるのです。
赤ちゃんを乗せるベビーバギーにも、似たところがあるかもしれないと思ってベビーバギーを押すお母さんのようすを見てみました。しかし、車イスのような大きな一対の車輪と方向を決めるキャスターではなく、ベビーバギーは前輪と後輪が付いているので、点字ブロックの上でも「進行方向が定まらない」ということはないようです。ただし、赤ちゃんに振動が伝わるからだと思いますが、わたしが見ていたお母さんは車輪で点字ブロックをまたぐようにして進んで行きました。
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別の例を挙げましょう。
大人は赤ちゃんに呼び掛け、赤ちゃんはその声に反応して笑い、手足をバタバタさせます。これが聴者(=音や音声で世界を認識する人)の赤ちゃんの反応です。しかし難聴の赤ちゃんは音声で呼び掛けても反応できません。音が認識しにくいからです。すると困ったことが起こります。「ことば」(=ふつうは音声言語)の概念が育たないのです。ではどうするかというと、補聴器で音を拡大します。こうすることで音の世界が認識できるはずです。
もっとも、難聴には伝導性難聴と感音性難聴があります。伝導性難聴は聴覚自体に問題があって起こる難聴ですが、感音性難聴は耳の奥から神経や脳の聴覚を司るところに問題があって聞こえが悪くなります。多くの難聴者は感音性難聴で、たいていは耳鳴りを経験します。
赤ちゃんの時に補聴器を使い始めた子どもは「音に溢れた世界」を知り、「言語音」を取得する。めでたし、めでたし。
このように思うかもしれません。しかし補聴器がすべての難聴者に役立つというわけではないのです。補聴器で音を拡大したとしても、聴者が聞くようなクリアーな音は望めず、ノイズに埋もれた濁った音でがまんしなければいけないということは、よくあることだそうです。そこで救世主として現れるのが手話(=視覚言語)の存在です。
難聴者やろう者にとって、手話はなくてはならない〈ことば〉です。自分に認識できない口話(こうわ:クチビルの形から話を類推すること)で無理をしてコミュニケーションするのではなく、手話だと何でも自由に話せます。手話に支えられた文化、つまり視覚言語という独自の体系で生活することは、難聴者やろう者にとって何とも心穏やかです。
そして補聴器を使ったり、最近では人工内耳という機器をサイボーグのように手術で耳に埋め込む技術の開発は、手話やろう者の文化を否定するという主張がろう者の側から出されました(木村・市田, 1995)(3)。人工的に「聞こえを良くする」ことは、ろう文化という言語的マイノリティの抑圧だとおっしゃるのです(大沼直樹「人工内耳によって『ろう文化』はなくなるか. p. 65」)。そこに意見の対立が生まれます。これもまたバリアフリー・コンフリクトです。
そしてバリアフリー・コンフリクトは、点字ブロックや手話の使用にだけ見られるのではありません。もっとも厳しいコンフリクトが社会の主流で生活をする人びと、つまり自分は「健常だと自認する人びと」と「バリアフリー・デザインを必要とする人びと」の間で起こっています。
次に続きます。
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(1) 中邑賢龍・福島 智(編)『バリアフリー・コンフリクト 争われる身体と共生のゆくえ』(東京大学出版会、2012年 8月初版、2,900円)
http://www.utp.or.jp/bd/978-4-13-052024-9.html
(2) 中邑 賢龍さんのホームページは:
http://www.rcast.u-tokyo.ac.jp/research/people/staff-nakamura_kenryu_ja.html
福島 智さんのホームページは:
http://bfr.jp/
盲ろうの大学教員として非常に有名な方です。
(3) 木村晴美・市田泰弘 (1995) ろう文化宣言.現代思想,1995年 3月号,青土社.わたしは2000年 4月に再販された『ろう文化』で読みました。それほど木村さんや市田さんの「ろう者とは母語として手話を使うマイノリティだ」という主張のインパクトが高かったのだと思います。
三谷 雅純(みたに まさずみ)
兵庫県立大学 自然・環境科学研究所
/人と自然の博物館